【第11話】妻・加恵
天明五年、秋。
華岡青洲が京都から故郷へ戻り、すでに幾月かが過ぎていた。
父・直道を亡くし、華岡家の医業を背負うことになった青洲の日々は、以前にも増して忙しくなっていた。
朝から患者を診る。
昼になれば薬を調合する。
往診を頼まれれば村へ出向き。
夜になると、研究室へ籠もる。
眠る時間さえ惜しい。
2025年。
華岡蒼真として生きていた頃と、何も変わらない。
いや。
むしろ今の方が忙しいかもしれない。
「あなた」
声がした。
青洲は筆を止めた。
「ん?」
振り返る。
そこに一人の女性が立っていた。
加恵。
青洲の妻だった。
「夕餉の支度ができています」
「ああ。もうそんな時間か」
「もう、ではありません」
加恵は少し呆れた顔をした。
「とっくに夜です」
青洲は窓を見る。
確かに外は暗い。
「すまない」
「今日もです」
「今日も?」
「昨日も同じことを言いました」
「……そうだったか?」
加恵が小さく息を吐く。
青洲は苦笑した。
どうやら。
自分は2025年から何も変わっていないらしい。
手術が始まれば時間を忘れ。
研究を始めれば食事を忘れる。
医者としてはともかく。
夫としては。
「失格かもしれないな」
「何がです?」
「いや、何でもない」
青洲は立ち上がった。
加恵の後ろを歩きながら。
ふと不思議な感覚に襲われる。
華岡青洲の記憶。
華岡蒼真の記憶。
二つはすでに自分の中で混ざり合っている。
だから。
加恵という女性を知っている。
だが同時に。
蒼真としての自分にとっては、まだ知らない部分の多い女性でもあった。
青洲が京都で医学を学んでいた間。
加恵は華岡家を支えていた。
そして青洲が帰郷してから。
二人の夫婦としての時間が、本当の意味で始まった。
夕餉の席。
加恵が青洲を見る。
「最近、また薬草が増えましたね」
「分かるのか?」
「分かります」
「なぜ?」
「庭まで薬草だらけになっていますから」
「あ……」
青洲は言葉に詰まった。
「申し訳ない」
加恵が笑った。
「怒っているわけではありません」
「そうなのか?」
「ただ」
加恵の表情が少し変わる。
「何を作っているのです?」
青洲の箸が止まった。
「薬だ」
「それは分かっています」
「……」
「何の薬です?」
青洲は少し考えた。
いずれ。
加恵には話さなければならない。
「眠らせる薬だ」
「眠らせる?」
「ああ」
「眠れない人のためですか?」
「違う」
青洲は首を振った。
「手術を受ける患者を眠らせる」
加恵が瞬きをする。
「手術の間?」
「ああ」
「そんなことができるのですか?」
「まだできない」
青洲は正直に答えた。
「だから研究している」
加恵は黙った。
青洲は続ける。
「外科では、身体を切らなければ救えない患者がいる」
「はい」
「だが、切れば痛い」
今日まで。
何人もの患者を治療してきた。
傷を縫った。
膿を出した。
患部を切った。
そのたびに患者は痛みに耐えていた。
「もし患者を眠らせたまま手術ができれば」
青洲は言った。
「もっと大きな手術ができる」
「救える人が増える?」
「ああ」
加恵はしばらく考えていた。
「それなら、素晴らしい薬ですね」
「完成すればな」
青洲の声が低くなる。
「危険なのですか?」
「かなり」
加恵の表情が曇った。
「人を眠らせるほど強い薬だ。量を間違えれば、眠るだけでは済まない」
「……死ぬ?」
青洲は答えなかった。
その沈黙だけで。
加恵には十分だった。
「だから」
青洲は言う。
「急いではいけない」
異世界の神から与えられた能力がある。
生命解析。
完全記録。
超高速学習。
医神の眼。
それでも。
命を扱う研究に近道などない。
翌朝。
青洲は庭へ出た。
そこには研究用の薬草が植えられている。
曼陀羅華。
草烏頭。
そして、さまざまな薬草。
「あなた」
振り返ると。
加恵がいた。
「これは?」
加恵が曼陀羅華を見ている。
「触らない方がいい」
「毒なのですか?」
「薬にもなるが、毒にもなる」
「同じものなのに?」
「ああ」
青洲は植物を見つめた。
「薬と毒の境目は、思っているほど遠くない」
加恵はその言葉を聞きながら。
曼陀羅華を見つめた。
「では、その境目を探しているのですね」
青洲が振り返る。
「え?」
「あなたが毎晩していることです」
加恵は言った。
「人を救う薬になるところと、人を傷つける毒になるところ。その境目を探しているのでしょう?」
青洲は驚いた。
「……そうだ」
まさに。
その通りだった。
「加恵」
「はい?」
「頭がいいな」
「今ごろ気づいたのですか?」
青洲は笑った。
加恵も笑う。
その日の午後。
青洲が診療を終えて研究室へ入ると。
机の上が整理されていた。
「あれ?」
乾燥させていた薬草が。
種類ごとに分けられている。
そこには小さな紙まで添えられていた。
採取した日。
採取した場所。
乾燥を始めた日。
「これは……」
「私です」
後ろから声がした。
加恵だった。
「昨日のお話を聞いて考えました」
「何を?」
「同じ薬草でも、採った時期や場所で違うのでしょう?」
青洲は目を見開く。
「なぜそれを?」
「あなたの研究帳に書いてありました」
「読んだのか?」
「少しだけ」
「……」
「怒りました?」
「いや」
むしろ。
青洲は感心していた。
「助かる」
「本当ですか?」
「ああ」
薬草研究で重要なのは再現性。
同じ薬を作っても。
原料の状態が違えば作用が変わる。
そのため。
採取時期。
保存状態。
乾燥状態。
使用部位。
そうした情報を残す必要がある。
「では」
加恵が微笑んだ。
「これから私もお手伝いします」
「しかし……」
「患者を診ることはできません」
加恵は言った。
「医学も分かりません」
そして。
机の上の薬草を見る。
「でも、薬草を育てたり、整理したりすることならできます」
青洲は黙った。
2025年。
研究には多くの人間が関わっていた。
医師。
看護師。
薬剤師。
研究者。
技師。
決して。
一人で医学を作っていたわけではない。
だが。
この時代へ来てから。
自分一人で何もかもしようとしていた。
「そうか……」
青洲は呟いた。
「俺一人でやる必要はないのか」
「何か言いました?」
「いや」
青洲は加恵を見る。
「では、頼む」
「はい」
「ただし」
「はい?」
「草烏頭だけは勝手に触らないでくれ」
加恵が首を傾げる。
「そんなに危険なのですか?」
「かなり危険だ」
「分かりました」
その瞬間。
【SYSTEM 】
青い画面が現れた。
【研究協力者を確認】
【対象:加恵】
【研究補助適性:確認】
【長期研究プロジェクトを更新】
【麻酔薬研究】
【研究期間:未定】
【安全性確立:未達成】
青洲は画面を見つめた。
「研究協力者……か」
加恵には画面は見えていない。
「どうしました?」
「何でもない」
青洲は微笑んだ。
「よろしく頼む」
「はい、あなた」
この時。
青洲はまだ知らなかった。
これから続く研究が。
一年や二年で終わるものではないことを。
何度も失敗し。
何度も配合を変え。
安全と危険の境界を探し続ける。
長い年月。
そして。
その研究の先で。
今、目の前で笑っている加恵が。
青洲にとって最も大切な存在であると同時に。
麻酔薬完成への道を大きく左右する存在になることを。
夕暮れ。
庭の曼陀羅華が風に揺れていた。
青洲はその花を見つめる。
「必ず作る」
患者を眠らせる薬。
痛みを感じさせない薬。
そして。
「必ず目を覚ます薬を」
その言葉を。
加恵は青洲の隣で静かに聞いていた。
二人の長い研究の日々は。
ここから始まろうとしていた。




