救済の魔女 アニカ③
男は、死が怖かったのです。
病でも、老いでもありません。ただ、死というものが怖かった。夜ごと目を覚まし、自分がいつか消えるという事実を、何度も何度も確かめるようにして生きていました。妻がいました。子がいました。仕事もありました。それでも、眠れない夜の暗闇の中で、男はいつも同じ問いを繰り返して怯えていました。
死んだら、どこへいくのか。
自分は、どこへいってしまうのか。
ある晩のこと。灯りを落とした寝室で目を開けていた男の枕元に、救済の魔女アニカが現れ、男の顔をのぞき込みました。
「かわいそうに。ずっとそんなことを考えて怯えているのね」
アニカはそう言ってから、首をかしげて男を見つめました。
「……困ったわ。記憶だけを抜いても、あなたの身体そのものが、震え方を覚えているのね。これでは、中身を空っぽにしても、また新しい恐怖を詰め込んでしまうわ」
彼女は少し考えるふうでしたが、やがてひとり頷き、その真っ白な痣のある掌を、男の胸にあてました。
「こうすれば、もう二度と、喪失に怯える必要なんてなくなるわ」
男は声を上げることもできませんでした。
彼から引き剥がされたのは、記憶ではありません。
もっと、ずっと深いところ。
男の名前を呼んで泣いた母のこと、初めて魚を釣り上げた朝のこと、妻と交わした言葉、子の頭の重さ。
羞恥も、未練も、ちいさな意地も、眠れない夜に数えていた問いそのものも。すべてが、するすると抜け出ていきました。
アニカの掌の上で、それらはひとつの果実になりました。
ずしりと重く、皮が張り裂けそうなほど実の詰まった柘榴。アニカはそれを両手でそっと持ち上げ、しばらく眺めました。
「……これは、割ったりしてはいけないわ。この子はずっと、自分がこわれたり、なくなったりすることを怖がっていたもの」
アニカは柘榴を口元に寄せ、そのまま、丸ごと呑み込みました。
皮も、種も、重さも全部。
男という存在が、形を保ったまま、彼女の中へ落ちていきました。
「もう怖くなくなったでしょう? よかったわ、あなたを救けてあげられて」
寝室では男の妻と子だけが、まだ深い眠りについていました。




