第四話
その夜。
気疲れした身体を寝台に横たえても、睡蓮は眠りにつけず、無闇に寝返りを繰り返す。
夜に咲く花の香りを運び、そっと忍び込んできた涼風が、天蓋を揺らしても。
黄金の巻き毛や上気した頬を吹き撫でて通り過ぎて行っても。
熱が、去らない。
夢龍に抱きすくめられた、あの熱が。
睡蓮は心底、戸惑いながら、胸の高鳴りを持て余す。
あんなふうに、狂おしく求められたら。
揺らいでしまう。傾いてしまう。流れていってしまう。
心が、水のように。
滝壺へ、落下するように。
引力に逆らえず、吸い込まれてしまう。
夢龍の、激情に。
押し流されてしまいそう。
夢龍が好意を寄せてくれているのは、以前から知っていた。
銀月を介して、初めて出会った、その日から。
そう珍しいことでもなかった。
普通に、誰にでも、愛されるのが睡蓮だから。
あんなふうに、抱かれなければ。
耳元で、熱く、ささやかれたり、しなければ。
今までどおりに、素知らぬ顔で、軽くいなすことも、さらりとかわすことも、できただろうに。
きっかけを作ってしまったのは、迂闊にも、睡蓮自身。
肌が触れたら。
ごまかしようもなく、全部、流れ込んでくる。
睡蓮の鋭敏な神経は、それを遮断できない。
あのひとは、とても、あたしに飢えてた。渇いてた。
飲み干されるかと思った。
食べ尽されるんじゃないかと思った。
怖ろしかった。でも。
……そんなに嫌では、なかった。
あの飢えを、渇きを、満たしてあげたいと、思った。
それほどまでに、望んでくれるなら。
応えたいと、思ってしまった。
だって、銀月は。
そこまで、あたしを欲してはくれない。
「どうして他の女のひとはよくて、あたしは駄目なの?」
「駄目というより、きみとわたしはそんな関係ではないはずだ」
冷たい、言葉。
思い出すたび、心の傷口が開いて血が流れる。
昔は、銀月が。銀月こそが。
睡蓮に、飢え渇いている傷ついた獣のようだったのに。
睡蓮を、静かに、見守りながらも。
その瞳は、激しい飢餓感に苛まれていて。
銀月という砂漠を潤す水に、なりたいと。
銀月という闇を照らす光に、なりたいと。
銀月の抱える闇が、渇きが、深ければ深いほど惹かれた。焦がれた。
肉の誘惑よりも、肌の触れ合いよりも、本当は。
必要とされること、求められることに、睡蓮は、弱かった。
万人に愛され、求められながら。
その中でも、特に、誰に最も切望されているかを本能で察知して、そこへ誘い込まれてゆく。
正当な手段に則って召喚されたが最後、その者の願いを叶えずにはいられない妖精か神霊か、あるいは魔人のように。必要とされたら睡蓮は、相手を愛さずにはいられない。
目の前で誰かが溺れていれば、手を差し伸べずには、いられない。
たとえ力及ばず、もろともに水中へ沈もうとも。
子供の頃は、父さんだった。
たくさんの人を雇い、敬われ、畏れられながら、だのに、いつも、孤独だった、大人の男のひと。
睡蓮は、彼に必要とされていると感じた。
それはもう、熱烈に。
ここへ預けられてからは、銀月。
豪商、李家の嫡子として一目おかれ、多少の放蕩も許され、なに不自由ない身分でありながら、暗い影をまとう、睡蓮の名付け親。
全幅の信頼を置いていた庇護者に捨てられ、嘆き悲しむ睡蓮よりも、銀月のほうがずっと深手を負って苦しんでいた、あの出会いから。
睡蓮を最も必要としているのは、銀月だと。
銀月だと……信じ込んでいたのだが。
錯覚に過ぎなかったのかも、しれない。
思い起こせば、子供の頃だって。
錯覚に、過ぎなかった。
父さんは、あの女のひとを選んだ。
銀月にも、睡蓮は、選ばれなかった。
妓楼の女たちが噂する場面に、出くわした過去が甦る。
立ち聞きなど、するつもりはなかったのだが。
彼女たちは銀月の、客としてのふるまいを微に入り細に渡って、声高に語り合っていた。
睡蓮は、その場に凍りついた。
気配を消して、そっと立ち去ろうとしたのに、足元がよろけて、派手な物音を立ててしまい、皆に存在を気づかれた。
軽快な動作を身上とする踊り子らしからぬ、とんだ失態。
睡蓮は、当時まだ幼かったけれど。
花街に暮らす者として、色事の知識は自然と身についていた。
だから話の内容は、充分に理解できた。
睡蓮が銀月の名づけ子だと、この界隈で知らぬ者はいない。
「ふふふ、仔猫ちゃんには刺激が強すぎたかしらねえ?」
勝ち誇ったような、流し目。
追随する、哄笑の渦。
父さんとその愛人との情事を目撃した、あの衝撃が牙を剥き、睡蓮は二重に、打ちのめされた。
ひどい深手を負いながらも。
当の銀月に対しては、なにも言えなかった。
父さんの、ときみたいに。
拗ねて、反抗的な態度をとって、捨てられるのを怖れて。
ずっと沈黙を、通してきた。
あの日の夕暮れ、中庭で、銀月をなじるまでは、おくびにも出さずに耐え、銀月が望むとおりの無邪気で幼い睡蓮を、近頃では、なかば演じてさえ、いたのに。
完膚なきまでに、現実を思い知らされた、逢魔が刻。
銀月の庭に招かれて、ともに睡蓮の花を眺めたのは、もはや遥か昔の出来事なのだと。
きみはとても綺麗で、ものすごく可愛い女の子だよと、やさしく慰めてくれた少年は、もう、どこにもいないのだと。
睡蓮とは「そんな関係」ではないと。
「そんな関係」になる気など、さらさらないのだと。
冷酷に宣言する、冴えた美貌の、謎を秘めた青年。
それが、今の銀月。
睡蓮は、銀月に、求められていない。
睡蓮は、求められてもいない者のそばには、いられない。
信じるものがいなくなれば消えるしかない、架空の聖獣の如く。
銀月が、遠ざかる。
夢龍が、近づく。
「おれを選んでくれ、頼む」
甘いささやき、熱い腕。
力強い鼓動を打つ胸、大きな手のひら、震える指先。
引き潮にさらわれるような、強引な抱擁。
「おれを選んでくれ、頼む」
睡蓮は、夢龍を、選んだ。
熱烈に、望まれるままに。




