第三話
「あたしは銀月様を見損なったよ。
睡蓮を振るなんて、一体どういう了見だか」
睡蓮が飛び出していってから。
部屋に取り残された女将・房子は、銀月に対する不満をあからさまに吐露。
「睡蓮の気持は、誰が見たって丸わかりじゃないか。
当の銀月様が気づいていないわけがない、それなのに知らんぷりを決め込んでさ。
銀月様が旦那候補に名乗りをあげさえすれば、睡蓮は迷うことなくあの方を選び、皆が納得して、八方丸くおさまるってのに。
本当に、なに考えてるんだろう。
昔は、少しは可愛らしいところもあったのに、今ではすっかり、底の知れない謎めいた男になっちまって」
最後は、嘆息まじり。
「銀月様は、自分は特別だという思いがおありだったのでしょう。
睡蓮を他の男と競い合い奪い合うなど、到底考えられなかったのではないかしら」
珍しく蓮姫が、とりなすような発言を。
銀月の『裏の顔』を知っている蓮姫なればこそ。
何故、銀月が『裏の顔』を持ったのか、知っているからこそ。
蓮姫は少しばかり、銀月の報われなさが気の毒になったのだった。
それは、朝露ほどの同情に過ぎないけれど。
中途半端な蓮姫の同情は、房子の怒りに油を注ぐ。
「それを思い上がりと言うんだよ。
女の子は花なんだ。
とくに睡蓮は、おそろしいくらい繊細にできてる。
惚れた男の仕草ひとつ、言葉ひとつで天国へ昇りつめもすれば、地獄へ突き落とされもする。
その鋭敏な感受性があるからこそ、見る者すべてを釘づけにするほどの舞を披露できるんだ。
あやうい花だよ、睡蓮は。
いくら愛していても、その男にめちゃくちゃに翻弄されて壊されるくらいなら、他の男にさらわれたほうが、まだましさ」
「でも……それじゃあ睡蓮の気持は……」
睡蓮の親友・英愛が、おずおずと口を挟む。
「睡蓮は女よ、英愛。これ以上ないくらい、骨の髄まで、女」
蓮姫は、房子が言い淀んだ後を引き継ぐ。
さらに、冷徹な口調で。
「あの娘は、肉の誘惑に弱いわ。肌に触れられたら、それを心地よく感じてしまったら、逆らえないの」
「そ、そんなこと……!」
「あなただって気づいているはずよ、英愛。睡蓮に触れる機会は、多いほうよね?」
たしかに、英愛が睡蓮に直接触れる機会は、酒楼の誰よりも多い。
親友だし、昔は睡蓮の付き人として甲斐甲斐しく世話をした。
正直、自分以外の誰にも、触れさせたくはなかった。
できるなら、いつまでも、独占していたかった。
「睡蓮は肉の誘惑には滅法弱いし、なお始末の悪いことに、自分が相手かまわず強烈に誘惑してる事実にも一切、思い至らない。
まるで子供が真剣をふりまわしているようなものだわ、危険きわまりないのよ。
ねえ英愛、あなたは睡蓮と二人きりでいて、無防備に身を委ねる彼女をまのあたりにして、おかしな気分になったことが一度もなくて?」
蓮姫の問いに、英愛はカッと頬に朱をのぼらせる。
思い当たるふしが、あるからこそ。
たった今、睡蓮と夢龍が二人きりでいることに、焦燥を覚えているのだ。
後生大事に宝珠を抱く、龍の如く。
睡蓮を、自分ひとりの手のひらの中に、ずっと閉じ込めておきたいという強い欲求に駆られたことは、何度もある。
そして、そんな思いにとらわれるのは、自分だけではないだろうとも、容易に想像がついた。
誰もが、手中におさめていたいと願う。
睡蓮とは、そういう存在。
とはいえ英愛自身は女だし、同性という縛りは越え難く、恥じらいも慎みも、また手放し難かった。
けれど夢龍は、男。
抑えのきかない、より欲望に忠実な、異性。
本当は誰がなんと言おうと、力ずくで阻止されようとも、今すぐ部屋を飛び出して、夢龍と睡蓮の間に立ちはだかりたくてたまらない。
……あなたもずいぶんと真っ直ぐな気性だこと、英愛。
とりつくろうことも、できないのね。
加虐性を慈母の微笑で覆いつつ、英愛の返答を待たずに、蓮姫は続ける。
「あれで心まで真性の淫乱だったら、救いようがないところよ。
男には玩ばれ、女には嫌われ、孤立して」
「り、蓮姫姐さん、いくらなんでも、あんまりだわ、睡蓮は、そんなのじゃないわ!」
「そう、そんなのじゃないから、あたしたちはあの娘を守ってきた」
蓮姫の後を引き継いだのは、房子。
「睡蓮の放つ色香をうまい具合に調節して、舞へと昇華させて。あたしなんかはそれを利用して、儲けさせてもらったクチだ。お互い様と言えばそれまでだが、あたしはあの娘に恩を感じてる。だからこそだよ、あの娘には、幸福になってもらいたいのさ。
睡蓮の惚れた銀月様が睡蓮を幸福にしないなら、他の男にしてもらうまでさ。
あたしははっきり言って相手が誰であろうと構わないんだ、睡蓮が幸福になってくれさえすれば」
心が叶わないのなら、せめて、身体だけでも。
房子は最後まで言い切らずに、深いため息をついた。
重苦しい沈黙が、垂れ込める。
「……身体だけなら、わたしが悦ばせてあげても良いのだけど」
蓮姫が、ぽつりと呟く。
がたん、と大きな音を立てて、英愛が椅子から転げ落ちた。
「あら、大丈夫?」
手をさしのばした蓮姫を見て、英愛は床を、後ずさる。
しらけた蓮姫は肩をすくめ、手を引っ込めて、
「安心して、英愛。あなたに食指は動かないから」
……それはそれで、ちょっぴり不愉快なのは、何故かしら。
英愛は顔をしかめて腰をさすりながら、椅子の位置を元に戻して、座り直した。
そのとき、二人の護衛に挟まれて、睡蓮が戻ってきた。
女将・房子はしかつめらしい顔を作り、睡蓮へ厳しい一言。
「次の方がお待ちだよ。早くそこへお座り」
「はい……申し訳ありませんでした」
睡蓮はしおらしく頭を垂れ、席に着く。
「ねえ……大丈夫?」
英愛が睡蓮に、小声で訊ねる。
睡蓮は、うん、とうなずいて微笑んでみせた。
その微笑を間近で眺め、英愛は虚空を仰ぐ。
睡蓮ったら、絶望的に、嘘が下手なんだから。




