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誓言 ~砂漠を渡る太陽は銀の月と憩う~  作者: 中山佳映&宝來りょう
シーズンⅣ(りょう担当)
21/66

第四話

 上や

 我君と相知り

 長命絶え衰ふること無からんと欲す

 山におか無く

 江水為に竭き

 冬雷 震震として

 夏に雪 

 天地合すれば

 すなわち敢えて君と絶たん


【訳】 

 天よ わたしは誓う

 君と出逢い

 命続く限りこの思いが衰えることなどないと

 山がその高さを失い

 川の水が枯れ

 冬の雷が響き渡り

 夏に雪が降り

 天と地が合わさり、この世の終わりが来たならば

 わたしは始めてそこで君への思いを絶とう


 庭に下りた銀月は『上邪』を詠う低い声に足をとめた。

 その声は蔡を訪れる吐蕃(とばん)(*1)の僧が経を誦すがごとく、低く朗々と流れていく。

 ただ、吐蕃の僧と異なるのは詠われているのが相聞の詩であり、その声が苦しいくらい哀切に満ちていることだ。

 

 青龍の庭 ―――――― 。

 東方と春季を司る四神(*2)の名を戴いた庭は初夏の今、訪れる人とてないはずなのに。砂なつめの樹の下にひとりの男が佇んでいる。

その人物はなんと銀月がこれから訪なおうとしていた、銀月の父、李水月だった。

 水月は鈍色の胞から手を伸ばし、砂なつめのいまだ青い実を毟り取った。そして、それを口に運ぶ。口が曲がるほどに酸っぱいと知っているだろうに。

 実際、酸っぱかったのだろう、みるみる顔がしかめられる。 

 けれど、銀月の瞳には彼の顔が青い実を齧ったために歪められたのでなく。たとえば、けして取り戻せない何かと惜別したために歪んだように思えた。


 一瞬のち、そんな莫迦なと思う。

 自身の半生を李家の事業拡大に捧げ、事実それを成功させた男に何の憂いがあるというのか。

 しかも、相愛の女と結ばれ、その女との間に三人の子まで授かったのだ。彼の人生は順風満帆といえるだろう。

 ただ、銀月という放蕩息子を嫡子としなければならなかったことを除いては。

 

 銀月の(くつ)が小枝を踏んだ音に水月が振り返り。

 とたん、彼の顔は砂なつめの青い実を()んだ時以上にしかめられる。

 いつもの銀月ならば、ここで見ないふりをして通り過ぎて行くところだが、あいにく今夜はこの男に用事がある。

 仕方なく、声をかけようとして。

 けれど、目の前の男をなんと呼び掛けたものか、しばし考えあぐねた。

 公的な場以外、会話を交わしたことがない、けれど自分の父である男を。まさか、今更父上と呼べるはずもない。

 銀月は思い悩んだ末、目下の者が目上の地位のある男性を呼び掛ける呼称「老爺(らおいえ)」を使うことに決め、「李老爺。少しお時間をいただけませんか?」と声をかけた。

 

 刹那、水月の切れ長の瞳が大きく瞠られる。

 まるで、水に映った月に声をかけられたように。


「ああ。きみ、そこに座るかい?」


 けれど、返った声の調子は親しみに満ちていて、銀月は思わず拍子抜けしてしまった。

 これが自身を生れてより遠ざけ続けた父なのかと。

 それにしても久しぶりに間近で見る父は思ったより老けていた。(びん)に白いものが交じり、眼尻には幾つも皺が刻まれるほどに。

 昔は役者絵から抜けでたごとく、稀な美男と思ったものなのに。

 そのせいか、いまだかつて父との相似を感じたことはなかった。

 けれど、こうして年を経た今、ほんの少し懐かしさを覚えるから不思議だ。


 父が指し示した砂なつめの樹から三尺ほど離れた岩に、二人並んで腰かけると、思った以上に緊張している自分に気付く。

 少しの逡巡の後、ようやく口を開こうとした銀月より先に水月が声をかけてきた。


「銀月。ロプノール湖の水は後十年程で干上がるとのことだが、遷国は順調に進んでいるのかい?」

 

 視線を所在なさのために地面に落としていた銀月だが、驚愕のあまりぱっと顔をあげた。

 そして、目前の父の顔をまじまじと見つめる。

 まったく何たることか。自国の一大事を隣家の猫が仔を産んだかのように話すとは。

 もちろん、この男は大商人だ。

 かほどの国家の一大事を知らぬわけはないとは思っていた。

 だが、銀月がその大事に関っていることまで承知とは。飄々とした物言いながら、李水月という男は存外喰わせものなのかもしれない。


 あれは確か、銀月、十八の年。

 すなわち、七年ほど前の正月。

 銀月はほんの戯れにロプノールの湖畔に棒杭を立てた。

 いや、おそらく墓標のつもりだったと思う。睡蓮がいなければ死んでいただろう自分への。

 そして、二ヶ月後の早春。

 棒杭はタリム川が運ぶ天山山脈からの雪解け水で、満々と水を湛えた湖中にその姿を没していた。

 けれど、二年後の早春、銀月の立てた棒杭は三寸ほど湖面からその頭を出しているではないか。

 そして、その次の年は八寸ほど。

 もしかしたら、ロプノールの湖水は年々減ってきているのではないだろうか。

 そんな思案を巡らせた銀月の背筋を冷や汗が幾筋も伝っていく。春はまだ訪れ来たばかりというのに。


 銀月が暮らす蔡国にとってロプノール湖を唯一の水源。

 なぜならば、タクラマカン砂漠に雨が降ることなど、めったにないのだから。

 もし、このままの勢いで湖水が減り続けていったなら、この国は早晩滅びてしまうだろう。


 母を亡くしてより、なんの目的も見出せぬまま、ぶらぶらしていた銀月だが、自国の存亡の危機には強烈に背中を押された。

 もちろん、測量技術など持ち合わせていない。だが、それでも、自分にできる範囲のことはしなければ。とりあえず、真実ロプノールの水が減っているかどうか調査をしよう。

 銀月は当時、親しくなったばかりの夢龍の家の書庫から測量の本を漁り、手探りで測量を始めた。

 それとあわせて、何故ロプノールの水が減ったかの調査も行う。

  だが、思いおこすだに、ここ数年、暖冬の年はなかった。

 それに加え、天山山脈の降雪量が激減したという話も聞かない。

 ならば、ロプノール湖に注ぐタリム川の水量だけが減ったのだ。それ以外の結論は考えられない。


 銀月は放蕩三昧しているのをいいことに二十三才の年。タリム川の上流を遡りはじめた。天山から蔡までのどこかでおそらく、タリム川の水を大量に使い始めた国、あるいは村があるはずなのだ。

 タリム川に沿って、砂漠公路を辿り、数百里。

 新興の国家ホータン ―――――― 。

 中華の領土争いから逃れてきた人々が住むその国では、綿花の栽培がさかんに行われていた。

 だが、砂漠で綿花の栽培とは笑止。

 どれほどの水を必要とするかわかっているのか。しかも、その綿花畑は年々広がり続けている。

 だが、それを諌めようにも銀月はただの外国人、しかも一個人でしかない。まして、言葉もあまり通じない外国(そとつくに)にこれ以上留まってもできることなどあるわけもなく。銀月は再び自国への道を辿りはじめた。


 途次、銀月は考え続ける。

 ロプノール湖の水量の激減。

 これは蔡という国家の一大事。存亡の危機といっていい。

 だが、銀月がもし、工部や礼部に奏上したならば、おそらくホータンとの間に戦が起るだろう。銀月は李家の嫡子。その言を尚書令(*3)とておろそかにはできないのだから。

 銀月の心は璃安に近づいていくごとに重くなっていった。

 もし、戦が起こったら、たとえ蔡が勝ったとしても、睡蓮はいかほどに傷つくだろうと考えたからだ。

 睡蓮は無駄と思えるほど明るい性格だが、その実、梃子でも動かない頑固なところを持ち合わせている。

 彼女は十年程前に戦によって滅びたマリカワト王国の王族の生き残り。だが、それをけして銀月にすら話そうとしない。

 それほどに戦争は睡蓮を傷つけたのだのだといえる。


 蔡の首都・璃安に戻り、再びロプノールの畔に立った銀月は工部の役人がロプノールの水位を調べてるのに行きあった。

 銀月がすぐさま自身の名を名乗り、今まで経過をざっと説明すると、役人たちは顔色を変え、銀月を工部省の尚書と侍郎(*4)引き合わせてくれた。

 銀月が尚書室で訊かされた二高官の話をかいつまむと、工部では三年ほど前にロプノールの水位の低下に気付いたものらしい。もちろん、その理由も新興国ホータンが綿花の栽培を始めたからだとすぐに知れた。

 すぐさま、今の君主・(かい)王太后の名でホータン国に使者が送られる。だが、ホータンからの返答は想像を絶するものだった。

 いや、同じ人間なら同情を禁じ得ない内容だった。


 いうなれば、かの土地はまったく滋養に富んでいない。いや、土地すべてが砂なのだから、それは当然といえる。

 だが、同じタクラカマン砂漠にあるとはいえ、タリム川が上流から運んだ肥沃な土で、各種の果実や作物が溢れるほどに取れる蔡とは余りにも違う。

 しかも、敗戦により追われたホータン国民は疲労の度合いが著しく。もし、国をあげての綿花栽培という事業がとん挫すれば、すべての国民が餓死してしまいかねないのだという。

 なるほど、土地に滋養味があまり要らず、素人にも比較的栽培の容易な綿花はホータン国にはうってつけだろう。しかも、胡の国を始め、綿を必要とする国はいくらでもある。

 ただ、砂漠での栽培は、呆れるほど水を使うことを除けばだが。


 銀月は心中、ホータンとの戦を避けられぬことと覚悟した。

 櫂王太后は慈悲深い名君と評判だが、自国を犠牲にして他国を救うほど無能だとは思えない。

 だが、そんな銀月の心を読み取ったものか、工部尚書は意味ありげな笑みを浮かべた。そして、誇らしげに口を開く。


「陛下はまず、蔡にホータン国民すべてをわが国に招こうとお考えになられた。

 だが、わが国土はホータン国民二万を受け入れるほどの余地がない。

 そして、もしホータンと戦争となればこちらもまったく無傷とはいかないだろう。しかも、ホータン国は歴史からその姿を消してしまう。

 ホータン国民すべての命と我が国民の少なからぬ犠牲。

 そちらを選び取るのはすぐれた君主の取るべき道ではないと陛下はおっしゃられた。

 そこで協議の末、第三の案が選ばれた。国移しというな」


 国移し ―――――― 。

 それを聞かされた銀月はすぐに答えるべき言葉が見つからなかった。

 一体、どこの君主が見も知らぬ弱小国家のために、現在栄えている国を捨てようなどと考えるだろう。ホータン国さえ滅ぼしてしまえば、自国は今までどおり安泰なのだから。

 だが、同時に銀月は櫂王太后という女性の器の大きさに感じいっていた。

『惻隠の情無きは人にあらず』(*5)

 彼女は激しく反対意見を述べた官吏たちをそう諭したのだという。


 まだ宮廷のあちこちに反対の根はくすぶっている。

 だが、ホータンの民二万人と我が国の民五万を一人も損ぜず生かすことが可能ならばそれにこしたことはない。

 櫂王太后は君主として、人が生まれながらに持つ他人を憐れみ悼む心に訴えたのだ。そしてそれは成功しつつある。


 その後、銀月は工部の二高官の依頼で、陰ながら国移しの手伝いをすることになった。

 もちろん、いずれに国を移すかとも大事だが。

 国民(くにたみ)が朝に従い、穏やかに国を出る。かほどに重要な課題はあるまい。

 銀月は櫂王太后の言に感じ入り、自身の璃安一の貿易商の嫡子という立場を最大限に利用して、表と裏から人々の煽動を始めた。

 まず、人々に覚えこませるのはいかに君主・櫂王太后が名君であり、国民に慈悲深いお方であるかだ。


 銀月が国民の煽動を行うのに妓楼に入り浸っていた自身の悪行が役に立った。

 男は女を欲する以外にも妓楼を利用する。それは概ね接待などだが、身分の上下に関らず、男ならば必ずここにやってくる。

 そして、この場所ほど男どもが気を抜く場所もないのだ。

 銀月は二、三か月に一度、通う妓楼を変えながら、自身の活動を速やかに進めていった。おかげで、璃安市中で櫂王太后の人気は驚くほどに高まった。

 もし、櫂王太后が命じるなら、いや彼女が共に行くならばどんな未開の地へも恐れず踏み出すほどに

―――――― 。


 だが、銀月はあくまでも裏方である。

 共に妓楼通いをする夢龍にすら銀月は自身がそういった活動をしていると気づかせていない。

 だが、ほとんど顔を合わすこともないのに、銀月のすべての行動を把握している人物がいたとは。

 銀月が顔色を変えただけで済んだのは、けだし僥倖といえるだろう。


 夏の初め。

 夜は更けゆくが、月はいまだのぼらず。

 むっとする熱気を払うように銀月は扇を広げて煽ぎ、そしてまた畳み。ふふと笑んで言う璃安の表舞台に立ちつづける狐狸のような男に。


「はてさて、老爺の枕辺に狐狸でもでましたか?」

 

 事は国の大事。例え、父であろうと言質をとられるわけにはいかないのだ。


「ん? そうだったかな。どうだったんだろう?」

 

 銀月の父である男は本当に分からないと言ったげに首を傾げる。


「まぁ、人の一期など狐狸に謀られたようなものかもしれないがね。

 それで、銀月。きみはわたしに用があるのだろう。

 きみの可愛い姑娘(*4)のことかな?」


 銀月は再びの驚きは隠すことができなかった。

 腰かけ代わりにした大岩からつと立ち上がると、水月の前に立ちふさがり、詰め寄った。


「なぜ、それをご存じなんです!?」


「なぜと訊くかね?

 きみの父だから。それ以外の理由が他にいるかね。

 これでも、きみの事はすべてとは言わないが知っているつもりだ」


 水月の真摯な、それでいて父としての誇りに満ちた眼差しが銀月を見つめ返してくる。


 「きみはけして信じないだろうが、わたしは銀月、きみを愛しているのだよ。

何故なら、きみはわたしが愛した女性が遺してくれたたった一人の子どもだから」


 銀月は父が言う通り、そんなことを信じられるものかと声を大にしていいたかった。

 けれど、自身を見上げてくる父の瞳には一点の曇りもない。


「ならば、何故母はひとりで死なねばならなかったのです?

 あんな北向きの薄汚れた部屋で、県正の姪たる媽々が!」

 

 銀月は激情の余り、扇の親骨部分を水月が腰かけている岩に叩きつけた。すると、山の端が描かれた扇は中心から真二つ折れてしまう。

 だが、それでも水月は少しも動じない。


「月梅がそう望んだからだよ、銀月。

 心根の優しい彼女は自分がこれ以上、争いの火種になるのを望まなかった。

 何故なら、きみの母上は自分の輿入れがわたしと明華を仲違いさせたことをいやというほど知っていたから。

 もちろん、それは正しくない。例え、月梅でなくてもわたしと明華は仲違いしただろう。それはわたしと明華の間のこと。彼女に咎はない。

 だが、きみも知っての通り、月梅は汚泥に咲いた蓮のごとき女。

 自身の存在が明華を苦しめていることを事のほか気にしていた。

 だから、彼女は何も望まなかった。夫であるわたしの愛さえもね。そして、ひっそりと死んでいった」


 いったんそこで言葉を切った水月の眉が苦しげに寄せられる。

 おそらくそれは愛し尽くさないまま黄泉路へと旅立たせてしまった妻への深い悔恨ゆえ。

 父は左頬に涙が零れるにまかせ、深く息を吸い込むと再び話を続けた。彼にとって辛く苦しい話だろうと思われるのに。

 

「だが、銀月。

 例え、望んで妻に迎えたのではないとはいえ、そんな天女のごとき女性を一体どこの男が愛さずいられるというのだろう。

 わたしは水が高から低へと流れるように月梅を愛したよ、それは自然にね。

 そして、感謝している。きみを心根の正しい青年に育ててくれた月梅に・・・・」


 父は話の間中、涙を流しつづけていたが、それでもけして俯こうとしなかった。流れ落ちた涙が膝頭の胞の色を変えても、銀月を深く静かに見つめながら話を続けた。

 銀月はそんな父の姿を見、母への深い愛を思い知らされないではいられなかった。

 そして、父が二人の女性の間で、長いこと悩み苦しんできたことをも。

 だが、そうと知ったからといって父をすぐには許せはしないが。でも、これからは少しだけ理解したいと思える気がした。


「妻を娶らば才長けて、見目麗しく情けある。

 月梅はその通りの女性だった・・・・。

 そして、わたしはそんな彼女を愛してしまった。

 わたしはかつて、明華を、明華だけを愛するとテングリに誓いをたてたのにね。

 結局、それは果たすことはできなかった。

 だが、わが息子、銀月よ。きみはけして間違ってはいけないよ」


 父の言葉が強く優しく銀月の心に沈みこんでいく。


「もし、きみがかの姑娘を魂の半身と思うなら、すぐに彼女のもとへ行きたまえ。身分の差など人が愛し合うのに何の障害にもならないのだ。

 きみが真実、愛するものと共に暮らせるというなら、わたしが生涯をかけて築き上げた身代さえ少しも惜しくはない。

 それから・・・・今まで本当に済まなかったね。

 わたしがきみを避け続けたのはきみを愛していなかったからではない。きみの顔を見るのが苦痛だったのだよ。

 きみは幸せにすることができずに逝かせた月梅にあまりにも似すぎていたからね」


 水月はそう言って、銀月に深々と頭を下げた。

 そして、再び顔をあげた父は若い頃に戻ったように魅力的に微笑んで銀月を見つめていた。


「さあ、行きたまえ。

 なにを愚図愚図しているんだね。

 きみの姑娘は今頃、焦がれるほどにきみを待っているだろうよ」


 父にポンと背中を叩かれた銀月は少しだけよろけたが、それでも大きく頷いた。

 睡蓮を手に入れるための金を父に用立ててもらうために訪れようとしたのだが。こんな場所で思いがけなく父と会えたうえ、『きみが真実、愛するものと共に暮らせるというなら、わたしが生涯をかけて築き上げた身代さえ少しも惜しくはない』とまで言ってもらえるとは思ってもいなかった。水月は十中八九、睡蓮との仲を許しはしないだろうと思っていたから。

 銀月の心に睡蓮を得られるかも知れないという喜び。と同時に今まで憎み続けてきた父との新たな関係への期待が渦巻く。

 まさに今、銀月を中心に“運命の輪”が回り始めていた。


 銀月の逸る心は一足早く、睡蓮のもとへ向かっている。

 だが、銀月は踵を返そうとして、不意に立ちどまり、父に向って深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、李老爺」


 そして、父が大きく頷くのを確かめてから、銀月は走り出す。

 睡蓮に出逢ったのは宿命だと、そして愛し合ったのは前世からの定めなのだと心が叫びだすに任せて。

 ああ。テングリよ。初めてあなたに希います。

 わたしが行くまで、彼女を誰にも渡さないでください。

 わたしは彼女を愛しているのです。

 たとえ、天と地がその狭間で二つに合わさろうとも。永遠に。




 *1 吐蕃(とばん) 今でいうチベット


 *2 四神ししん 古代中国神話の神。青龍(東・春)、白虎(西・秋)、朱雀(夏・南)、玄武(冬・北)を司る。天帝に使えるという神獣。


 *3 尚書 中国、三省六部のうち。六部りくぶの長官をいう。


 *4 侍郎 六部の副長官。


 *5 惻隠の情 人を憐れみいたむ心。

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