【朝が来る】3
「初めまして」
洋二の前に表れたのは、どこか幸の薄そうな、色白の女性だった。左目の下にほくろがある。肩ほどの長さの黒髪がさらさらと揺れていた。
「絵里と申します」
洋二は咄嗟に言葉を発することが出来ず、固まってしまった。
「あの……?」
困ったように顔を覗き込まれ、洋二は返事をしなければと口をぱくぱく動かした。
「あ、あの」
裏返った声が出てしまい、一度咳ばらいをして続ける。
「え、海老原洋二です。よろしくお願いします」
思いがけず大きな声が出た。恥ずかしくて、頬が熱くなる。
「洋二さんですね」
絵里は穏やかな笑みを浮かべ、洋二の手を取り、両手で包んだ。人肌の温度だった。思わず洋二も握り返す。柔らかく、華奢な手だ。
「そろそろ、よろしいですか」
野々村の冷たい声が割って入った。洋二ははっと我に返り、さっと自分の手を引いた。絵里は微笑んでゆっくりと手を戻した。
洋二が治験場に着いたのは今朝だった。
カラオケ店での面接を終え、野々村に指示された通り駅前の裏路地に向かうと、黒服の男が二人、洋二のことを待っていた。
路上に停められた黒いセダンに乗り込み、膝の上にボストンバッグを乗せた。無言の男達に緊張しながら後部座席に揺られていると、ペットボトルを手渡された。
「そろそろ喉が渇きませんか?」
「あ、ああはい」
洋二が頷くと、黒服はペットボトルを差し出した。
「少量の安定剤を入れています。面接時の同意書にも記載があります。体調に問題があればすぐ停止しますので安心してください」
一瞬悩んだが、洋二はペットボトルの中身を一気に飲み干した。面接からずっと緊張していて、喉はからからだった。
飲み干した水が体に染み渡る。次の瞬間、強烈な睡魔に襲われた。助手席に座った黒服の男はそれが分かっていたかのように「もしも眠ければ、眠ってしまっても構いませんよ」と言った。洋二は必死に目を開けようとしたが、あっけなく限界を迎え、意識を失った。
目が覚めるとこの部屋のベッドに横になっていた。真っ白い部屋に、真っ白いベッドが置かれている。まるで病室のようだと思った。
洋二の腕はまくられていて、注射針を抜いた後のガーゼテープが貼られていた。自分の置かれている状況が分からず、洋二は焦って体を起こした。ベッドの脇に座っていた男と目が合う。
「おはようございます」
ふちのない眼鏡をして白衣を着た青白い顔の男に、洋二は見覚えがあった。
「野々村さん……」
「はい。野々村です。海老原さん、ようこそいらっしゃいました」
目を丸くする洋二を見ても、野々村の口調は滑らかなままで、止まる気配はない。
「ここはこれからあなたに暮らしてもらう治験場です。本土導入前の社会適応モデルとして設計された施設です。場所は開示出来ません。ご了承ください」
「はあ」
「お休みの間に、身体検査をさせていただきました。入社前の健康診断、といったものだと思ってください。特に問題はないようですので、すぐに治験を初めていただきます」
野々村はここで一度言葉を切った。
「ということで早速、こちらに目を通してください。形式上の説明です」
野々村は膝に抱えていたタブレットを洋二に手渡し、立ち上がった。ベッドから数十センチほどの距離に設置されたディスプレイが三つあるパソコンの前に座り、何か作業をし始めた。キーボードを叩く音が聞こえるが、洋二の角度から画面は見えない。洋二は背中を丸めてタブレットに視線を落とした。
この治験場で暮らす上での注意事項はたくさんあるらしく、小さな文字がびっしりと並んでいた。洋二は文字を読むのが苦手だから、それだけで画面が目を滑っていくような気がする。
読もうと思っても、難しい漢字ばかりだ。どうせ読めても理解出来ないだろうと諦め、勢いよくスクロールして、盛大に読み飛ばした。最後の欄に同意のチェックマークがあったのでタッチするとレ点が入り、『同意する』の文字が表示された。迷うことなくその文字に触れる。
タブレットに『ありがとうございました』の文字が浮かぶ。野々村が「では」と立ち上がり、タブレットを洋二から受け取った。
こんこん、と扉をノックする音がして、スライドの扉が静かに開いた。野々村の背中の向こうに立っていたのが、絵里だった。




