【人魚編】声を失った少女
「あの」
いつもと変わらないルーティーンの最中だった。
深夜0時のコンビニで缶コーヒーを買った三浦ハナが、家までの道のりをのんびり辿ろうと足を踏み出した直後、男の声が聞こえた気がした。
予期せぬ呼びかけにハナは立ち止まり、コンビニの出入り口を振り返る。いつものやる気の無い店員は、レジの端に置いた漫画雑誌を手に取り、今まさに読みはじめようとするところだった。
空耳だろうと再び闇夜に目を向けたハナは、数メートル離れた所にぼんやりと浮かんだ人影に気づいた。
ハナは身構える。
目が闇夜に慣れてくると、それはまだ若い男の子のように見えた。
「あの」
再び、声。それはその男の子の口から放たれたようだった。声音に敵意や恐喝めいた意図は読み取れない。むしろ怯えているような印象さえある。
「あれ、えっと、私に言ってます?」
「あ、はい」
少年は素直に頷き、恐る恐るといった様子でコンビニの窓から漏れる灯りの中へと身を投じる。宵闇とLEDの陰影が浮かび上がらせた少年は、寝癖のようなパーマがかった髪が可愛らしく、そこそこに整った顔立ちをしていた。
ハナはこの少年の事を知らない。
元々この街の生まれではないハナにとって、この町での知り合いは職場の人間関係を除いて他にない。積極的に外に出て友人を作るタイプでもないから、個人的な知り合いである可能性も皆無だ。
よく行く本屋の店員だろうか? 若しくはたまの休みに豪遊する牛丼チェーンの店員?
もしかして、私に一目惚れして声をかけるチャンスを伺っていた、恋する男の子なのだろうか。
様々な妄想がハナの脳内を駆け巡る。
「どうかしました?」
努めて、落ち着き払った大人の女性を意識して、少年に笑いかける。
「あの、あなたって、魔女ですよね?」
「はい?」
予想外の突然の問いかけに、ハナは言葉を失う。
「魔女? 魔法使い? ですよね」
「え、なんで」
なぜバレた? そんな疑問符がハナの脳内を覆い尽くす。
「毎晩、この時間に飛んでますよね、空」
「あ」
確かにここ最近は魔法を隠す努力を怠っていた。深夜の夜空を見上げている物好きなどいないだろうとたかを括って、帰宅の手間を省くために魔法による飛行を毎晩のように行っていた。
でもこれも全て、自分に処理しきれない量の仕事を押し付けてくる課長が悪いのだ。課長のせいで毎晩0時を回る残業が発生し、その皺寄せで魔法を使わなかればならない状況が生まれているのだ。
混乱したハナは、事の全ての責任を日頃から目の敵にしている自身の上司になすりつけようとした。
鞄ぶら下げられたタカハシの溜め息が聞こえた気がした、
「すみません、あなたの正体を探ろうとか、そんなんじゃ無いんです。ただ、この前偶然空を飛んでいるあなたを見て、何だか毎晩同じ時間にこのコンビニに来るかから」
「毎晩、見てたの?」
「気付いたのは一週間前です。それから毎晩この時間に、ここに来て空を見ていました。すみません‥‥」
「いや、いいけど、どうしよ‥‥」
世間に魔女であることがバレたらどうなるのだろうか。
変な研究所に連れて行かれて、謎の超能力実験に参加させられるのだろうか。その実験には、給与は支給されるのだろうか。もし9時18時の実験協力で生活が保障されるのなら、むしろその方が今の生活よりも人間的なのではないだろうか。
連日の残業で疲れ果てたハナの思考は、本筋とは異なる方向へ脱線しがちだった。
「大丈夫です、俺、誰にもこの事を話してないですから」
少年は右手にぶら下げたコンビニ袋を持ち上げた。袋からは柔らかな芳香が漂い、ハナは生唾を飲み込んだ。
少年が袋を開くと、まだ温かい中華マン二つ入っていた。
「これ、差し入れです。肉まんとあんまんがありますけど、どっちがいいですか」
「え、いいの?」
「ええ、遠慮なく」
「じゃあ、どっちも」
「はい?」
「どっちも食べたいです」
太るわけにはいかないから夜中の飲食は抑えていたものの、実際のところは残業疲れでお腹はペコペコだった。
少年に差し出されたコンビニ袋からは、温かな湯気が立ち上っている。
無造作に手を突っ込み、先に指先に触れた方を掴み取った。口に方張ると、肉汁が口一杯に広がる。そこで初めて、今口に入れたのが肉まんだった事に気がついた。
優しい旨みに口の中が満たされると、正体がバレた不安感などどうでもいい事のように思えてきた。
しかしこの少年は、なぜ魔女である自分に近づいて来たのだろうか。普通の感性であれば、異能な能力は嫌厭されて然るべきだろうに。
ハナは自身の魔法が原因で起こった、過去の様々ないざこざを思い出し、少しだけげんなりした気分になる。
肉まんを頬張るハナを観察していた少年は、意を決したように頷くと、言った。
「あなたの魔法で、助けてほしい人が居るんです」
☆
それは終わりかけた夏の残火が燃え移ったかのような夕暮れの午後だった。
放課後の教室で、定は凪原姫子と鉢合わせた。
白い半袖ブラウスが教室の窓から差し込む西日を透過し、彼女の細くしなやかな肢体を浮かび上がられている。
姫子は自分の席に座り、ノートを開いていた。
誰もいない教室で自作の曲の編集をする心づもりだった定は、予期せぬ人物との遭遇に完全に面食らってしまった。
「あ、自分、忘れ物しちゃって、すぐ出てくんで‥‥すみません」
「何謝ってんの? 別にやましいところ覗き見たわけでもないんだし、変なの」
挙動不審な定の様子に、姫子は眉を顰める。
確かに、自分の教室に入っただけで謝るのはおかしな話だ。
それに、ほんの少し冷静になった定は、むしろこの邂逅が彼女を知る好機なのではないかと思い始める。
中学の頃、あの階段での一件以来、姫子と二人きりになるのは今日が初めてだった。もっとも、中学の件では定が一方的に姫子を視認していただけなのだが。
「凪原さんは、何してんの?」
努めて冷静に、あくまでも自然な様子で、定は会話のボールを投げたつもりだ。
「何って、今日の復習」
姫子は数学の教科書の表紙を掲げる。眼鏡の奥で薄く開いた目が定に向けられたような気がした。ほんの少し首を傾げた事で、ショートカットの黒髪が頬に張り付く。彼女の頬が汗ばんでいる事を、定は知った。
「放課後に教室に残って復習してんの? 偉いなぁ」
「別に、偉くないよ。部活やってないし、家でやるよりも捗るから」
「いや流石だよ。中学の頃から、凪原さんは勉強できたもんな」
「中学? なんで中学の私のこと知ってるの?」
「あれ? あー、えっと俺さ、凪原はさんと同じ中学だったんだよね」
「あ、そうなんだ」
「俺の名前、わかる?」
「きた、はら?」
「喜多代です」
「‥‥ごめん」
謝られるとなんだか凹む定だった。
「そっか、同じ中学だったか」
「もっと言うと、2、3年は同じクラスだったんですが」
「あー」
姫子は何も書かれていない黒板を凝視し、しばし首を捻ったあと、再び定の方を向いた。
「確かにいた‥‥かも?」
「そこまでもったいぶっといて、自信なさげだし」
「ごめんごめん」
「いや、いいけど。確かに俺はモブキャラタイプだったし、凪原さんみたいに目立ってなかったから」
そう言ってから、調子に乗った発言だったと後悔する。
姫子の目立ち方は決していい目立ち方ではなかったし、彼女にとっては思い出したくない過去なのかもしれない。
しかし、自身の存在が完全に忘れさられているという手痛い仕打ちを受けたのだから、このぐらいの反撃も許されるのではないか、という少し意地悪な気持ちもあった。
「目立つっても、私の場合は悪目立ちじゃん」
姫子は大きな溜息を吐き、グラスの氷が溶けるように、頬を緩ませた。
定は姫子の笑った顔を初めて見た気がした。
実際には、笑顔と呼ぶには不恰好で、海べの砂山に突き刺した一本の棒切れのようにアンバランスな代物だったが、定にとっては仮面の下に隠れた剥き出しの口元を覗き見てしまったような、背徳感にも似た喜びと興奮が感じられた。
二人の距離が近づいたと、勝手に思ってしまった。
「あの頃の凪原さん、かなり尖ってたよな」
「そう? 今も大して変わらないよ」
「現在進行形で尖ってんだね」
「どうだろ」
「ほら、中2の合唱コンクールの事、今でも覚えてるよ、担任の鈴木に叩かれたやつ」
口に出すべきかどうか一瞬の躊躇があった。
しかしこの機会を逃したら彼女の真意を知る事は出来ないと思うと、定の口は勝手に過去のワンシーンを語り始めていた。
「ああ」
姫子は表情を変えず、一度だけ頷く。
「凪原さん、鈴木に反抗して歌を歌わなかったじゃん。あれなんでなのかな? そんなに鈴木が気に入らなかったの?」
「別に、そんなんじゃないよ」
「合唱コンクールの時もそうだったけど、音楽の授業でも。なぎはらさん歌ってるところ見た事ないかも。なんか理由でもあるの? 尖ってたから?」
あんなに、綺麗な歌声をしているのに、勿体無いよ。
その一言はすんでのところで飲み込む。
好奇心に負けて、明らかに無遠慮で下世話な質問をしている事に気が付く。しかし一度吐き出してしまった言葉を飲み込む事は出来ない。言葉は空気に混ざり込み、再び全てを綺麗さっぱり回収する事は不可能だ。
定は姫子の顔を見た。その変化の少ない眠そうな目から、感情の動きを読み取ろうとした。
「理由、ね」
姫子はふと遠い目をした。
顔の角度が変わる事で、眼鏡が西日を反射し、彼女の表情を覆い隠す。覗き見えていた素顔が、再び別の仮面に覆われたような気がした。
「喜多代君は『人魚塚』の伝説、知ってる?」
「にんぎょづか?」
突然の論点がずれた問いかけに定は面食らう。
その伝説は、この街に住むものなら多少は聞いたことがあるであろう有名な昔話だ。
西の島に住んでる女が、この町に住む男と夜な夜な逢瀬を重ねていた。ある日男が待ち合わせの海岸に来なかった事で、常夜灯の標が無ない女は海を漂流し命を落とした。
スマホで情報のやり取りが容易になった現代では起こり得ないだろう、昔話の悲劇だ。
しかしその昔話が、彼女の歌の話と何の関連があるのだろうか。
「知ってるけど」
定は話を逸らされた事に若干の落胆を覚えつつ、不承不承頷く。
姫子は、そっか、とだけ呟き、押し黙る。
実際には数秒の沈黙だったのかもしれないが、定には瞬き十数回の長さにも感じられた。
その一回の瞬きのたびに、目に映る姫子の姿から、徐々に現実感が薄れていくような、異様な感覚に襲われる。
「あの昔話で、海を漂う女性は、何度も愛する人の名前を叫んだろうね」
「うん」
「だけど、彼女の必死の叫びは、誰の耳にも届かない」
暗い海を、海を一隻の小さな船が、木の葉のように揺れ動く。
愛する人の名を叫べども叫べども、その声は深淵へと吸い込まれていく。
彼女の声は、誰にも届く事はない。
「本当に届けたい人に届かないのなら、歌とか、声なんて、何の意味もないと思うんだ」
そう言って、姫子は笑った。
嘘でも誤魔化しでもなく、それが彼女の本心なのだと、定は感じた。
しかしその本心が何の意味を持ち、今までの、そしてこれからの彼女にどんな影響を及ぼすのか、この時の定には知る由もなかった。
僅かばかりの邂逅は、異様な空気を残して終わる。
そして数日後、姫子は本当に『声』を失う。
☆
「声を、失った?」
ハナは首を傾げる。
「全く喋らなくなったんです。言葉だけじゃない、呻き声や、驚きの声だって、何かに吸い込まれるように消えてしまう」
定は頷きながら言う。
姫子が声を失ってから、クラスの女子が不注意で彼女にぶつかったシーンを目撃したことがある。その時姫子は驚きの表情を見せていたが、その口から声が漏れることはなかった。
彼女の放つ声という声は、虚空へと消えていく。
そして、そんな状態に身を置きながらも、姫子は何一つ動じていないかった。むしろ自ら望んでそれを受け入れているような、落ち着き払った印象さえ受ける。
そんな彼女の様子もまた、定には受け入れ難かった。あの美しい歌声を永遠に失ってしまうのは、定には耐えられなかった。
「それは気の毒だけど、私はどうすればいいの?」
「不思議な、未知の現象でも、魔法なら何とかできるかもしれないと思って」
少年は上目遣いにハナを見る。
背は少年の方が明らかに大きいのだが、そんな少年を少なからず可愛らしいと思ってしまうハナだった。
「助けてやりたいような気もするけど、私の使う魔法って、そんな便利なものじゃないよ」
肉まんを食べ終えたハナはあんまんに手を伸ばす。
冬の始まりの冷気にさらされていたそれは、すでに固くなり始めていた。




