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【人魚編】三度目の魔法

 女は海を漂う。


 男が示すはずの明かりを探して。


 何の目印もない真っ暗な海を、小さな愛と優しさの火を求めて彷徨う。


 やがて女は、白い波に身体を縛られて、黒い海へと飲み込まれていった。


 沈みゆく間際に、女がどんな声を響かせたのかは、語り継がれていない。



    ☆



 喜多代きたしろさだめが魔法を見たのは、これで3度目だった。

 

 初めての魔法は、代わり映えのしない日々に飽き飽きしていた中学一年生の夜、風呂上がりに見た居間のテレビの中で唱えられた。


 火照った体を冷ますために、冷蔵庫から取り出したコーラをグラスに注ぐ。ブロック氷を2つ黒い水面に浮かべると、互いの出会いを喜ぶように細かな泡が踊り出す。片手にグラス、もう片方の手にバスタオルを握り、居間のソファーの前に立った定は、母親と妹が見ていた音楽番組から流れる歌声に全身を硬直させた。


 歌声は詠唱である。

 音楽は魔法である。


 若い女性アーティストが響かせたその歌声は、定の意識も、思考も、感情も完全に奪い去っていった。


 それは紛れもなく、魔法であった。


 少なくとも、定のそれからの人生を変えてしまう程の魔力が、その女性アーティストの歌声には秘められていた。無趣味だった定は音楽に興味を惹かれ、楽器の演奏や作詞作曲にのめり込んでいった。


 そして中学二年生の放課後、定は二度目の魔法を体感する事となる。


   

   ☆



 彼女の名は凪原なぎはら姫子ひめこと言った。


 中学二年生になり同じクラスになった彼女の事を、定は知らなかったし、興味もなかった。


 背が高く細長いシルエットに、短く切りそろえた髪。分厚い眼鏡の後ろでは、眠たそうな半開きの目で常に訝しそうに周囲を伺っている。整った顔立ちをしているので、外見だけ見れば男子の興味を引く存在ではあった。しかしその頃の定といえば、数人の友人と自主制作の音楽動画をネット上に公開する遊びに夢中になっていて、女子の事など二の次であった。


 それにこの凪原姫子には『変わり者』『おかしな人』というあまり魅力的ではないレッテルが貼り付けられていた。


 普段の様子から、普通じゃない雰囲気を醸し出していた凪原姫子ではあったが、その立場が決定的になったのは、秋の合唱コンクールを控えたクラスでのある事件が関係している。

 

 文化祭の演目の一つである合唱コンクールは、同じ学年の各クラスが競い合うイベントで、クラスの団結を目標に張り切る教師達も多い。定のクラスの担任は少々ヒステリック気味な中年の女性教師だったが、この合唱コンクールにかける思いは一塩だったようで、放課後にクラス全員での合唱練習を一か月近く続けさせられていた。


「凪原さん? 声が出てないですよ?」


 担任のその一言で、クラスの目が一斉に凪原姫子を向いた。


 クラスのやんちゃな男連中は口パクで歌う振りをしてその場をやり過ごしていた。

 歌が上手くない事を自覚している何人かは、迷惑にならないように意識して小声で歌っていた。

 そんな事情ももはや暗黙の了解となり、戦力となり得るクラスのメンバーで最善の発表を模索している現状ではあったのだが、そんな前提を覆すほど凪原姫子の態度は教師の思いを逆撫でしたらしい。

 もしくは、凪原姫子の見た目が物分かりがよく小心者の、所謂弱者的な存在に見えたからかもしれない。


「恥ずかしがらなくていいですよ。下手だってかまわないの。みんなで力を合わせることが大事なんですから。では、もう一回」


 伴奏が始まり、皆が声が重なる。

 しかしそれも一小節を歌い終えたところで強制的に止められた。


「凪原さん!?」


 担任の声が響く。

 凪原の歌い出す様を横目で見ていた定は、深くため息を吐きたい気分だった。

 皆が歌っている間も、彼女はまったく口を開かずいつもの眠たそうな目で、自分を品定めしてくる教師の事を見つめていた。

 

「凪原さん、やる気がないの? それともみんなに迷惑をかけて楽しんでいるの? どっち!?」


 教師は苦虫を嚙み潰したような顔で凪原姫子を見ている。


 定は心の中で面倒な女だと凪原姫子を非難していた。

 歌いたくない気持ちもわかるし、面倒くさいって気持ちもわかる。だからと言って今は無意味な反抗心を示して悦に入る時間じゃない。クラスの多くは、早くこの面倒な歌の練習を終わらせて、部活なり家なりに遊びになり行きたいと考えている。

 彼女の行動は無意味ないざこざを生み、物事を無駄に複雑にするだけだ。それがわからないのだとしたら、この女はどれだけ頭が悪いのだろう。


「どちらでもありません」


 凪原姫子が答えた。

 小声だったにも拘らず、とても透き通ってよく響く声だった。


「なら真面目に歌いなさい」


「すみません、歌いません」


 教師はカッとなって自分の太ももを両手で叩いた。

 彼女が苛立ちを抑えきれなくなった時にする、一種のパフォーマンスのようなものだ。これ以上自分に逆らうのならば、この平手があなたに向かうよ、という一種の脅しの効果もあるのかもしれない。

 クラスは一瞬静まり返った。


「一人が輪を乱すと、みんなが迷惑するんですよ。凪原さんならわかるでしょ?」


 子供をあやす様に教師は言う。自分は最大限に譲歩している、その上でこれ以上逆らうようならば、痛みや悲しみが降りかかろうともそれは自業自得なのだよ、と暗に示すような口ぶりだった。


「すみません」


 教師が頷く。


「さあ、皆さんもう一回。上手くいったら、今日はここまでにしましょうね」


 伴奏が流れ始める。

 再び皆の歌声が重なり合う。


 そして、それを切り裂くように、皮膚と皮膚がぶつかる乾いた音が響いた。

 

 教師は唇を震わせながら、開いていた右手をゆっくりと握り、隠すように左手で覆った。


 凪原姫子は左頬を抑え、眼鏡がずり落ちていた。



   ☆



 凪原姫子がここまで強情で反抗的な女だとは思っていなかった。


 合唱コンクールは一人の不穏分子の存在を完全に無視した形で行われ、結果として8クラス中4位という何とも言えない中途半端な結果で終わった。その結果に悔しがる女子も数人いたが、大半のクラスメイトは何の感慨もなく、大げさに涙を流す教師をどこか冷めた目で見ていた。


 合唱コンクールから数日経ったある日の放課後、定は父親から借りた安物のビデオカメラを片手に校舎のはずれにある階段を上っていた。ここはどの学年の教室からも遠く離れた区画のため、昼間もほとんど人が来ない。しかしこの階段室の踊り場の窓からは学校の中庭を一望出来る、穴場のスポットだった。


 定は最近作った曲のMV用の動画を集めようと、録画ボタンを押したまま階段を上っていた。足音が入っても編集で消せばいいだけなのだが、何となく抜き足差し足でゆっくりと階段を上る。

 1階と2階の踊り場の窓から、落ちかけた紅葉がしがみ付く細い木の枝を画面に収める。

 秋の終わりを感じさせ、とてもエモーショナルだ。


 そして定は、この校舎の隅の忘れられた場所で、二度目の魔法を知る事となる。

 

 その魔法は定の心の深いところに突き刺さり、高校二年となった今でも、消えてはいない。


 階段の最上階から、微かな歌声が聞こえた。


 それは鼻歌のような歌で、小さく弱く繊細、しかし研ぎ澄まされた刀剣のような鋭さと艶めかしさを湛えていた。

 

 その歌声に定の感情は揺れ動いた。


 音楽を趣味とするようになってから磨き続けていた感性が、全てこの歌声で塗りつぶされていくような感覚だった。

 いくつもの曲のフレーズが頭の中で生まれ、しかもその全てが、今まで自分が作って来たどの曲よりも輝きに満ちていた。


 まるで夕日が沈む凪いだ海に反射する、赤い光の粒のようだった。


 定は感情の昂ぶりによって竦めていた首を伸ばすと、声のする最上階の踊り場を見た。


 細長い体と、分厚い眼鏡。

 見たことのあるシルエットの女子生徒が、窓の外を眺めながら歌っていた。


 あの凪原姫子がそこにいた。



   ☆



 あれから3年が経った。


 あの時、彼女の歌声を聞いた事も、その結果逃れられない呪いのようなその歌声の魔力に囚われた事も、凪原姫子には一切伝えていない。同じ市内の高校に進学し、高校二年で同じクラスになってからも、ただただ彼女の存在を目で追っている。

 残念ながらあの階段の一件以降、彼女の歌声を聞いた事はない。

 だからこそ渇き飢えた砂漠の旅人のように、凪いだ湖のような彼女の声に恋い焦がれる。


 そして、そんな風に彼女を見続けてきたからこそわかる。

 最近の彼女は明らかに様子がおかしかった。


 言い知れない不安が胸を包む夜、気晴らしに始めたゲームに飽きると、定は夜のコンビニへと向かう。


 そこで彼は、三度目の魔法を目にする事となる。




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