緊張1
先程よりか雨の勢いはなかった。
互いの呼吸の音が聞こえる位、雨はその勢いを失っている。
ただ黙って二人は、一つの傘の下で並んで歩いている。
会話なんて何もない。
アオイはうつ向いたまま、カナメは前を見ながら、時々互いをチラリと見ている。
アオイはカナメが着せてくれたジャケットの裾を握る。
暖かい…その中で自分の着ている服は、まだ濡れているのに…すごく暖かい気がした。
(寒くないのかしら?)
春先とはいえ、まだ寒い。
Tシャツ一枚では、寒いに決まっている。
そこで、ふと気づいた。
自分の肩が全く濡れていない事に。
カナメの方を見たら、肩がかなり濡れている。
よく見たら、傘はアオイの方に傾いていた。
「濡れているよ」
アオイは、自分に傾いていた傘をカナメに傾ける。
カナメは、笑顔で
「俺なら大丈夫だから、体は強い方だし」
と、言ってまた傘をアオイに傾ける。
その優しさは、アオイにとってツラいものだった。
残酷なほどに…
「ごめんなさい」
小さく呟く。
「気にしないで。俺が勝手にしているだけだから」
そう言った後、アパートの前に着いた。
「ここは…?」
アオイは驚く。てっきり何処かの一軒家に行くのかと思っていたから。
「俺の家」
カナメは答えてから、バックの中に入っていたカギを取り出す。
「穂積くんの…家?」
アオイは驚いていた。アオイが知っているカナメの自宅は、確か一軒家だったはずだ。
「そう。大学に入った時にね、姉さんが結婚して、旦那さんと家に入ったんだ。居づらくて一人暮らしを始めたわけ」
と、答えながらカギを開ける。
「どうぞ」
と、言われたがアオイは、後退り
「やっぱり、いいよ。私…」
視線を泳がせながら言う。
カナメは、クスッと笑い
「もしかして疑ってる?」
と聞いた。
アオイは、動揺しながら首を横に振り
「そんなんじゃないの。私は…一応…」
《人妻だから》という言葉を飲み込んだ。
カナメは、声を潜めて
「早くしないと、誰かに気づかれるから」
と言って、アオイの腕を掴んだ。
「でも…」
「俺を信じて」
真剣な眼差しで言われて、アオイは迷いながらも
「わかった」
と中に入る。
中に入るとカナメは電気をつけた。
余計なモノは置いてない殺風景な部屋だった。
中に入ると、カナメはエアコンをつけた。
だが、アオイはまだ玄関に立っている。
「まだ、疑ってる?」
カナメが笑顔で聞くと、アオイは首を横に振り
「あの…私、濡れているから」
語尾の方は小さくなった。
カナメは、タンスからバスタオルを取り出して畳の上に敷く。
「これで大丈夫だろ?」
そう言ってアオイを迎えに行く。
アオイは、戸惑いを抱えたまま
「ええ…」
と答えてから、靴と靴下を脱ぐ。そして、カナメの敷いたバスタオルの上に座った。
展開が…予想していた方角とは狂ってしまった。
アオイは、視線をどこにやっていいのか分からない。
結局、うつ向くしかなかった。
戸惑っているアオイを尻目にカナメは、食器棚からマグカップを、冷蔵庫から牛乳を取り出して、マグカップに注ぎ、レンジに入れてスイッチを押す。
その間、湯沸し器のスイッチを入れて、お風呂にお湯を張る。
【ピーっ】
レンジが止まると、小さなお盆にマグカップを乗せて、アオイの前に置く。
「体、冷えているだろ?」
優しく微笑む彼に、アオイの心は傷んだ。
「ありがとう」
そう言ってから、マグカップを手に取る。
カップから白い湯気がたっている。
一口、含むが
「あつっ!」
軽く舌に火傷してしまう。
熱い飲み物は、少し冷まさないといけない。
アオイは、茶目っ気に舌を出してから、
【ふぅー、ふぅー】
と、ミルクを冷ます。
カナメは、優しい表情で見ている。
「おっと」
思い出したかのように、浴室に向かった。
浴槽の湯は、ちょうどよいくらいだ。
カナメは、バスタオルとスウェットを出してから
「お風呂、沸いたから入りなよ」
と、アオイに言う。
「え?」
アオイは、固まった。
「体が冷えているだろ?」
カナメの言葉に、アオイは戸惑いを隠せなかった。
「えっと、私は…」
「覗かないよ」
カナメは、クスクス笑いながら言う。
アオイは、顔を赤くして
「ち、違うの。そういう事じゃなくて…」
明らかに動揺している。
「早く暖めないと、風邪をひくから」
カナメの言葉に
「えぇ…」
アオイは、微妙な返事を返した。
「はい、これ」
そう言って、バスタオルとスウェットを渡す。
「これを着るといいよ」
笑顔で言う。
「ありがとう」
アオイは、浴室に入る。
「鍵があるから、ちゃんとかけるんだよ」
ドアの向こうでカナメが言った。
ドアのノブには確かに鍵がある。
アオイは、悪いとは思いながらも
【ガチャリ】
カギを閉めてから、濡れたままの服を脱ぐ。
やはり、脱ぎにくい。
脱いだ服をたたんでから、浴室に入る。
もわぁ…
浴室の中には、暖かい湯気が充満していた。
(さて…)
ピタリと体が止まる。
やはり、体などを洗ってから浴槽に入った方がいい。
(どうしよ…)
ちゃんと、シャンプー等は揃っている。
しかし、勝手に使うのはどうだろうか?
少しの葛藤の末に使うことにした。やはり、汚れた体で浴槽に入るのは気が引ける。
(あとで、謝ればいいよね)
そう思いながらも、アオイは、髪を濡らしてシャンプーのポンプを手に取った。
一通り、洗い終わり、浴槽に身を入れる。
(あぁ、暖かい)
とても、幸せな気持ちになった。
何年ぶりだろうか…
こんな気持ちになれたのは。
ホッとしたのか、段々と眠気が忍び寄ってくる。
だが…
『誰のお陰で、お前達が生きていられると思っているんだ?』
『まぁ、なんて、無作法な娘なの』
『何、やってんだ?このウスノロが!』
『これくらいも出来ないかしら?やはり、育ちの悪い人間は』
『お前は、俺だけの言う事を聞いていればいいんだ。わかったか!』
『跡取りも生めないくせに、この家にのさばって、本当に何て女なの?可哀想に…コウスケさん、こんな女に騙されて…』
『おい、分かってんのか?お前は俺様の物なんだよ。だったら、黙って俺に従え!』
『でておゆき!役立たず!』
『義姉さんを苦しめるな!』
【バシャリ!】
水音で、ハッとする。
どうやら、ウトウトして湯船に顔を突っ込んだようだ。
【ツーっ】
頬を伝う涙が止まらない。
「ごめんなさい…啓介くん…私の為に」
すすり泣く声が、浴室に響いた。
一方、カナメの方は、別の意味で葛藤していた。
(あのドアの向こうに宮里がいる。あのドアの向こうに宮里がいる)
悶々とした葛藤が、行われていた。
紳士的に振る舞おうとしたが、やはり普通の男性である。それも、彼がずっと想っていた女性なのだ。
それなりに葛藤がある。
だが…浴室からすすり泣く声が聞こえてくる。
(宮里…)
葛藤は、消えた。
確実に、彼女は何かで傷ついている。
今、自分が彼女の為に出来るのは、傷を広げないようにする事。
カナメは台所に立ち、コーヒーメーカーを取り出した。
そして、冷蔵庫から小さな袋を取り出した。
コーヒーメーカーからドリッパーを取り出し、棚から紙フィルターを取り、セットした後、小さな袋からスプーンでコーヒー豆をドリッパーに入れる。
給水タンクに水を入れて、コンセントを差してから、スイッチを入れた。
少しすると
【コポコポ…】
と、にわかな湯気と香りが漂いだした。
(何があったんだ?)
サーバーに流れている液体を見つめながら、そう思った。
何があったのか…本当は知りたい。よく笑っていた彼女から何が笑顔を奪い去ったのか?
知りたい…でも、聞けない。
アオイを傷つけるような真似は出来ないし、自分が受け止められる自信が無い。
(意気地なしだな…俺は)
自虐的に笑う。
【ゴボゴボ…】
ドリップが終わった音だ。
カナメは、スイッチを切ってサーバーごとドリッパーを取り出す。
ドリッパーは流しに置いて、食器棚からカップを2つ取り出す。
サーバーから、カップにコーヒーを流し入れると、コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐる。
(いい出来だ)
カナメは納得してから、トレーにカップを乗せてから、部屋に運んでおいた。
(さて、暇だな)
チラリと浴室を見てから、リモコンを取りテレビをつける。
ちょうと、スポーツニュースが流れていた。
チャンネルを変えても、興味を引く番組はない。
アオイが、浴室にいる事をどうしても意識してしまい、落ち着かない。
カナメは、どうにもソワソワしながら、リモコンでチャンネルを変えたりしていた。




