*8* 深夜十二時が待ち遠しくて。
仕事をサボって乗り込んできた情熱に免じて、ベンチタイム(パン種の発酵を待つ時間)を利用してお茶を楽しみ、リリア様を傷付けたダルクに最後の温情を与えた。これでまた失敗したらあのヘタレ今度こそ去勢ものだわ。
そもそもアランからリリア様のお家に話を持ち込んだときに、素直な彼は先方に私のことを話してしまったらしく、それを聞いてもこの話を受けてくれた彼女とそのご両親は得難い善人ということになる。
だからそんな善人達にダルクみたいな偽悪者が勝てるはずがないのよ。彼は綺麗なものを嫌いながら渇望するところが、私にとても似ているから。リリア様に直接お会いしたことはまだないけれど、きっと彼女と相対したら私は浄化されて消えてしまうのではないかと思う。
実際にアランが話してくれた内容だと初めてダルクと顔合わせをした彼女は、彼のひねくれているのに不器用に優しい性質をとても気に入ってくれたらしく、私に直接会ってお礼を言いたいと言ってくれたそうだ。その申し出は勿論丁重にお断りしたけれど。
失敗しないで正しい道を歩んで幸せを手に入れようとする女性を見るのは、自分の後ろに浮かび上がる陰を濃くしてしまうようで怖かった。同じ理由でアランの部下達に紹介したご令嬢とそのご家族からの顔合わせは、全部お断りしている。いつか私が自分の穢れを赦せたらそのときは会ってみたいけど、いまは無理ね。
アランからもたらされる部下の彼等から幸せにしているという報告だけで、充分お腹が一杯だもの。ともあれダルクを見送ってからは気合い再燃。再び厨房でパン作りを再開した。
本当は包丁を使いたかったのに、料理人や見守り要員のメイドから――、
『いやいや、まずは主食のパンからですよ奥様。スープや肉料理と違ってどんな食卓にも絶対に乗るものです。旦那様の血肉に一番なっているのはパンですよ』
『フカフカのパンを奥様が焼けるようになれば、食に関心の薄い旦那様もたくさんお食事を召し上がるようになりますわ』
という力説を聞かされたので、俄然やる気になったのだ。多少言いくるめられた気はしなくもないけど……私が捏ねて揉みしだいたパンが彼の血肉に一番なると言われては仕方ないじゃない? 作業中に彼の血管に行き渡る妄想をしたら興奮して鼻血が出そうになったわ。
ベンチタイムでふわふわもこもこに膨らんだパン種は、そのまま丸めただけでも美味しそうだったけれど、ちょっとだけ摘まんで食べてみたらパンとは全然似ても似つかない味で驚いた。ほんのり甘くて酸っぱくて粉っぽい。
この不思議な物体があの幸せを食べられる形にしたようなものになるなんて。天板に並べてオーブンに入れてくれた料理人に『いつも美味しい料理をありがとう』と言うと、彼は『勿体ないお言葉です奥様。こちらこそ、私どもの主人を幸せにして下さってありがとうございます』と笑ってくれた。
優しい人のところには優しい人が集まるのね。嬉しいやら恥ずかしいやら、いつまでたっても慣れなくて戸惑ってしまう。初めて焼き上げたパンは不格好だったけれど、味は料理人監修のものだけあって美味しかった。
――そうして待ちに待った帰宅時間。
焼き立てを食べてほしくてギリギリまで厨房で粘っていたせいで、天板をオーブンに突っ込んでいる間に玄関が賑やかになり、小麦粉で汚れたエプロンを外す手間を惜しんで玄関ホールに駆けた。
「お帰りなさいアラン!」
「ただいまアメリア。随分可愛らしい格好をしているな」
待って……待って、無理。出迎えるだけで命がけな新婚生活とか、何の苦行なの。未だに仕事のときの精悍な表情から、家での寛ぎ感ある表情への移行がしんどい。眉間の皺がほどける瞬間が尊すぎる好き。
抱きついて頬擦りしたいけど、そんなことしようものならただの自殺行為よ。落ち着け、落ち着くのよ私。
「え、ええと……あの、ね? 今日は体調が良かったから、料理長に教えてもらいながら夕飯用のパンを焼いてみたの」
流石に“貴男の血肉に一番なるって言われたから張り切った”とは言わないけど、内心ではとても褒めて欲しい気持ちでいっぱいだった。
そんなこちらの思惑に気付いてくれたのか、視線で人払いを要求する屋敷の主人に皆が頷き、食堂に準備に向かう者、受け取った上着を片付けに向かう者、食後に今日届いた手紙類を仕分ける者など、各々の仕事に戻っていく。
玄関ホールに残ったのが私達だけになると、アランは腕を広げてくれて。私はおずおずとその胸に抱きついた。すると「ありがとうアメリア、とても楽しみだ」と囁いた彼の口付けが額に落ちてきて、私の心を満たしてくれる。
とはいえ小麦粉まみれのエプロンをつけた私と、制服のままのアランですぐに食堂に向かうこともできないので、先に着替えるために二階へと上がった。ただお互いまだ寝室は分けてあるので、一旦各々の部屋の前で別れることがいつものことなのだけれど――。
絡めていた指をほどいて自室のドアに向かおうとしたら、急に手首をアランの掌が包む。怖がらせないように柔らかく触れてくれる彼の指先に別の意味で心臓が跳ねた。紳士的な夫が尊い。
「その……アメリア、少し聞きたいことがあるのだが。着替える前に先に俺の部屋に来てもらっても構わないか?」
「ええ、構わないわ」
内なる自分の欲望が“そのまま貴男だけでも先に目の前で着替えてくれても良いのよ?”とか、変態的な思考と台詞を発したけれど、辛うじて理性を持つ内なる自分に叩きのめされていた。いつものことながら情緒がグチャグチャだわ。
通された室内で平静を装うことに努めながら、さっと視線をベッドとソファーに走らせる。以前の生き方ならベッドしかなかった選択肢だけれど、今はそっちに腰かけるとか無理。ベッドを選んではしたないと思われたくない。私は彼に関してだけだいぶ臆病なのだ。
私がソファーに腰を下ろしたのを確認した彼は、少し迷ってから「すまない、先に着替えても?」と言うので、全力で「勿論よ!」と返した。最近神様の存在を信じ始めた自分がいるわ。
クローゼットの中から家で着る服を取り出し、制服のシャツを脱ぐ彼をチラチラと盗み見る。無駄のない筋肉が作り出す陰影に非常に萌えたわ。鼻の粘膜に自信を持てないから下を着替えるときは目をそらしたけど。
すっかり着替えて寛げる格好になった彼が振り返ったところで「それで、聞きたいことって何かしら?」と尋ねると、彼はこちらに向けて見たことのない微笑を浮かべて近付いてきた。
私を囲い込むようにソファーの背もたれに両手をつくアラン。素敵。下から見上げられる幸運に心臓が悲鳴をあげているわ――……! と、そんな彼がその琥珀色の双眸を眇めた。
「今日巡回から戻ったダルクが手に包帯を巻いていたので呼び止めたら、何故か『隊長の家にいる猫は、美しいが狂暴ッスね』と言っていたのだが。何か心当たりはないだろうか?」
あら嫌だわ、心当たりしかないじゃない。あの野郎ってば、リリア様以外にはやけに素直じゃないの。次にあったら折檻ものだわ。
「さぁ……ないわよ。お庭に遊びに来てるのかしらね?」
「その猫はダルクを引っ掻いた後に包帯を巻いてくれたそうだが、それでも心当たりはないだろうか」
どこか感情を圧し殺したような彼の低い声音に背筋が震える。けれどそれは恐怖からくるものではなくて、どちらかと言えば陶酔に近い感覚で。片手でゆっくりと頬を撫で上げてくるアランの掌に思わずすり寄ってしまう。
「あ、あら……そうなの? 器用で賢い猫なのねぇ」
まずい、声、裏返った。いつの間にこんなに嘘が下手になってしまったのだろうか。背中を伝う冷や汗がエプロンの紐が締め付けている腰で止まった。頬を撫でていた手が止まり、今度は唇に指先を這わされる。
かさついた指先に毎日丹精込めて艶を保っている唇を撫でられると、やけに照れてしまう。ここで指を舐めたりしたらどんな顔をするのかしらと思ってから、真面目な彼に対して抱く感情として不適切だと自分の爛れた想像力を恥じた。
彼は潔癖で高潔な人なのだ。絶対普通に考えて引かれるか怒られる。下手をしたら失望されて離縁……なんてこともあり得るかも。そんなのは絶対に嫌だわと血の気が引くのに、彼の唇を撫でる指は止まらない。
「そうだな……帰ってきたら小麦粉まみれの姿で出迎えてくれる、賢くて……気分屋に見えて、嘘が下手な可愛い猫だ」
あ……殺される。夫の色気に。殺し文句が心臓に刺さって震える私の目を覗き込む彼の顔が、だんだんと近付いてくるのは私の願望かしら? 流石にこの空気を前にして、騒がしい鼻の粘膜も一周回って大人しくなった。
「いくらダルクとはいえ、俺の留守中に男と二人きりになるのは止めてくれ。この歳になっての恋情や嫉妬心というのは……持て余す」
小さく呻くように紡がれた言葉に思考がついていかない。優しく落ちてきた口付けに手を伸ばして彼の首に回せば、彼が唇に触れていた手を私の後頭部に添えた。
呼吸を忘れるほど深く重ねられた唇が離れたときには、彼の紺色のスラックスに私がエプロンに纏った小麦粉の白が移って。
「アラン……今夜食べてくれるのは、パンだけ?」
離した唇から零れたのは、自分のものとは思えないほど格好悪く掠れた声で。もっと詩的な文句はたくさん憶えたはずなのに、本当に言いたい相手だと詩的な言い回しなんて一つも思い付かないけれど――。
「今夜、君が十二時まで起きていられたら……な」
喉の奥で低く笑う琥珀の瞳に魅せられて、私はもう一度腕を伸ばした。夕食のパンが焼けるまで。私のために妬いてくれる、愛しい貴男に口付けを。




