第122話:疾走する鉄の密室へ
午前十時。
帝都の喧騒を遠く離れた大陸横断特急リヴァイアサン号は、時速百キロという驚異的な超高速で、初秋の黄金色に輝く広大な麦畑を切り裂いて疾走していた。
車窓の外を猛烈な速度で後方へと飛び去っていく田園風景と、鉄橋を渡る時のゴォォォッという重低音の轟き。
特等寝台車両の一角にある七号室の扉が内側からカチャリと施錠された瞬間、シオンとエルネスタの二人は、完全なる二人きりの密室へと閉じ込められた。
部屋は豪華なマホガニーの壁と深紅のビロードのカーテンで装飾されていたが、寝台列車ゆえにスペースは極めて狭小だった。
壁際には、上下二段に設えられた幅の狭いシングルベッド。中央には小さな丸テーブルが一つと、椅子が二脚。
エルネスタは羽根付きの帽子を脱いでテーブルに置くと、所在なさげに部屋の隅に立ち尽くした。
帽子のつばから解放された美しい銀髪が、さらりと肩の上にこぼれ落ちる。
「ほ、本当に……ベッドが上下二段しかありませんのね……」
「ええ。ですが、潜入捜査としては申し分のない防音性と独立性です。……エルネスタ、あなたが下のベッドを使ってください。私は上の段を使いますから」
「あ、ありがとうございます……シオン殿……あ、いえ、シオン……」
ぎこちなく呼び捨てにするエルネスタ。
その横顔には、まだ初々しい緊張と恥じらいの色が色濃く残っていた。
彼女は小さな革の旅行鞄を開けると、中からシオンのために淹れるための紅茶缶を取り出し、テーブルの上へと並べた。
「せめて……落ち着いたら、あなたにお茶を淹れますわ。下町で教わった通り、お湯の温度と蒸らし時間をきっちり測って……」
「それは楽しみです。あなたの淹れてくれる紅茶なら、どんな名店のものよりも心が安らぎます」
「……もう、シオンったら。そういう歯の浮くような台詞を、平然とした顔で仰るのですから……」
エルネスタは頬を染めて口元を押さえ、恥ずかしそうに視線を逸らした。
シオンは上着を脱ぎ、小型の工具入れを作業机の上に広げると、車内の振動と音の周波数を測る携帯用の微細振動計を取り出した。
壁掛けの真鍮製気圧計の針が、高度の上昇と共に微細に震えている。
「列車の揺れは、毎分百二十サイクルの規則正しい横揺れです。ですが……時折、床下から微弱な魔導パルスの共鳴を感じる。やはりこの列車、ただの旅客列車ではありませんね」
「クライン重工の極秘兵器の実験……ということかしら?」
「ええ。その可能性は極めて高い。十年前の大時計塔の技術が、兵器として転用されている恐れがあります」
シオンが真剣な表情で振動計の目盛りを見つめていた、その時だった。
リヴァイアサン号が急峻な山岳地帯へと突入し、半径三百メートルの険しい大急カーブへと猛烈な遠心力と共に突っ込んだ。
ガガガガッ!!
凄まじい横揺れと遠心力が、車体を大きく右へと傾かせた。
慣れない高ヒールの靴を履いていたエルネスタが、バランスを崩して大きくよろめいた。
「きゃっ……!?」
「エルネスタ!」
シオンは咄嗟に振り返り、彼女を受け止めようと両手を伸ばした。
だが、列車の急激な傾きによって二人は激しくもつれ合い――ドサリと、下のベッドの柔らかなマットレスの上へと二人揃って倒れ込んでしまった!
エルネスタの華奢で柔らかな身体が、シオンの逞しい胸板の上にすっぽりと重なり合っていた。
ふわりと広がる、甘い石鹸と柑橘の芳醇な香り。
エルネスタの透き通るようなアイスブルーの瞳が、シオンの藍色の瞳を、わずか数センチの至近距離で捉えていた。
互いの吐息が唇に直接吹きかかるほどの、息の詰まるゼロ距離。
ドクン、ドクン、ドクン――!
エルネスタの胸元の母の懐中時計のチクタクという針の音と、二人の激しく跳ね上がる心拍数が、完全に同期して重なり合っていた。
エルネスタの白い指先が、シオンのシャツの胸元をぎゅっと掴んでいる。
「ひゃぅっ……!? あ、頭が……胸に……っ」
「す、すまない……! 怪我はなかったか、エルネスタ……!?」
「だ、大丈夫ですわ……! で、でも……近いです……顔が、近すぎますわ……っ!」
エルネスタは耳の先まで真っ赤になり、シオンの胸元に顔を埋めたまま身動きが取れなくなってしまった。
シオンもまた、腕の中に抱きすくめた彼女の温もりと信じられないほどの柔らかさに、全身の血液が沸騰しそうなほどの衝撃を受けていた。
見つめ合う二人の瞳。
時が止まったかのような、甘美で濃密な沈黙。
二人の唇が、自然と吸い寄せられるように、あと一ミリという距離まで近づいた――その刹那だった!!
ズドォォォォンッ!!!!
二両前方の最上階貴賓車両から、鼓膜を劈くような激しい銃声と、爆発のような破壊音が轟き渡った!
続いて、女性客の悲痛な絶叫が車内に響き渡る。
『きゃあぁぁぁぁぁっ!! 助けてぇっ! クライン社長が……走行中の密室から消えたわーっ!!』
シオンとエルネスタは弾かれたように跳ね起き、瞬時にプロの顔つきへと戻った。
「事件ですわ……!」
「ああ……演出家の脚本が、開演したようだ!」
二人は強く視線を交わし、互いの手を固く握り締め合うと、疾走する鉄の密室――血塗られた事件の現場へと向かって駆け出した!




