第20話 月光にほどける二つの愛
深夜の六地蔵家。
豪奢な屋敷のすべての灯りは静かに落ち、千秋の部屋だけが月光に薄く照らされていた。
机の上には、雪乃の残した4曲の写譜と、一通の航空券。
出発日は千秋の誕生日。
千秋は、その文字をまるで裁くように静かに見つめていた。
(……誕生日に旅立つ。それが最適なのですわ)
そう呟いたはずなのに、胸の奥の痛みはまるで消えてくれない。
(本来……誕生日は祝福を受ける日。家族に、友人に……そして憂さんに)
瞼を閉じた瞬間。去年の誕生日の光景がふっと蘇る。
■
放課後の昇降口。
憂が胸の前で紙袋をぎゅっと抱えていた。
「千秋……その……上手じゃないんだけど……つ、作ったの」
紙袋の中にあったのは、不器用に縫われた手作りの手袋。
縫い目は少し曲がり、長さもところどころ不揃いで、指先の丸みもどこかいびつだった。
けれど、その不器用さが
むしろ胸に沁みるほど愛おしくて——
誰かのために作られた 温度だけが、そこには確かに宿っていた。
完璧とはほど遠い。
高価でも、洗練されてもいない。
でも——
(あれほど嬉しかった贈り物は、他にありませんわ)
胸が熱くなり、息が震えた。
どう感謝を返せばいいのか分からなかった。
■
その夜、千秋は手袋を抱いたまま、静かに涙を流した。
(わたくしは……高価な物より、あの子の時間が愛おしかったのです)
千秋は、机の端に置かれた
空のジュエリーボックスへそっと目を向けた。
かつてその中に入っていた
深い緑のエメラルドのネックレスは——
いまは憂の首元で輝いている。
憂の誕生日に、千秋が渡したもの。
文化祭の日も、クリスマスホールの日も、憂は必ずそれを胸に飾っていた。
光を受けるたびにゆらりと揺れ、憂の肌をやさしく照らしていた。
(あれは……わたくしが返したかった想いそのものです)
不器用な手袋に込められた憂の時間に、千秋は自分の誠意と未来を返したかった。
(エメラルドは、心を守る石……そして、憂さんの瞳に一番近い色でしたの)
そして——誕生日当日。
箱を開けた瞬間、憂の瞳がぱっと花のように咲いた。
息をのみ、頬がふわりと熱を帯び、
大切なものを抱きしめるようにネックレスを胸に当てて——
「千秋……すごく、すごく嬉しい……!」
震えた声。
笑顔に滲む真っ直ぐな想い。
子どもっぽい無邪気さと、その奥に潜む深い信頼。
その光に触れた瞬間、千秋の胸は不意に、きゅうっと締めつけられた。
エメラルドよりずっと深く、ずっと綺麗に揺れる憂の瞳。
(……どうして、こんなにも心が動くのかしら)
眩しすぎて目をそらしたくなるのに、そらしたくないほど愛おしくて。
あの一瞬で生まれた揺らぎは、千秋の胸の奥底に静かに沈み、決して消えることのない光となった。
そして——
その光こそが、今の千秋を最も苦しめていた。
月光が机の端に置かれた4曲の写譜を照らす。
その白い紙を見つめながら——
千秋の胸に、もう一つの秘密が疼き出す。
(……わたくしは、雪乃さんを……愛してしまいましたわ)
師として。
憧れとして。
それ以上の何かとして。
指導のたびに触れる音。
肩越しに聞いた息遣い。
譜面に書き込む細い指。
そのすべてが、胸を震わせていた。
(あの方の音と生き方に……心を奪われたのです)
だが同時に——
胸に浮かぶのは妹・憂の顔。
雪乃の隣で笑っていた少女。
雪乃が「守りたい」と願っていた唯一の家族。
そしていま、自分のもっとも大切な友人。
(……だからこそ、余計に——許されませんわ)
雪乃を愛し、その影を憂に重ねてしまう。
それがどれほど残酷なことか、千秋は理解していた。
雪乃を愛したまま、憂と友情を築くこと。
そのどちらも嘘にしたくなかった。
けれど——
心はもっと醜く揺れる。
(……もし、雪乃さんの影を追い続けるあまり……憂さんを代わりのように扱ってしまったら……?)
その想像だけで、千秋の指が震えた。
憂の優しさに触れるたび、胸の奥が痛くなる。
(憂さんが微笑むたび……その奥に雪乃さんの影を探してしまう自分が……本当に、嫌になるのですわ)
優しいからこそ残酷になれる。
憂が寄り添ってくれるほど、雪乃の面影を探してしまう自分が怖かった。
(……わたくし、このままでは……憂さんの友情すら……壊してしまいかねませんわ)
憂が差し出した温もりを、自分の弱さで汚してしまいそうで、胸の奥がずきりと痛む。
罪ではない。
でも赦せない。
(わたくしは……雪乃さんを愛したことを後悔しているわけではありません。ただ……この愛が憂さんを遠ざけてしまうのが……怖いのです)
その告白を口に出したら、きっと憂は泣くだろう。
自分のせいで、憂の笑顔が曇る。
それだけは、絶対に嫌だった。
だから千秋は、誕生日に旅立つと決めた。
雪乃への想いを鎮めるため。
憂との友情を守るため。
どちらも嘘にしないため。
(わたくしは、この二つの愛しさの間で……これ以上揺らぎたくないのです)
揺らぎ続ければ、憂の笑顔も、雪乃の残した未来も、すべて自分のせいで崩れてしまう。
その未来を想像した瞬間、千秋の胸は強く締めつけられた。
(……わたくしの弱さで、憂さんを巻き込みたくありません)
その葛藤こそが、千秋がもっとも語りたくなかった本音だった。
(本当は……会いたいのです)
文化祭で紅茶を淹れる憂。
英語で接客する憂。
クリスマスの灯りの下、憂は千秋の隣でエメラルドをそっと揺らしながら微笑み、
あの一枚が胸に残る大切な思い出になった。
(あの子の笑顔が……わたくしを弱くします)
だからこそ。
千秋は誕生日に出発すると決めた。
誕生日を断つことで、憂への未練を断つために。
(わたくしが側にいれば……憂さんは必ず揺らいでしまいます)
雪乃の継承を受けた千秋は、憂の心を守るべき存在であるのに——
いちばん揺らしてしまうのは自分だ。
千秋は窓辺に立ち、月光の海を静かに見上げた。
庭の影は深く落ち、夜風だけが遠くを流れていく。
(雪乃さん……わたくし、本当に……ここを離れていいのでしょうか)
憂の顔が浮かぶ。
ネックレスを嬉しそうに見せてくれた日。
「宝物にするね」と微笑んでくれた日。
千秋の胸が、痛いほど締めつけられる。
(……会いたい。けれど、それは弱さ)
額を窓に預け、静かに目を閉じた。
「……誕生日は、もう要りませんわ。その代わり……未来を、取りに行きます」
小さな声は、月光だけが受け止めてくれた。
机の上には——
去年の不器用な手袋と、
今も憂の胸元で輝くはずのエメラルドの空箱。
過去と未来。
ふたつの想いは静かに千秋の胸で交差し、
彼女はそっと目を開いた。
憂にいつか胸を張って会えるように。
その決意だけを抱いて、千秋の夜は深く、静かに、未来へと流れていった。




