第28話 お姉様の冬、雪乃の春
ホールの喧騒はすでに消え、
長い夜が六地蔵家を覆っていた。
千秋はひとり、音楽室にいた。
照明は落とされ、
月明かりだけがピアノの黒い表面に薄い光を落としている。
二台のピアノが向かい合い、
まるでまだ演奏の続きを求めているかのように佇む。
譜面台には、四つの曲の楽譜。
ウィザード。
ハザード。
ブリザード。
そして――最後の曲。
タイトルのない、たった一枚の譜面。
(お姉様……)
千秋は、そっとその紙を胸に抱く。
(これが最後の……あなたの音)
静かに鍵盤へ指を置くと――
指は、勝手に動き始めた。
ぽろん。
夜の静けさを破る、ひと粒の音。
ぽろん、ぽろん、ぽろん。
弾くつもりはなかった。
でも、止まらない。
まるで“雪乃の手”が背中に重なっているみたいに。
千秋は一瞬、手を止めようとした。
けれど。
鍵盤が――彼女を呼ぶ。
もっと。
もっと。
もっと弾け、と。
呪いのように、祝福のように。
(これは……わたくしの意思?
それとも、お姉様の残した熱……?)
胸の奥が、熱く疼く。
雪乃が最後に託したもの。
託してしまったもの。
(あなたは、わたくしを……逃がしてくれませんのね)
涙が、ぽろりと鍵盤へ落ちた。
白鍵の上で砕けるその滴は、
まるで冷たい雪の欠片。
「……お姉様……お姉様……」
呼んだ瞬間、胸の奥がひきつれる。
もう届かないはずの名前。
でも、呼ばずにはいられなかった。
「どうして……置いていってしまわれたのですの……
まだ……わたくし、何も返せていないのに……」
吐き出すほど、心が軋む。
「せめて……最後まで叱ってくださいませ……
もっと……ワガママを言ってくださいませ……
わたくしのことを……“千秋”と呼んでくださいませ……!」
震える声が夜に溶ける。
「だから……せめて……
もう少し、傍に……いてほしかった……っ」
鍵盤に落ちた涙が、小さな音を立てた。
押し寄せる寂しさ。
心臓を掴まれるような疼痛。
それでも――音は溢れ出す。
指が千秋を裏切らない。
なぜなら、
このピアノは、千秋の“秋”だから。
雪乃の“冬”を終わらせた先にある音だから。
(わたくしは……止まれませんわ)
泣いても、震えても。
千秋は、弾き続けた。
譜面が、月光を浴びて淡く光る。
まるで雪乃がそこに触れているみたいに。
――音が溢れる。
――涙がこぼれる。
――祈りが続く。
けれど、どこかで気づいてしまった。
この曲は、
「冬を終わらせる曲」ではない。
「春を始める曲」なのだと。
雪乃ではなく。
千秋のために作られた音。
だから――千秋は音を止めた。
最後の小節の手前で。
まだ完成していない。
まだ預かっただけ。
(ここから先は……わたくしが描く未来)
震える指先を握りしめ、
千秋は静かに呟く。
「――おやすみなさい、雪乃」
鍵盤の上で、涙が光る。
「雪乃さんの“冬”は、ここで終わりですわ」
ゆっくりと立ち上がる。
「そして――」
月に照らされた瞳は、
痛みに濡れながらも、確かな熱を帯びている。
「わたくしの“春”は、ここから始まりますの」
その瞬間。
譜面の端がきらりと揺れ、
窓の外では光の雪がひらりと舞った。
まだ夜は終わらない。
でも、
確かに季節は変わり始めている。




