第26話 成仏
ホールの出口付近。
人の流れから少し離れた場所に、静かに立つ人影があった。
石田――
六地蔵家を長年支えてきた、寡黙なメイド長。
背筋を伸ばし、いつもと同じ姿勢で立っている。
けれど、その佇まいはどこか、見送る者のそれだった。
雪乃は、吸い寄せられるようにその前へ進んだ。
「……今まで、お疲れさまでした」
先に口を開いたのは石田だった。
普段と変わらぬ穏やかな声。
しかし、その奥には、わずかな震えが滲んでいる。
雪乃は、真正面から言った。
視線を逸らさない。
最後くらいは――逃げない。
「一番、傷つけたのは……あなたでした」
一瞬、石田のまぶたが伏せられる。
「あなたはずっとこの屋敷のために働いてくださっていたのに……
私は何度も、あなたの心を踏みにじるようなことをして……」
言葉が、そこで詰まる。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「本当に……ごめんなさい」
石田は、小さく首を横に振った。
「子どもは、大人に甘えていいのです」
その声音は――
主従のものではなかった。
叱るでもなく、裁くでもなく。
母の声だった。
「あなたは……甘え方を知らなかっただけ。
誰に頼ればいいのか、分からなかっただけ」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「それでも全部、自分の責任だと抱え込んで……誰にも渡さず、誰にも預けず――壊れていった」
石田自身が、悔やむように言葉を落とす。
「止められなかったのは、わたしたち大人の責任でもあります」
「そんな……」
雪乃が小さく首を振る。
「だから」
石田は、はっきりと告げた。
「あなたひとりが、背負っていい痛みではないのです」
その一言に――
雪乃の膝が、わずかに震えた。
胸の奥で、張りつめていた糸が、音もなく緩んでいく。
「……ありがとう……ございます……」
声が、かすれる。
けれど――
雪乃の表情は、まだ晴れなかった。
しばらく沈黙したあと、
迷うように、けれど覚悟を決めたように、口を開く。
「……お母さんは……」
石田は、その言葉だけで理解した。
「記憶のこと、ですね」
雪乃は、ゆっくり頷く。
「……私のことを……もう、覚えていないままで……
それで……私が、いなくなったら……」
その先が、言えない。
娘を失ったという事実すら、理解できないかもしれないという恐怖。
石田は、一歩だけ近づいた。
「もう、大丈夫です」
迷いのない声音だった。
「これからは――葉月さんと、憂さんがいます」
雪乃が、はっと顔を上げる。
「あの方たちは、ちゃんと受け取りました。あなたが守ろうとした日常も、言葉にできなかった想いも」
石田は、静かに微笑んだ。
「母上のそばには、もうあなたの代わりに立つ人がいます。
あなたがいなくなっても――
空白には、ならない」
その言葉は、雪乃がずっと恐れていた結末を否定してくれた。
「だから……」
石田は、やさしく、しかしはっきりと言う。
「あなたは、もう休んでいいのですよ」
許しだった。
解放だった。
雪乃の目から、静かに涙が零れる。
「……はい……」
小さな声。
けれど、それは確かな肯定だった。
じんわりと涙が滲む。
「おいでなさい。雪乃様」
石田は、そっと膝を差し出した。
雪乃は、戸惑いながらもその膝の上に頭を預けた。
石田の手が、優しく髪を撫でる。
「ああ……あたたかい……」
雪乃の視界が、ゆっくりと滲んでいく。
(私……ようやく……子どもに戻れた……)
「雪乃さん」
――少し距離の近い呼び方。
“様”の壁が、そっと解かれた。
雪乃の肩の力が、ふっと抜けていく。
膝枕のまま――
雪乃は感じた。
自分の輪郭が淡くなり、身体を借りていた憂へと戻っていく感覚。
胸のエメラルドが、白に近い透明な光を放つ。
指先の感覚も、足の重みも、息遣いすら――
くすぐりのように遠ざかっていった。
千秋の叫びが聞こえる。
葉月の泣き声も。
菊子の嗚咽も。
メイドたちの震える呼吸も。
全部、湖の向こう側から響いてくるような柔らかな音に変わっていく。
――怖くない。
はじめてそう思えた。
なぜなら、ここには大人の腕があるから。
石田は、膝の上にいる雪乃の頬へそっと手を添えた。
「雪乃……」
ついに、呼び捨て。
それは仕える者の言葉ではない。
母が、子を呼ぶ声だった。
その瞬間――
雪乃の中で、何かがほどけた。
背負っていた責任も、
“姉”であろうとした意地も、
大人のふりをしていた心も。
すとん、と落ちるように――
彼女は、子どもに戻った。
小さな身体。
細い肩。
不安でいっぱいだった、あの日のままの少女。
雪乃は、石田の胸元に顔をうずめ、震える声で、幼い言葉をこぼす。
「……おかあさん……ごめんね……」
ぎゅっと、服を掴む指。
まるで迷子の子どものように。
「……わたし……いなくなっちゃって……
おかあさん……さみしくない……?」
御陵家の長女の言葉ではなかった。
誰かを守ろうとする声でもない。
ただ、置いていってしまった母を心配する、小学生の女の子の声だった。
涙が、ぽろぽろと落ちる。
「……ねぇ……もう……ねむっても……いい……?」
許可を求めるように。
叱られないか確かめるように。
“ちゃんと終わっていいか”を、
母に聞く子どもの声。
石田は、微笑みながらうなずいた。
「さあ……おやすみ。雪乃」
その言葉に包まれながら、雪乃はゆっくりと微笑んだ。
まるで昼寝の続きをするように。
幸せそうな寝顔で、目を閉じる。
雪乃は、音もなく光に変わった。
雪の結晶のようにきらめきながら――
音符のように舞い上がり――
星のようにほどけていく。
(ありがとう)
その言葉だけが、光となって残った。
空から、小さな雪が静かに降り続けた。
触れようとしても触れられない――
光の雪。
それは、長女がようやく眠れた夜に降りた祝福の雪だった。




