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隣国王子にさらわれたのは“国ごと”でした  作者: 妙原奇天


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第3話 堤の夜、言葉で剣を折る

 南端の堤は、夜だと獣の背に見えた。月が雲に隠れるたび、黒い稜線が脈を打つ。

 ガレスの合図で、私たちは走りながら灯を布で包み、光をできるだけ抑える。規則どおり二人一組、怒鳴らず、追わず。

 堤の腹に、人影が三つ。板を外し、竹の樋を溝に差し込んでいる。水が私宅へ引き込まれる「板抜き」だ。

 私はレオンと視線を交わし、頷いた。

「“接近の警告”まで十歩」

「了解。俺が前に出る。君は言葉を」

 近づくと、影のひとりが振り返り、短剣を抜いた。

「やめなさい。手を出せば“臨時治水令”により、夜明けまでの保護留置——」

 言い終える前に、短剣が月光をかすめた。

 刃先が私に向いた瞬間、レオンのマントが風を裂く。布が刃を絡め取り、足払い。男は堤に転がり、短剣が草の中へ消えた。

「痛え、離せ!」

「離さない。今は“保護”だ」

 レオンの声は低いが、怒鳴らない。約束を守る声だ。


 他の二人は逃げようと背を向けたが、堤道の下でガレスと部下が無言で通せんぼをした。

「追わない。止まれ。両手を見せろ」

 ガレスはいつもより静かだ。怒鳴らない隊長は、逆に怖い。


 私は竹の樋を引き抜き、外された板を戻した。板の裏に、赤い蝋が薄く塗ってある。

「……誰かが“封蝋”の真似事を」

 蝋を爪で剥がすと、中から銀色が覗いた。薄い金属片だ。

 ミラが駆けつけ、灯を布の陰で揺らす。

「金属片に刻印……“鷲の双頭”?」

「王都宰相府の古い紋。正式の金印ではないが、官庁の内輪で使う“連絡札”に似ています」

 ミラは眉を吊り上げ、皮肉を噛み殺した笑みになる。

「なるほど。“封蝋に見える目印”で、外した板をまた同じ場所に戻せるように。賢い悪巧みですね」

「賢いなら、もっと堂々とやればいいのに」

 私は男たちに向き直る。

「問います。誰の指図ですか」

 沈黙。

「答えないなら、規則通り。夜明けまで庁舎で保護留置。明日、公開で“板抜き”の実験をします。あなたがたと同じ道具で、どう流れが狂うか、皆に見せる」

 短剣の男が舌打ちした。

「……ギルドの奴らだ。『堤を壊せ』じゃねえ。『汲めなくして苛立たせろ』だ」

「パルマが?」

「名は出されちゃいねえ。だが、あの髭野郎の手先が“札”を渡した」

 ミラが紙片の匂いを嗅ぐ。

「油の匂いがする……水路会館のランプ油。会館のものだけ、松脂と鯨油が混じる配合です」

「つまり、会館の中で準備された道具、ってことね」

「断定は早い。だが“匂い”は証言しないが、記録には残る」


 レオンが男たちの縄を確かめ、私を見た。

「この場での処断は?」

「しない。公開で“制度”の話にする」

 私は堤の上に立ち、運河の暗闇を見下ろした。

「——臨時治水令第1号を出します。“夜間の板抜き”を重過失と見なし、再犯は“堤修繕の強制労働”で償う。罰金は取らない。代わりに労働で返してもらう」

 ガレスが片眉を上げる。

「罰金の方が楽じゃないか」

「罰金は利権が肩代わりして、何も変わらない。堤に手を入れる現場を見せる。労働は冗談が効かない」

 ミラが笑った。

「皮肉の出番が減りますね。健康に悪い」

「健康はよいことです」



 夜明け前。庁舎の広場で、私は板と竹樋を並べた。見物人が集まる。昨夜保護留置した三人は、ガレスに見張られて座らされている。

 私は皆の前で、板の裏の蝋と金属片を示した。

「これで“同じ場所を外した”と仲間内で分かる。外からは分からない。水は静かに奪われ、病が出る。怒号は役所に向かう。利権は笑う。だから、ここで止める」

 ミラが砂時計をひっくり返し、私は竹樋を溝に差し込む。水位が少しだけ下がり、下流の公水栓の流れが細る。

「ほら、こういう小さな“詐術”が積もると、弱い家から倒れる」

 私は竹樋を抜き、板を戻す。

「臨時治水令第1号。“夜間の板抜きは重過失。再犯は堤修繕の労働で償う”。——金で済まさない。当事者に“直させる”。これが私たちのやり方」

 ざわめきの中、パルマが人混みを割って進み出た。

「昨夜のことは、ギルドの総意ではない」

 太い指が机の代わりに自分の胸を叩く。

「だが、会館の資材が使われたなら、私の責だ。——三人の労働はギルドが監督する。堤の南端、最もきつい石積みを任せろ」

 私とパルマの視線がぶつかる。

「見張りは“自治領側”が持ちます。記録を残す。言い訳ができないように」

「それでいい。……それでいいさ」

 パルマが低く笑い、観衆の中の幹部たちを振り返る。

「聞いたな。“金ではなく汗”だ。今朝からだ」


 私は観衆を見渡し、続ける。

「そして——“仮の腹帯”を巻く。堤の弱い箇所に土嚢を積む臨時の補強。今夜一晩で終わる範囲に限る。市場の労働は奪わない」

「土嚢は俺が持つ!」

 ガレスが即座に手を挙げる。

「民兵は二人一組、怒鳴らず、追わず。……難しいが努力する」

 笑いが起こった。笑いは街の血のめぐりを良くする。



 午後。南端の堤で、土嚢が積まれていく。昨夜の三人は額に汗を流しながら、石と砂を運んだ。

 私は記録用の板に“時間”“人員”“作業区間”“砂の流出量”を刻む。

「数字で語る。これが、私の仕事」

 独りごちると、横から影が重なった。

 レオンが袖を捲り、私の手から筆を取り上げる。

「字が小さい。疲れている」

「余白を残すのが癖なの」

「余白は必要だ。——そこに俺が書くから」

 彼は大きめの字で、作業の進捗を書き足した。

「君は現場に余白を作る。役所に穴を開け、窓を作り、行列を消し、そして“列”を作った。俺は、その余白に守りを置く。二人で一枚の紙だ」

「詩人になったの?」

「君が相手だと、比喩が勝手に出てくる」

 不意に頬が熱くなる。私は視線を水面に落とした。運河は太陽にきらめき、土嚢に跳ねる水が細い虹をつくった。


 そこへ、吠える声。

「危ない、下がれ!」

 石積みの端で、古い継ぎ目が崩れた。作業員の足元が一瞬沈む。私は走った。

「ロープ!」

 ガレスが投げたロープを掴み、私は崩れた縁に腰を落とす男の腰に巻きつける。

「息を吐いて。体を預けて」

 男の肩が震える。水が引く勢いで、足が引かれそうだ。

 次の瞬間、私の腰に別の力がかかった。

「預けろ。——“任せる”番だ」

 レオンの腕が私の背を支え、二人でロープを引く。土嚢の列の向こうからも手が伸び、体が引き上げられた。

 男が土の上に倒れ込み、息を吐いた。周りに安堵の笑いが広がる。

「無茶するな」

 耳元で、レオンの囁きが震えていた。

「震えてるのは、あなたの方」

「当たり前だ。——君は、街に必要だ」

 その言い方は卑怯だ。必要、という言葉は、私の胸の奥の最も弱いところを正確に撃つ。



 夕刻。土嚢の“腹帯”は予定区間を巻き終えた。

 ミラが帳面を差し出す。

「作業時間、七刻。労働者四十六名。事故件数、一。重傷ゼロ。水位変動、許容範囲内。……で、総督。皮肉は要ります?」

「要らない。今日は、要らない」

「うれしいですね。私の職務が減っていく」

「別の職務が増えるわ。“明日の公開入札の告示”。堤修繕の正式案件。条件は“早く、安く、長持ち”。——パルマにも等しく、他所にも等しく」

 ミラはにやりと笑い、筆を走らせた。

「『等しく』って、官庁の言葉は時々ロマンチストですよね」

「現実はもっと意地悪だけど、言葉は約束の最小単位。まず言う。次に守る。最後に制度にする」

 私は庁舎に戻る道で、昨夜の三人の背中を見やった。泥にまみれた服が、夕陽で金色に見えた。

「彼らの“償い”が終わる頃、街の誰かの怒りも少しは沈む。そういう順序で世界は変わる」



 夜。屋上。

 広場の灯の海を見下ろすと、今日の“列”は穏やかに流れていた。公水栓の砂時計が落ちては返され、歌うような子どもの声が遠くで跳ねる。

 レオンが隣で、黙って空を見ていた。

「宰相府の“連絡札”。あなたはどう見る?」

「上にいるのは、必ずしも怪物ではない。だが“制度を道具にしか見ない者”は怪物より厄介だ」

「ベルトラム」

 名前に夜風が触れる。

「いつか正面から対峙する。だが、今日じゃない。今日は“堤を巻いた”日。街は眠る権利がある」

「同意。——それと、もう一つの“巻き”がある」

「巻き?」

 私は印章の革袋を取り出した。金印ではない。自治領の赤い小印。

「“臨時治水令第1号”。総督権限による緊急布告。副署が要る。二重の署名で、臨時を“制度”に近づける」

 レオンは短く目を細め、笑う。

「二重の署名、か。——職務のプロポーズみたいだ」

「軽口ね」

「本気だ。俺は君の『守る』に副署する」

 私たちは並んで印を押した。赤が、夜気の中で乾いていく。

 沈黙。言葉を節約する夜が、もう一度肩にかかる。

「アメリア」

「なに」

「今日、堤で君がロープを掴んだ時、俺は初めて自分の心臓の音を聞いた。……君が必要だ」

「街に、でしょ」

「俺に、だ」

 風が止まった。広場の灯が、遠くで瞬いた。

 私は答えない。答えは、制度のように段階を踏みたい。

「——明日。入札の告示を出す前に、“公水栓の本開放”をやる。そこで、答えるわ」

「待つ」

 レオンは短く言い、手すりから手を離した。

「待つのは嫌いじゃない。待つ間に、守れるから」


 遠くで夜鐘が鳴り、街が静かに呼吸を整える。

 “拉致”で始まった日々が、“自治”で一歩ずつ形になっていく。

 恋もまた、制度のように。

 言葉で決めて、行いで守り、印で残す。

 その順序で、明日に進む。

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