77話
書籍第一巻がいよいよ今週発売です。
東安平の邑が見えてきた時、彭越が鋭く声を上げた。
「おい、東だ。遠いが砂塵が見える」
邑から遥か東に目を凝らせば、微かに黄色い砂埃が舞っているようにも見える。
この時代の人はやはり視力がいいようだ。
「あれが! 琳はあそこに」
蒙恬が馬首を返そうとすると彭越が止める。
「慌てるな、爺さん。まだわからん、手下を付かせる。おい、二人あれに付いていけ」
彭越の手下が二人、馬を走らせ砂塵を追った。
「わしらは一先ず東安平を調べよう」
俺は遠くなる二つの馬影を眺めながら頷く。
……そうだな、焦って見落としたら元も子もない。可能性がある所は全て調べないと。
賊は蒙琳さんを連れて邑に入ったのだろうか?
ここの門番も買収されているのだろうか?
俺達は邑に向かい、門番に話し掛けた。
「今日、大きな瓶を積んだ荷馬車が通りませんでしたか?」
そう聞くと門番は少し思案し、ニヤリと嫌な笑みを浮かべ、無言で手のひらをヒラヒラと差し出した。
俺は内心舌打ちをしながら門番に銭を握らせる。
「いや、今日は荷馬車は通ってないぞ」
握った銭を懐に入れながら、門番は応える。
本当かよ? 賄賂だけせしめて嘘ついてんじゃないだろうな。
くそっ、これじゃ真偽の確かめようがないか。質問を変えよう。
「では、ここ最近変わった人の出入りは?」
また門番がニヤニヤと手を差し出す。
がめつい奴だな。
俺はため息をつきつつ、また銭を握らせる。
「んー、そうだな。変わったといや大きな商家の息子だかなんだかが、何日か前に来たな。火傷で顔が爛れたんだと、ずっと頭巾で顔を隠しておったが、随分威張った様子でお供を何人も連れていたな」
田安だろうか。その可能性は高いな。
というか顔隠してんなら確認しろよ。手配者かも知れないだろうが。
やっぱり賄賂を受け取っていたのだろうか。
「その人達はまだ邑に?」
俺は怒りを隠して質問する。
「いや、つい数刻前に出てったよ。あっちの方へ」
門番はそう言って、邑から少し離れた林を指差した。
「絶望、邑は手下を入れて探らせる」
彭越の小さな呼び掛けに俺は頷く。
「行ってみよう」
門から離れた俺達は、立ち並ぶ木々の中へ踏み入れた。
◇◇◇
林の奥には大きな瓶を積んだ馬のない荷馬車が転がっていた。
馬は恐らく奪っていったのだろう。
「うっ……」
そして五つの死体。
「どうやらこやつらが人拐いの賊のようだな」
彭越は腰を落とし、死体を調べ始める。俺も恐々とその後ろに立ち、その様子を眺める。
死体のうち三人は、斬られ、刺され、引きちぎられた様に血だまりに沈んでいた。辛うじて人の形を保っているという有り様だ。
「こちらの二人は傷は深いが複数を相手にした様子ではないぞ」
離れて倒れている残りの二人を調べた蒙恬から声が上がる。
「仲間割れ……?」
俺が呟きに彭越は立ち上がり、
「というより用済みの賊を始末したのだろう。こっちの二つは田安の手下か。大方、移動の足手まといになるため殺されたんだろうよ」
非道だな。
こんな行いをする男が斉を狙っているなんて。例え王になっても不幸な未来しか予想できない。
「轍や足跡の方角からしてやはり先ほどの集団がそうだろう」
彭越の予想に頷く。
「俺達は跡を追いましょう。邑に入った彭越殿の部下はそのまま待機してもらい、横殿が率いてくる兵達と合流を」
足跡から観て徒歩が大半だ。すぐに追い付けるだろう。
跡をつけて、
「機会があれば、蒙琳さんを救い出す……」
俺の呟きに彭越は頬の髭を掻き、
「惚れた女のことだからと言って無茶はするなよ。どこへ向かうか分かれば、遠からず青二才の兵も来る」
そう……だな、下手に動いては蒙琳さんを危険に晒してしまうかもしれない。
しかし蒙琳さんにあの下衆な手が触れていると思うと、胸が苦しくて居ても立ってもいられない。
想像したくもないことが頭を過る。
「いくら頭の足りぬ田安でも、流石に腰を振っている時ではないと思っているだろう。根城に帰るまでは無事であろう」
顔色から察したのか、彭越は慰めに似た言葉をかけてきた。
「品のない言い様だが、彭越の言うとおりじゃ。今から追えば、遠くなく追い付けよう。行こう」
蒙恬の声で皆馬に乗り、林を跡にした。
その後、彭越の部下一人を邑に入った部下への指示に走らせ、俺達は足跡を追った。
◇◇◇
空を赤く燃やす夕日を背に受ける。細く伸びる自身の影を追いながら俺達は駆ける。
「頭!」
田安の集団に付けた彭越の部下の一人が前方から駆けてきた。俺達を探すため、引き返していたところらしい。
部下達は遠目から馬車に乗せられ、縛られた女性を確認したそうだ。
日が落ちかけ、集団が野営の準備に入ったため報告へ走るところだったと言う。
東安平へ指示を伝えた部下もすでに合流している。
空が燃え尽き始め、薄く闇に包まれる頃。俺達は田安達に追い付いた。
薄暗い大地はどんどんその暗さを増しており、集団の中は所々に光る焚き火が見えるだけで蒙琳さんを確認することは出来ない。
しかしあの中に蒙琳さんが。
このまま突っ込んで全てを薙ぎ倒し、蒙琳さんを救えたら……!
手の平に爪が食い込んで痛い。無意識に力が籠っていた。
そんなことをすれば蒙琳さんを命の危険に晒し、俺達も全滅だ。
とにかく田横が来るまで見張っているしかないか。
いや、考えることは出来る。
「横殿が兵を連れてきて、どのように蒙琳さんを奪還するか、方策を考えましょう」
俺達は集団を隠れて見張れる小さな丘に登り、膝を寄せ合う。
「奴等はどこへ向かうのか。本拠に帰れば兵も居ろうし、奪還は難しくなるぞ」
蒙恬が唸ると、田安に付いていた部下の一人が話し出す。
「それなんですが。奴等の根城は即墨でさ」
おおっ、流石彭越の部下だ。でもなんでわかったんだ?
追跡役が続いて理由を話す。
「集団から遅れた兵を捕らえましてね、傷を負っていてもお構い無しで歩かされているようで、不満が溜まりに溜まっていたようで。随分軽い口でしたぜ」
なるほど。田安の酷薄さが情報漏洩に繋がっているのか。自業自得だな。
それにしても彭越の部下は皆、抜け目ないというか。まぁ頭目の旅に同行しているんだから有能な側近か幹部なんだろう。
「即墨か。田単が篭り、楽毅が落とせなんだ城邑か」
彭越が有名な即墨の堅牢さを思い、渋く顔をしかめる。
「いや、即墨は伝聞程守りの固い城ではないぞ。降伏を促すため楽毅は攻め落とさなんだのだと思う。まぁそれでも城壁に囲まれておるのは変わりない。辿り着くまでに決着はつけねばならん」
蒙恬が語る。中華を統一していた国の将軍職だったからか、祖父の代まで仕えていたからか、斉の城のことも詳しい。
「そうですね。野戦の混乱の内に蒙琳殿を救い出すのが一番良さそうですね。となると……」
俺達は夜更けまで、蒙琳さん奪還の方法を探って話し合った。
暗く深い藍色から、雲の多い灰色の空へと移り変わる夜明け。集団が移動の支度を始めたようだ。
大人数で追跡するのは危険と判断し、追跡役の二人を先行させ、俺達は何かあればすぐに駆けつけられる程度に離れて、その足跡を追う。
俺達からは集団の姿は見えない。
田安達は急いでいるようだが、その殆どが歩兵のため行軍速度は速くはない。
俺達は常歩で馬を歩かせ、距離を保っている。
そんなジリジリとした追跡の中、後方から待ち焦がれていた馬の駆ける音が聞こえきた。
田単 (でんたん)
斉の公族の遠縁で、臨淄の役人であった。楽毅率いる五国連合に攻められた際、馬車の車輪を補強を指示し、従った者は馬車が壊れる事なく即墨まで逃れる事が出来た。
筥と即墨を残すのみとなった時、代替わりした燕の恵王に楽毅の悪評を流し、騎劫と交代させ、火牛の計などを用いて騎劫を撃ち取り、その勢いに乗じて七十余城全てを奪回した。
楽毅 (がっき)
人物・用語説明集1 参照