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天空  作者: 糸雨 冷
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後編

静かな、静かなこの屋敷の中、愛しい貴方に逢えた。

ここは何よりも、愛しい世界。



「樋摘様も御可哀想に・・・。まだ御若いのに桜歩様に先立たれて・・・。」



あの方が亡くなられてから、店の中ではひっきりなしにそんな声が聞こえる。

だけど私は、自分が可哀想だなんて思えない。

私は未亡人となったけれど、不幸なんかじゃない。


桜歩様と出逢って十年。

桜歩様の妻となって五年。彼の妻となることを決めたあの日、二年しか共にいられないことを…十五で未亡人となることを、私は覚悟していた。

それなのに二人物子供をもうけ、五年も彼に添うことができた。


それは何よりも幸せなこと。



「樋摘は・・・永久に桜歩様を愛しています。」



愛しい貴方が、空の上でちゃんと笑っていられるように。

私はそれを願って、貴方のいない世界で強く生きていきます。






















七月某日、我が家のリビングに薄紫の髪の男が力なく転がっている。



「暑い。」


長い薄紫の髪をひとつに結った桜歩は、どうやら暑さに弱いらしい。

本人が言うには、もともと住んでいたとこはもっと涼しいんだとか。


確かに現在涙月の家はクーラーが壊れていて扇風機に頼っているので、文句を言いたくなるほどに暑い。



「暑いって言ったって夏なんだから仕方ないでしょ。

だいたい、いい大人が昼間からごろごろするのはやめなよね。」



涙月が文句を言うと、桜歩は寝転んだまま間延びした声で返事をする。



「申し訳ないけど、僕の仕事時間帯は深夜だったから昼間はだいたい寝てましたー。」



夜間に営業する接客業。

いかがわしい職業しか思いつかなかったので、涙月は追求を諦める。



「でもさ、アンタのまわり、変に涼しいんだけど。」



異様なものを見るような目つきで、涙月は桜歩を見る。

冷気を漂わしている人間なんてありえない。



「涙月さん、ホラー平気?」



体を起こし、うちわでパタパタと扇ぎながら桜歩が聞く。

ひとつに纏められた桜歩の薄紫の髪が小さく揺れる。



「桜歩は、ホラー好きなの?

というか、まったくもって話のつながりがわかんないんだけど・・・。

まぁ悪いけど私はホラー嫌いだから、うちにはひとつもないよ。」



涙月の言葉に桜歩は元の寝そべっていた体制に戻る。

本人が言うにはフローリングの冷たさが気持ちいいんだとか。

汚れが気になるところだが、そこは本人がきっちり毎日寝そべる前に掃除している。



「僕はホラーなんて見ないよ。

何が怖いのかも何が楽しいのかもわからないからね。

そしてホラー苦手なのならさっきの答えは追及しないほうがいいと思うけど?」



そう言ったきり、桜歩は昼寝モードに突入する。

昼間は起きていると眠くなるとことか、本当に彼は夜型人間らしい。



「ん?ちょっと桜歩!そこで寝るな。」



涙月がそう言った頃には桜歩はすでに夢の中だった。





















夜になると、とたんに感じなくなる。

暑い寒い、ぬくいつめたい、昼間はちゃんとわかったそれらが、夜になるとまったく感じなくなる。

感じるのは、生きていない自分の体の不確かさだけ。



「そろそろ・・・かな。」



一度死んだ僕は、気付いたらここにいた。

死んだら無に帰るのだとばかり思っていた。

それなのに僕は、僕という存在のままここにいる。


樋摘さえいない、この場所に。



「樋摘…逢いたいよ。」



だけど二度と、彼女に逢うことは叶わないだろう。





















近頃の日課になっていることは、ひどく近所迷惑なことだ。


「こらーっ起きやがれ、この、童顔紫女顔男ーっ」


私がいくら叫んでも、完全夜型で超低血圧の桜歩はうるさいとでも言いたげに身じろぎするだけで、起きる気配すらしない。

騒音とでも言うべき私の叫び声から逃れるためか、桜歩はタオルケットの中にもぐりこむ。

その姿は私よりも遥かに愛らしくてそれが非常にむかつく。



「こら、聞いてるの?起きろっつってんの・・・よ・・・。」



文字通り桜歩を叩き起こすべく、私は腕を振り上げた。

そして確かに振り下ろしたはずなのに、何で手ごたえがない・・・?

自分の手のほうに視線を向けてみると、私の手はさほの体を通り抜けていて・・・。


確実に、空気が凍った。



「いやああああああ―――っ」




















寝ていた僕は、女の叫び声によってお世辞にも爽やかとは言えない目覚めを遂げた。

ゴキブリが出たのかもっと物騒なものがでたのかはわからないけど、僕は愛しの彼女の名前を呼ぶ。



「樋摘、樋摘っ?いったい何があったの?」



彼女の名前を繰り返し、はたと気付く。

自分の口走ったことの馬鹿さ加減に、僕は頭を抱える。


ここに愛しい樋摘はいない。

ここにいるのは、僕と涙月さんの二人だけ。


「涙月さん、朝っぱらからいったいなに叫んでるの?」


僕がそう聞いても涙月さんは真っ青な顔をして僕を指差して口をパクパクさせている。

はっきり言ってわけわからないし、怪しいことこの上ない。


ほっといたら元に戻るかと思って待ってみたけど、

依然そんな感じなので僕はそんな涙月さんの相手をしてあげるほど優しくもなく、何か食べるものはないかと台所のほうに向かった。

目が覚めたらおなかがすいていることを、実感したんだよ。






















こちら涙月、現在桜歩の観察中。

朝起こすとき、私の手は桜歩の体を通り抜けたけど、それをも一度確かめようとしても桜歩はするりと交わしてしまい、確かめようがない。



「桜歩は病弱でほとんど部屋から出なかったとかいったけど、その割に反射神経良すぎると思うんだけど。」



そう言った私に、お皿を洗っていた桜歩はにっこりと笑いかける。

働くもの食うべからず、私は桜歩を拾ってからお皿を割らずに洗う方法を覚えてもらった。



「大人にはね、人生いろいろあるんだよ。」



そう言った桜歩の笑顔が有無を言わさぬものだったので、私は追及を諦めた。

どうせ一応二十歳すぎてると文句を言ったって、「僕よりは子供でしょう?」とか「去年までは未成年だったでしょう?」などと言われてしまうので口答えは致しません。


近頃気付いたことだが、桜歩はさりげなく圧力をかける。

静かな雰囲気で人に強制させるから、桜歩の彼女は大変だろうな、なんて思いながら、桜歩に惚れてしまった自分の馬鹿さ加減に完敗。

うん…いつの間にか、ね。仕方ないよね、好きになっちゃったものは。



「何一人で百面相してるの?」



そんな声に顔をあげると、至近距離に桜歩の顔。

思わず私は息をのむ。それにしても本当に、ムカつくほどに綺麗な顔。



「え…と、桜歩は腹黒だから、彼女さんは大変そうだなって、思って。」



私は適当に、そんなことを言って取り繕う。

その言葉によって、思いもよらない事実を聞かされる羽目になるなんて知らずに。



「失礼だねぇ。僕は腹黒なんじゃなくって、世渡り上手なだけ。

それに僕は奥さんにはひたすら甘かったので、そんな心配はいらないんだよ。」



桜歩の言葉に、私はぴたりと動きを止める。今…なんて言った?



「桜歩…今、なんて?」


明らかに様子がおかしいだろう私に、桜歩は首をかしげる。

紫の髪が小さく揺れ、綺麗。



「今って…そんな心配はいりません?」


「そうじゃなくって…もう少し…前。」



ドキドキと、心臓が音を立てる。

お願いだから、違うと言って…?

そんな私の願いは、当たり前のように打ち砕かれた。


「あぁ…もしかして、“奥さん”?

そう言えば言ってなかったね。

僕、既婚者なの。結婚五年目で、四歳の女の子と二歳の男の子がいる。」



結婚、五年目。

桜歩は二十三歳だと言ったので、十八歳の頃には結婚していたということになる。

四歳の娘がいると言うことは、結婚して一年…つまりは十九歳の時には、もう子供がいた。

私は今、二十歳で、つまり桜歩が私の年の頃には、桜歩はもう奥さんがいて、子供いて、桜歩に大切にされていた奥さんは、二人目の子供を身籠っていた。

なんか…ショックだ。

失恋した、と言うだけじゃなく、なんだかショック。



「桜歩、奥さんはいくつだったの?」



気分転換、になるかはわからないけど、そんなことを聞いてみる。

桜歩が十八で結婚したというのだから、もしかしたら奥さんは、私と変わらない年なのかもしれない。



「樋摘は…十八歳だよ。」



ヒヅミ。



「今、十八歳?」



確かめるために聞いた私の言葉に、桜歩は首をかしげる。

もしも、今十八歳なのだとすると、結婚した時奥さんは、十三歳。



「うん、樋摘は今十八歳だよ?」



現在日本では、女の子は十六歳にならないと結婚できない。

桜歩の奥さんが十三歳で結婚したというのなら、きっと桜歩は…どこか、遠いところの人。




















ゆらり夜空に浮かぶ、樋摘の髪色に少し似た、丸いもの。

それは黄金色に輝き、僕を見下ろす。

天姫殿から、それが見えたことはなかった。

涙月さんは、それを“ツキ”と呼んだ。

魔性の輝きは僕を虜にし、ひどく懐かしい気持ちにさせる。


月が…恋しい。

夜中にふと、目を覚ます。

なんだか不安に駆られて、窓の外…公園を見下ろす。

そこにいたのは、見間違えることのない長い薄紫の髪を持つ、綺麗すぎるほどに綺麗な男。



「桜歩?」



じっと立ち止まり月を見上げるその姿は恐ろしいほどに美しく、窓から見たその光景は幻想的な一枚の絵画のようで。

いっそう不安をかきたてられ、私は上着をひっつかみ、夜の公園へと飛び出した。


何が起こるのかさえ、知らずに。






















丸い、輝く月に向って、桜歩はゆっくりと手を伸ばす。

金色の光が桜歩を照らし、薄紫の髪が、風に僅かに揺れる。

かぐや姫のように、月に帰ってしまうんじゃないかと思って、私は慌てて彼の名を呼ぶ。



「桜歩っ」



私が呼ぶと、桜歩は月へ伸ばしていた手を下げながら、ゆっくりと私を見る。

濃紺の瞳が優しい色を映し、にっこりと微笑む。



「どうかしたの?涙月さん。」



どうかしたの、だなんてしらじらしいと思う。

桜歩が気付いてないだなんて、そんなことあるはずないのに。


初めて出会った日に来ていた、とても綺麗な女物の着物。

それに身を包んだ桜歩の体が、うっすらと透けて、その向こう側になる景色が見える。



「桜、歩……あんた…。」



震える声で紡ぎだした言葉は、最後まで言うことさえできなくて。

そんな私を見て、桜歩は苦笑する。

優しくて、切ない…美しすぎる天女の微笑み。



「ホラー苦手だって言ってたし、こんなとこ見せるものじゃないから、涙月さんが寝てる間に、済ませようかと思ったのにな。」



凛としたテノールの声が、悲しげな色合いを醸し出して響く。

声はこんなにもはっきりと聞こえるのに、彼の姿だけはどんどんと無色に近づいて、儚げに透き通っていく。


桜歩が、消えていく。



「元々いた場所に…樋摘さんのところに帰るの?」



それは私にとって、望みであったのかもしれない。

だけど桜歩は苦笑して、その様子がひどく悲しげで…桜歩のことを、遠い大人に感じた。



「僕ね、生まれつき体が弱かったって言ったでしょう?

二十歳まで生きられないって言われてた。

それでも僕は、二十三歳まで生きて、奥さんももらって子供もいて…幸せだったよ。

とても…。」



半透明になりながらも、美しい薄紫の色をした桜歩の髪が、風に舞う。

そのまま透明になってしまうと思っていた桜歩の体は、さらさらと音を立てて、足元から砂のように消えていく。



「桜歩っ」



私の声は、桜歩のもとに届かない。

なぜならそれは、桜歩の目に映っていたのは、私じゃないから。



「ただ…一つだけ望むなら………もう少しだけ、樋摘と一緒に、いたかったなぁ…。」



髪と同じ色合いの長いまつげに縁取られた濃紺の瞳から、透明な雫が、一つ零れ落ちた。



乾いた地面に小さな涙の跡を残し、薄紫の髪と濃紺の瞳を持つ幽霊は、消えてしまった。





















『でも、多くの人が、天姫って呼ぶ。天の…手の届かないお姫様、っていう意味をこめて。』



天女は、空へとかえっていった。

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