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「ようやく目を覚ましたか」
シエトは視界が霞んで、ここがどこかもよくわからなかった。しばらく意識を失っていたらしいことは理解する。姿はぼやけてしまっていたが、その声で目の前にはヴィラリアがいるのがわかった。
腹の辺りが妙に生暖かく、その上に置かれていた手のひらを見ると、ぼやけた視界がべっとりと赤い色に染まった。
「そっか。僕、死ぬのか……」
そこでようやくシエトは自分の状況を薄っすらと思い出す。ヤッカが倒れた後、慌てて逃げ出そうとした彼だったが、すぐに牛の化け物のような魔族に追いつかれ、振り払われた拳に当たって吹き飛ばされた。
腹の一部は抉れ、木にぶつかった勢いであちこちの骨が折れたようだった。内臓だけは奇跡的に無事で、辛うじて息をしているが、あまりに出血がひどい。シエトはこのままでは長くはもたないだろうということが感覚的にわかった。
「また、僕の身体を使っていいよ。だからあの魔族たちを倒してほしい。こんなボロボロになっちゃったけど、それくらいはできるでしょ……」
「無理じゃな。儂が魔力で無理矢理おぬしを動かせば、一匹倒すうちに身体が耐え切れず崩壊してしまうじゃろう。おぬしが儂と契約を交わし、自分の力として儂の魔力を使うのであれば話は別じゃがのう」
「……それは困ったな」
シエトは溜め息混じりに、諦観に満ちた自嘲の笑みを浮かべる。
「何を恐れておるのじゃ」
ヴィラリアはそんなシエトを見下ろしながら尋ねる。
「おぬしが恐れているのは、魔王である儂でも、その儂と結ばんとする契約でも、その力を行使する自分でもないな。もっと別の、見えない何かを恐れておるようじゃ」
もうこの時には、ヴィラリアはシエトを説得する気が失せていた。シエトは明確な意志を持って、彼女からの提案を拒んでいたからだ。一方で、単純な興味として彼の心を知りたくなっていた。
シエトはヴィラリアとの契約を拒むことに、もはや合理的な理由はない。彼女に身体を明け渡すことは受け入れているし、もはや彼女のことを疑う気持ちもなくなっていた。
そもそも彼が生き延びる選択肢は他にないし、彼が契約を受け入れさえすれば、トンカ村の人間たちを救うことができるかもしれない。本来、彼の性格を考えるなら、後先を考えずにヴィラリアの提案を受け入れる方が自然とも言えた。
しかし、彼は自ら彼女の手を取ることができなかった。それは彼が自分の意志で行動を起こすことをひどく恐れていたからだ。
「君は僕に勇者になれと言ったよね」
「ああ。儂の未練を果たすためには、魔王を打ち倒さなければならんからな」
「実はさ、小さい頃僕は勇者に憧れていたんだ。絵本で読んだ遠い昔の勇者がかっこよくて、僕もいつかこんな風になりたい、世界を救えるような勇者になりたいと思ってた」
シエトが長らく記憶の奥底に封印していた思い出が、死を目の前にして溢れ出すように甦ってくる。もはや現実から逃げる気力も残っていない彼は、ようやく目を逸らし続けてきた罪を告解する。
「僕の故郷は魔族に滅ぼされた。町のすべてが焼き尽くされて、家族を含め、僕以外の人間は全員死んだ」
ちょうど視界に滲んだ血の赤色が、あの日の炎と重なる。あの明るすぎる夜も、この森と同じくらい静かだった。大抵絶望が放つ喧噪というのは一瞬で、人がどんなに悶え苦しもうとも、世界は変わらず穏やかであり続けるものだ。今も人間と魔族の戦いに関心も抱いていない小鳥の囀りが呑気に聞こえている。
「あれは全部僕のせいなんだ」
誰にも告げられなかった真実をシエトは初めて口にする。
「僕が余計なことをしなければ、魔族が攻めてくることもなかった。身の丈に合わず勇者なんかに憧れていたから、自分にも世界が救えるって勘違いしちゃったんだ。その馬鹿な考えを魔族にまんまと利用されて、僕のせいでみんなが死んだ」
シエトの故郷は貿易の要所となっていた港街だった。その地理的重要性から、町には強力な防御結界が張られていて、魔族は近付くことすらもできない鉄壁を誇っていた。
しかし、魔族に騙されたシエトの小さな行動がきっかけで、その防御結界があっけなく破られてしまう。そして丸裸になった町は魔族軍の侵入を許し、たった一夜にして滅亡してしまった。
「今思えば、僕は何もできない自分が嫌だった。父さんや兄さんたちみたいに尊敬される人間になりたかった。本当は自分にもできることがあるって信じてた。でも現実には何にもできないから、勇者なんて夢物語に憧れるしかなかったんだと思う」
シエトは他人に自分を認めてほしかった。自分が無意味な人間ではないと証明したかった。それ自体は何ら特別ではなく、子どもにありがちな英雄願望だった。その平凡で幼稚な承認欲求が、運悪く街を滅ぼす道への橋渡しを担ってしまったのだった。
「どうせ何もできないなら、何もしない方がいい。負えない責任なら、最初から負わない方がいい。だからもう何事にも関与したくないんだ。何の役にも立たないなら、世界から一定の距離を保って脇役として生きていく方がいい。僕が余計なことをしたせいで、誰かが悲惨な結末を迎えるのは耐えられない」
言葉に力が入りすぎて、上手く息が吸えずに血を吐いてむせる。
責める者すらいなくなったこの世界で、生き残ったシエトだけがずっと自分自身を呪い続けていた。一度の大きすぎる過ちによって、必要以上に自分を律し続けていた。自分には何もできないのだと、自分に言い聞かせ続けて生きてきた。
「つまらん話じゃったのう」
ヴィラリアは頬杖をついてシエトの目の前に座り込むと、わざとらしくつまらなそうなあくびをした。
「それならば、契約の条件を一つ追加しよう」
そして、淡々とした口調で契約交渉を始める。
「魔王を倒し、争いを終わらせるまでの過程で、おぬしを騙したというそやつへの復讐も約束してやろうぞ」
「違う。別に僕は復讐なんか望んでない」
ヴィラリアの提案に、シエトはすぐさま反論する。
「では、何を望む?」
反射的に顔を上げたシエトに、ヴィラリアは試すようなまなざしを向けた。
「だから、僕は……」
「おぬしは何のために生きる?」
ヴィラリアの問いに、シエトは口ごもる。
彼はこれまで何度も生きることを諦める機会があった。
本来ならあの炎に焼かれて兄たちと共に死んでいた。
自分を見逃して去ろうとした魔族に立ち向かって、自ら殺されに行くこともできた。
当てもない旅路で進むのを諦めて餓死を待つこともできた。
いつでもトンカ村の生活を捨てて、自罰的な死を選ぶこともできた。
ヴィラリアと会った時だって、彼女の手を取らなければ、そのまま魔族に殺されていた。
でも、僕は生きている。生きようとして、生き続けている。
本当に自分が世界に関わりたくないのなら、死んでしまえばいいのに。
まだ、どこかで自分のことを諦められずにいる。主役になれる気でいる。
「まあ、諦めるんじゃな。おぬしは厄介事に巻き込まれる運命なのじゃろう」
ヴィラリアは改めてシエトの前に手を差し出す。
再び信じて手を取る相手が魔族、それも元魔王だなんて、つくづく嫌味な世界だなとシエトは呆れてしまう。
「僕はこの村を救いたい。勇者になるとか、世界を救うとか、そんな大それたことは僕なんかにできないかもしれないけど、このまま何もできずに死ぬのは嫌だ」
それはシエトの本心だった。
「よかろう。その願い、儂が叶えてやろうぞ」




