【第200話】再生の録
朝が来た。
マルタの箒の音が聞こえる。市場が目を覚ます音。エルダンの朝は、いつもこの音から始まる。
目を開けた。窓から朝日が差し込んでいる。隣で、ティナがまだ眠っている。
起き上がった。着替えた。ポケットに石を入れた。最初の石。光らない石。隣に、昨夜書いた手紙が折り畳まれている。
今日は、歩こう。
一人で。この街を。全部見て回ろう。
◆
北門から出た。
市壁の外に、溝と岩壁が残っている。朝日を受けて銀色に光る合金の壁。英霊の草が青い。あの日から何ヶ月も経っているが、草の色は変わらない。大地の記憶が、地上に染みている。
溝の底に、もう矢は落ちていない。砕けた盾も片付けられた。溝は排水路として再利用されている。岩壁は市壁の外郭として残されている。戦いの痕が、平和のための道具に変わっている。
英霊の草に触れた。冷たい。だが、触れた瞬間、微かに脈打った。鉱脈の脈動だ。地下で、大地の記憶がまだ生きている。
「おはよう」
英霊に向かって言った。返事はない。だが、草の色が一瞬だけ濃くなった気がした。
◆
市壁に戻った。北門をくぐる。
市場の通りに出た。まだ早い。天幕は半分しか開いていない。だが、マルタの店は全開だ。
「おはよう、領主様。今日も早いね」
「おはよう、マルタさん。りんごをくれ」
「一つ? 二つ?」
「三つ」
「三つ? 誰にやるんだい」
「一つは俺に。一つはティナに。一つは——」
考えた。
「一つは、市壁の上にいるやつに」
「カラスさんかい。朝から壁の上に立ってるよ。あの人は」
「ああ。りんごを届けてくる」
マルタがりんごを三つ渡した。
「今日のは特に甘いよ。戦争の前も、後も、変わらず甘い。あたしのりんごだけは、何があっても変わらないからね」
「知ってる」
りんごを受け取った。赤い実。朝日に光っている。
◆
市壁の上に登った。
カラスが立っていた。いつもの場所。北の街道を見ている。
「おはよう」
「おはようございます。領主殿」
「りんごだ。マルタさんから」
カラスが受け取った。一瞬、口元が動いた。
「……甘いのか」
「今日のは特に甘いと言っていた」
カラスがりんごを齧った。咀嚼する音が、朝の静寂に響いた。
「甘い」
それだけ言った。それで十分だった。
二人で北を見た。街道が伸びている。王国の方角。だが、あの道から来るのは、もう軍隊ではない。商人が来る。旅人が来る。いつか、ヘルマンがスープを飲みに来る。
「カラス。この街は、大丈夫だと思うか」
「大丈夫です。りんごが甘い限り」
「マルタさんと同じことを言うな」
「事実ですから」
◆
市壁を降りて、鍛冶屋に寄った。
親方がもう炉に火を入れている。隣でルッツが鉄を選んでいる。
「おはよう、親方」
「おう。早いな。何か用か」
「用はない。顔を見に来ただけだ」
「顔だけ見て帰るのか。暇だな、領主ってのは」
「暇じゃない。今日は街を全部歩いて回る」
「全部? 五千人の街を?」
「全部は無理かもしれないが、行ける場所は全部」
親方が鼻で笑った。
「ルッツ。領主様が散歩だとよ」
ルッツが振り返って敬礼した。監察局の癖がまだ抜けていない。だが、手に持っているのは短剣ではなく金槌だ。ハインツの金槌。
「おはようございます。領主殿」
「おはよう。腕は上がったか」
「まだまだです。親方に毎日怒られてます」
「怒られてるうちが華だ」
親方が付け加えた。
「怒られなくなったら、一人前だ。まだ十年早い」
「十年ですか……」
「十年だ。鉄はな、十年打って初めて語り始める」
十年。この街の十年後を考える。ルッツが一人前になる頃、この街はどうなっているだろう。
◆
支援所に寄った。
アレッサがもう鍋の前にいた。
「おはようございます、領主様。今日のスープ、最高傑作ですよ」
「毎日言ってるな」
「毎日が最高傑作です。だって、毎日違う朝ですから」
一杯もらった。温かかった。根菜と豆。いつもの味。何も変わらない。だが、毎日少しずつ違う。今日は少し甘い。エルディンの干し肉が多めに入っている。
リセが奥の部屋から出てきた。薬草の束を持っている。
「晴貴さん。おはようございます。今日は早いですね」
「街を歩いて回ろうと思って」
「いい日ですね。散歩日和です」
「散歩というか——見届けたいんだ。全部を」
リセが微笑んだ。
「全部は見届けられませんよ。この街は毎日変わっていますから。今日見届けても、明日にはまた新しいものが生まれている」
「それでいい。今日の分だけ見届ける。明日はまた明日の分を」
「また明日。マルタさんが好きな言葉ですね」
「ああ。この街の一番強い呪文だ」
◆
ミーナの工房に寄った。
南区の小さな建物。看板が出ている。「癒しの処・ミーナ」。手書きの看板。少し傾いている。
中に入ると、ミーナが患者と向かい合っていた。老人の膝に石を当てている。
「名前を聞いてもいいですか」
「ハンス。ハンス・ベルクだ」
「ハンスさん。膝の痛みですね。今から楽になりますよ」
石が光った。青い光。師匠の光より少し柔らかい。ミーナ自身の光。
晴貴は入口に立ったまま、黙って見ていた。声をかけなかった。ミーナは気づいていない。気づかなくていい。この光景が、全ての答えだ。
弟子が一人で患者を癒している。名前を聞いてから。石を当ててから。師匠がいなくても。
癒しは続いている。
◆
政庁に戻った。
ユリウスが執務室で帳面を書いていた。
「おはよう、ユリウス」
「おはようございます。領主。散歩ですか」
「散歩だ」
「帳面に書きます。"領主、朝の散歩。目的不明"」
「目的はある。見届けたかった」
「何をですか」
「全部を」
ユリウスがペンを止めた。晴貴の顔を見た。
「……領主。全部を見届けるのは、俺の仕事です。帳面に書いてありますから」
「お前の帳面にも書いていないものがある」
「何ですか」
「温度だ。スープの温度。りんごの甘さ。鉄を打つ音。石の光。帳面には数字は書けるが、温度は書けない。だから自分で歩いて確かめる」
ユリウスが少し間を置いた。
「……それは、帳面の限界ですね」
「限界じゃない。帳面は帳面の仕事をしている。温度は足で確かめる。両方あって、初めて全部になる」
「ドルク殿と同じことを言いますね。"事実は帳面に、伝説は口に。両方あって歴史になる"」
「ああ。ドルクの受け売りだ」
ユリウスの口元が動いた。笑みとは呼べないが、ユリウスにしては上出来の表情だった。
◆
夕方、支援所の前に長机が出された。
誰が言い出したわけでもない。アレッサが鍋を出し、マルタがりんごを並べ、香辛料商が追加の鍋を持ってきた。ティナが椅子を運び、ミーナが石を置き、リセが花を飾った。
自然に、人が集まってきた。
晴貴が座った。ティナが隣に。半歩——いや、もう半歩ではない。隣に。ぴったりと。
ミーナが向かいに座った。手帳を持っている。自分の手帳。
リセが隣に。薬草の匂いがする。
ドルクが来た。鉱夫を二名連れている。鉄鉱石の欠片を弄びながら座った。
ギルバートが来た。剣を置いて座った。隣に若い兵がいる。ハインツの後を継いだ兵。
カラスが来た。壁際ではなく、机に座った。珍しい。りんごを持っている。
リヒトが来た。灰色の目。だが、目の奥に静けさがある。ガルトが隣に座った。
ユリウスが帳面を閉じて来た。マルシオが隣に座った。
トマスとフィンが来た。ルッツが来た。ヴォルフが来た。
一人、また一人。長机が人で埋まっていく。
アレッサがスープを注いだ。
「今日のスープ、最高傑作ですよ」
「毎日言ってるな」
全員が笑った。
◆
長机に、全員がいた。
石を握った男。帳面を書く女性。りんごを磨く女主人。鍋を温める女性。薬草を摘む修道女。金槌を振る弟子。剣を持つ騎士。影の男。灰色の目の男。帳面の参謀。港の連絡官。鉱夫。
かつて敵だった者。最初から味方だった者。山の向こうから来た者。教会から来た者。
全員が、同じ鍋のスープを飲んでいる。
晴貴はスープの椀を持ち上げた。温かい。いつもの温度。変わらない温度。
ポケットの中に、石がある。最初の石。光らない石。温かい石。
その隣に、手紙がある。届かない手紙。温かい手紙。
この手に、癒しがある。
この街に、仲間がいる。
この鍋に、温もりがある。
この全てが、富だ。
金ではない。地位でもない。ここにいる全員の名前と、ここにある全てのものの温度が、富だ。
椀に口をつけた。スープを飲んだ。
温かかった。
◆
「ティナ」
「はい」
「帳面に書いておいてくれ」
「何をですか」
「"今日のスープは、最高傑作だった"」
ティナが笑った。帳面を開いて、書いた。
「書きました。日付と、天気と、"今日のスープは最高傑作だった"」
「それでいい」
「それだけですか」
「それだけだ。それだけで、十分だ」
長机の上で、スープの湯気が天井に昇っていく。
この街は、今日も動いている。
明日も動く。明後日も。十年後も。
一つの石から始まった街。一杯のスープから始まった物語。
この手に、癒しと富を。
(了)
お読みいただきありがとうございます。
全二百話、完結しました。
一つの石から始まった物語が、一杯のスープで終わりました。
書き始めた時は、ここまで来るとは思っていませんでした。
最後まで読んでくださった皆様に、心から感謝します。
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