【第199話】手紙
夜中に目が覚めた。
隣で、ティナが眠っている。寝息が聞こえる。穏やかな寝息。結婚してから毎晩聞いている音。
起き上がった。足音を殺して部屋を出た。廊下を歩き、工房に入った。
灯りをつけた。作業台の上に、紙とペンを出した。
石ではない。今夜は、字を書く。
◆
誰に宛てるのか、自分でもわからなかった。
元の世界の自分に。あの部屋にいた頃の自分に。それとも、もういない自分に。
ペンを紙に置いた。最初の一文字が、なかなか出なかった。
書き始めた。
◆
「元の世界の、俺へ。
届かない手紙を書いている。
届ける方法はない。この世界から、あの世界に紙を送る術を俺は知らない。知っていたとしても、送らないかもしれない。この手紙は、送るためではなく、書くために書いている。
俺は元気だ。
この世界で、錬成士になった。石を握って人を癒す仕事だ。お前が——俺がいた頃の俺が聞いたら、笑うかもしれない。あの世界では、誰かを癒すどころか、自分を癒すこともできなかった。
駅までの道を毎日歩いた。コンビニで弁当を買った。電車に乗って、会社に行って、帰ってきて、一人で食べて、一人で寝た。誰とも話さない週末があった。名前を呼ばれない日があった。
あの頃の俺に言いたい。お前は悪くなかった。ただ、居場所がなかっただけだ。
居場所がないことの辛さは、痛みとは違う。骨折なら癒せる。切り傷なら塞げる。だが、「どこにもいない」という感覚は、石では癒せない。
あの世界で、俺は透明だった。いるのに、いない。存在しているのに、存在を感じていない。電車で隣に座った人の顔を覚えていない。向こうも俺の顔を覚えていない。毎日すれ違っていたのに、一度も名前を呼び合わなかった人が、何百人もいた。
今は、居場所がある。
エルダンという街だ。鉱山街だった。衰退して、荒れて、人がいなくなりかけていた。俺がここに来て、石で人を癒して、鍋でスープを出して、少しずつ人が集まった。今は五千人の街になった。連邦を作った。四つの都市が繋がっている。
信じられないだろう。俺も信じられない。あの世界で誰とも話せなかった男が、五千人の街を作った。
仲間がいる。
マルタという果物屋のおばちゃんがいる。りんごが甘い。毎朝「おはよう」と声をかけてくれる。署名式では必ず最初に拍手する。戦争の時も看板を下ろさなかった。この街で一番強い人間は、たぶんこの人だ。
アレッサという女性がスープを作ってくれる。毎日が最高傑作だと言う。本当にそうだと思う。三千二百人の避難者にスープを出し続けた鍋の前の女性。この街の温度を作っているのは、この人の鍋だ。
カラスという男がいる。影の中で生きてきた男だ。今はりんごが好きだ。誰にも言うなと言っているが、街中が知っている。影から光に出ることの怖さを知りながら、それでも出てきた男。
リヒトという男がいる。十八年間命令に従ってきた男だ。今は命令しないと決めた。姉の墓に「居場所が見つかった」と報告しに行った。灰色の目に、今は静けさがある。
ミーナという弟子がいる。俺より先に、敵の兵を癒しに行った。俺が教えたことの中で、一番大事なことを、俺より先に実行した。今は自分の工房を持っている。師匠を超えた弟子。だが、今でも「師匠」と呼んでくれる。
リセという修道女がいる。この世界で最初に手を差し伸べてくれた人だ。今も薬草畑で、静かに癒し続けている。「癒しの原点は力ではなく手を伸ばすこと」。この人が教えてくれた。
ユリウスという参謀がいる。帳面の男だ。故郷を想い続けている。冷静に見えて、一番熱い。帳面の隅に故郷の名前を書いては消し、消しては書いていた男が、ようやく消さなくなった。
ドルクという鉱夫がいる。石で全てを判断する。俺のことを「鉱夫の仲間だ」と言った。鉱夫は石が本物かどうかを手で見分ける。この男に「本物だ」と言われた日が、俺の一番の勲章だ。
ギルバートという騎士がいる。守ることの意味を、戦争の中で見つけた男だ。部下を失い、泣き、それでも壁の上に立ち続けた。
そして、ティナがいる。
政務補佐官。帳面とペンの女性。軽口が上手くて、耳が赤くなりやすくて、全部記録する。
結婚した。
あの世界では想像もできなかった。俺が誰かと結婚するなんて。でも、した。市場広場で。りんごと鍋に囲まれて。果物屋のおばちゃんが最初に拍手した。
プロポーズの第一声は「結婚しよう」だった。ティナは帳面を落とした。二言目は「お前と一緒にこの街の朝を迎えたい」だった。ティナは泣いた。帳面を拾いながら。
あの世界の俺には、朝を一緒に迎えたい人がいなかった。ここにはいる。それだけで、この世界に来た意味がある。
ティナは俺のことを全部知っている。ただ一つ——俺がこの世界の人間ではないということだけは、知らない。
秘密がある。
俺は、この世界の人間ではない。別の世界から来た。どうやって来たかもわからない。帰る方法があったかもしれない。だが、帰らないと決めた。
市壁の上で、星に向かって「ここにいる」と言った。誰にも聞こえない声で。だが、大地が応えた。鉱脈が脈打った。この世界そのものが、俺の選択を受け止めてくれた。
この秘密を、誰にも言えない。ティナにも。ミーナにも。誰にも。
いつか言える日が来るかもしれない。来ないかもしれない。だが、秘密を持っていることと、嘘をついていることは違う。俺はこの世界の人間として生きると決めた。その決意は嘘ではない。ティナの手を握る温度は嘘ではない。ミーナに「師匠」と呼ばれる重みは嘘ではない。
だから、この手紙を書いている。届かない手紙を。
誰にも言えないことを、紙の上にだけ残す。書くことで、自分の中の何かが整理される。帳面を書くティナの気持ちが、少しだけわかった気がする。
お前に——元の世界の俺に——伝えたいことがある。
お前は消えたのではない。
ここに来たのだ。ここで生きている。名前を呼ばれている。手を握っている。スープを飲んでいる。りんごを齧っている。石を握って、光らせて、人を癒している。
お前が持っていなかったものが、全部ここにある。
だから、心配するな。もう一人の俺。お前がいなくなった世界が、どうなっているかはわからない。だが、俺がいるこの世界は、大丈夫だ。温かい。
最後に一つ。
ありがとう。
あの世界にいた俺がいなければ、この世界の俺はいない。あの孤独がなければ、この温かさの意味はわからなかった。名前を呼ばれない日があったから、名前を呼ばれることの重さを知った。
一人で食べた弁当があったから、みんなで囲む鍋の温かさを知った。誰にも「おはよう」と言われない朝があったから、マルタの声がこんなに嬉しい。
全部、繋がっている。あの世界も、この世界も。
あの孤独は無駄じゃなかった。あの透明な日々は、意味がなかったわけじゃなかった。全部が、ここに辿り着くための道だった。
だから、ありがとう。
もう一人の俺へ。
元気でいてくれ。いつか会えるといいね。
——嘘だ。会えない。わかっている。
でも、リヒトの姉も同じことを書いた。"元気でいてね。いつか会えるといいね"。
届かない手紙の結びは、いつもこうなるらしい。
会えなくても、書く。届かなくても、書く。それが手紙だ。
葵晴貴」
◆
書き終えた。
ペンを置いた。紙を見つめた。インクが乾いていく。
この手紙を、誰にも見せない。どこにも送らない。ただ、書いた。書いたことに意味がある。
紙を折った。小さく。ポケットに入る大きさに。
最初の石と一緒に、ポケットにしまった。光らない石と、届かない手紙。二つとも、この世界では意味がないものだ。だが、晴貴にとっては全ての始まりであり、全ての決着だった。
工房を出た。廊下を歩いた。部屋に戻った。
ティナがまだ眠っている。寝息が聞こえる。
寝台の横に立って、しばらくティナの顔を見ていた。帳面の女性。軽口の女性。全部記録する女性。この世界で最初に「晴貴さん」と呼んでくれた人。
いつか、この手紙のことを話せる日が来るだろうか。
来なくてもいい。この手紙は、俺自身のために書いた。元の世界の自分に向けて書いたが、本当は今の自分のために書いた。ここにいると決めた自分を、自分で確かめるために。
布団に入った。ティナの隣。温かい。
ティナが寝返りを打った。手が晴貴の腕に触れた。眠ったまま、握った。無意識に。
この手が、全ての答えだ。
目を閉じた。
明日が来る。この世界の明日が。何日目かは数えていない。数える必要がない。明日はいつでも新しい明日だ。
ポケットの中で、石と手紙が並んでいる。
光らない石。届かない手紙。
だが、どちらも温かい。




