彼女の声
「もしもし、佐藤です」
「はい」
「すみません。夜分遅くに申し訳ありません」
「いえ、全然遅くないです」
「あの、お帰りなさい、です」
「あ、ただいま、です」
「あの、有難うございます。お土産嬉しいです」
ああ、本当に嬉しいんだろうなと思った。
彼女の声には嘘とか虚飾じみたものは一切感じない。
外見の完成度から言うと恐ろしいくらい真っすぐで素直でのびやかで健やかだ。
「いえ、大したものじゃないので。栗きんとんと柿羊羹です。お好きですか?」
「栗も柿も大好きです。凄く嬉しいです」
あー、何だこれ。
顔が熱い。
体内に何か注ぎ込まれた気分だ。
何の技術も感じない声が思ったことを口にしただけの言葉がこんなにも耳を震わせると言う事実にまだ気づきたくない。
技能を感じない声など認めるわけにいかない。
気のせいだ。
気のせい、気のせい。
俺は壁の青野のポスターを見る。
声のない青野はやはり弱いと感じ、テレビをつけ録画しておいたアニメを再生する。
「あの、もしよろしければ木曜日お会いできませんか?私が石山に行くので。夜ご飯一緒に食べてください」
「俺は、そのいいですけど。あの、もしよかったら俺が彦根行きますよ。この間も来てもらったし」
「行きたいお店があるので、できたら石山に行きたいです」
そうだ。
彼女が石山に来るのはあくまで食べたいものがあるからだ。
俺に会いたいからなわけじゃない。
そんなことがあってはならない。
彼女みたいな美しい子が俺みたいな人間に興味を持つなどこの世の摂理に反する。
彼女が俺とこんな風に話してくれるのは俺が栗きんとんと柿羊羹を買ってきた男だからだ。
そして石山に住んでいるからだ。
ひょっとしたらあれだろうか。
彼女は一人で食事をするのが苦手なのだろうか。
そうかもしれない。
「あの、すみません。本当はご迷惑だったりしますか?」
「いえ、迷惑ならお土産買ってきたりしません。あの、佐藤さん食べたいかなって思って、喜ぶかなって」
佐藤さんと初めて言えた。
意外とすんなり出た。
佐藤さんと言う感じがしないからだろうと思う。
彼女はその名を追い越してる人だからだ。
最早ふさわしい名など思いつかない。
ただひたすらに美しい。
存在といってもいい。
「嬉しいです。あの、写真も有難うございました。私岐阜行ったことなくて」
「そうですか。俺は何回かイベントで行ってます」
「そうですか。あの、木曜日この間と同じ時間でよろしいですか?」
「はい。大丈夫です、じゃあ又松尾芭蕉の前で」
「はい。楽しみにしています。あの、すみません。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、あ、あの」
「はい」
「佐藤さん、肉じゃがお好きですか?」
「はい。大好きです。くたくたになった玉ねぎが特に」
「そうですか。すみません、変な事聞いて」
「いえ。青柳さんは肉じゃがお好きですか?」
「はい。今日の夜肉じゃがだったんです」
「そうなんですか。いいですね」
「はい。すみません。あの、おやすみなさい」
「おやすみなさい。あの、又メールし、ます」
「はい。有難うございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
何聞いてるんだろう。
俺はベッドに転がりリモコンでアニメを青野の登場シーンまで巻き戻す。
何度聞いてもよくこんな声が出せるものだと感心する。
そう、これが技だ。
力と言ってもいい。
持てる技術を全て注ぎこみ作り込まれた演技力の結晶。
熱かった頬が漸く心地いい温度に冷まされていくのを感じる。
ああ、これだ。
俺にはこれしかないんだ。
青野のシーンだけ何度も巻き戻し何度も見た。
耳に残る彼女の嬉しいですと言った偽りのない声を思い出そうとしても本当の彼女は再生できない気がして、改めて二次元は素晴らしいと実感した。
何度だって巻き戻せる。
何度だって会える。
俺が望めばいつでも、どこでも、何度でも。
でも彼女はそうじゃない。
ほんの数分前の彼女ですらもうこの世のどこにもいない。
俺のあやふやな、ぼんやりした記憶だけ。
早くあの顔が見たいと思った。
声を聞きたいと思い、早く木曜日になればいいと思った。
そういえばラーメン食べに行きたいって話をしていたのを思い出し、石山にあるラーメン屋を探してから寝ようかと思ったが、店は彼女に任せようと思いそのまま寝た。
木曜日に駅で待ち合わせをし、土産を渡し、彼女の行きたいお店で彼女の食べたいものを食べ、美味しいと喜ぶ彼女を見る俺。
そうだ、俺は美味しいといい幸せな顔をして食べる彼女が見たい。
できれば真正面で。
奇妙な需要と供給は成り立っている。
問題はこの関係をどういうかだが、おこがましいので考えるのはやめておくが、誰か適切で品のい日本語があったら教えてほしい。
関係と言わず二人組を指す日本語を。




