42 憧憬の懺悔
「ここから先は巡瑠も知っているとおりの展開だよね?」
奥歯を噛み砕きたいほど、悔しかった。
そう、知っている通り、まさにその通りその先を知っているからだ。
何故?
何故知っている?
いや、待て。親父は爆破事故?
そう言われるとそうだった気もする。むしろ納得していく俺がいる。でも何故今納得している?
その眼で確認はしていない。いやまさかそんな状況が眼前にもし広がっていようなら、確実に俺はその人のことを追いかけた。
俺のたった一人の親父をみすみす殺させたりなんかするものか。
そう、あれは不慮の事故だった。イベント会場の関係者通用口に侵入した子どもがいたらしく、その子どもを追いかけた先のボイラー室でその事故は起こった。忍び込んだ子どもがいじってしまったのか、はたまた整備不良だったのか、ガス漏れを起こしていたところに何らかの原因で爆発事故が起こったのだという。そしてその子どもを庇って、親父は半身焼け爛れて亡くなったのだという。
何故か、その子どもが俺だという情報があったけれど、俺はその日イベント会場には行っていない。
この話をうけて、家族の誰一人として納得はしていなかった。
まあ、普通に考えれば誰だってそうなのだと思う。信じたくないし信じられない。それは現実逃避に近い。
けど、他人のために命を落とすような人間では無いことは、ましてや自らを犠牲に他人を救うという誉るべきことは、決してやらないのだ。
つまるところ父親に関して言うならばあれはおよそ善人とは言い難い。
「愛する家族のためなら俺はなんでもする、これは赤の他人からすればただのエゴの塊だ」
過去に父が俺に向かって言った言葉の一つ。ようは俺のような人間にはなるな、そう言いたかったのだ。
基本的には温厚だと思っていた父は、家族に対してだけその性格を発揮していたのだという。
俺も聞いた話でしかない。
会社では鬼のように冷徹なことも平気でやってのける存在だと。善行はするが、線引きだけは確実に決めている人なのだ。
母も、俺も、沙希もあの人にとってそれはかけがえのない家族であり、心の拠り所ではあったのだろう。
ある意味しっかりとした芯を持っているので意外と交友が広かったりするのも父の人徳故なのだと思う。
ある時、親父と俺と二人で出掛けた時に偶然会社の同僚と出会った。
その時俺は父親への憧れから会社にいる時、つまりは普段俺たちに見せない姿の父親という存在が気になりその同僚に尋ねたことがあった。
「父は会社ではどういった印象ですか」
本人を前にして少し照れくさそうだったけど、その人は答えてくれた。
「飲みに誘ってもほとんど断っちゃう人だけど、上からも下からも凄く信頼はされてるよ。アフターの外交も大事なことなのに、実力だけでのし上がれちゃうんだから本物なんだなって……、妬む隙もない人だね」
親父は「ふっ」と声を漏らして「家族の前だとさすがに恥ずかしいな」と俺の頭をくしゃくしゃに撫でた。
唐突に変な質問をした俺に対しての意趣返しだったのか、恥ずかしさを紛らわすためにしたことなのか、どっちにしても俺は嬉しかった。
そんな父親が俺にとって憧れの目標でもあったし、越えたい壁でもあった。
ある日その壁が人知れず崩れていたなんて、俺は認めたくなんてなかった。
その壁の先を見た時、何も無い真っ白な地平線が広がるようにただただぽっかりと空いたままの景色だ。
ひたすら地上から見る虚無。
中学三年生、部活も引退していた時期なので俺は真っ先に残された家族のことを考えていた。
両親とも共働きなので母は夜のアルバイトも考えていた。
夜遅くにリビングで求人誌を読む母のところへ、降りてきた。
「いいよ、俺が働く」
その言葉を発しただけで見えない何かがのしかかる気持ちになった。
「働くって、高校は? まさか行かないつもり?」
母は俺を睨んだ。
「最低でも高校は行っとかないと職探しも満足にできないことは分かってる。だから俺はこれを受ける」
机の上にプリントとパンフレットを置いた。
「海星高校? 特待生って、まさかここ受ける気?」
「先生に頼んで近くの高校で入学金と出来るだけ授業料安くしてくれる条件の高校を絞ってもらった。俺はここを受けるし、合格する。アルバイトもする。だから、願書を出す許可をくれ、ください」
俺は深く頭を下げた。
「見くびられたもんだね」
全身震えるような気持ちだった。
子どもを基本的に叱るのは母親の場合が多い。父が甘々なこの家庭ではとくに母親という存在は鬼のようなものだと俺ら兄妹は刷り込まれている。
「あんた最近、笑顔になることあった?」
「え」
思わず下げていた頭を上げた。
そんな脈絡のない話を、真面目なこの状況でするような人ではなかった記憶がある。
「で、どう?」
「あ、いや、ない、と思う」
笑顔になる瞬間なんて意識するものじゃない。この場合の質問はきっと父親が亡くなった後のことを最近と言っているのだろう。
お前は立ち直れているのか。そう聞いているんだ。
「正直、分からない。目標が無くなったから、今はその面影を追いかけるだけで、それしか出来ない気がしているから」
「…………」
「義務とか、責務とかじゃなくて夢だったから。親父みたいになることが、親父を超えることがっ」
覚悟していたのに涙が溢れていた。
おかしいな、報せを聞いた時も、通夜も葬儀も。あれだけ我慢していたのにな。
「目標あるじゃん」
っ。
「むしろあの人は今が全盛期だったくらいだから、ねぇ? 少なくとも母さんにとってあんたのその夢はとてつもなくデカく感じちゃうよ」
母は深く、ため息を吐いた。
その姿を見て、母の目も僅かに潤んでいるのを俺は見逃さなかった。
「巡瑠」
「……はい」
「こっちに来なさい」
ゆっくりと近付いた。
母はゆっくりと、だけどしっかり俺を抱きしめた。
「お兄ちゃんになってから、あんまこういうのしてあげてなかったからさ」
「こども扱い、好きじゃないんだけど」
「ばーか、大人への一歩を上がっちったらこの先出来ないだろうが、母のデレに大人しくやられとけ」
ああ、俺は覚悟していたのにな。親に逆らおうとも、俺は曲げるつもりはなかったけど、後押しされるどころか包まれちゃったな。
「私が惚れるくらいのいい男になれよ」
「……なんか微妙に反応に困るな」
「沙希のブラコンもちょっとは気持ちが分かってきたね」
「いやだから反応に困るっちゅーの!」
わしっと掴んだままの腕を振りほどいて距離をとる。
「その選択でこの先お前が笑えなかったら、今日のデレの3倍くらいお前を殴るからな?」
時々、重圧に押し潰されそうになった時だってある。俺の覚悟なんて所詮こんなもんなのかって。
アルバイトを続けているせいにはしたくないけど成績も入学当初から下落傾向にはあった。
特待生で入ってしまえばこっちのものだし、それ以降に関するペナルティも存在しないのでそこは有難かった。
転びかけたところを、明羽に救われ、俺は、俺はあいつに何をしてやれた?
なんで日に日にイライラが増してたんだっけ、あの時。人間関係に疲れて、全てがどうでもよくなって…………。
そして塚本麻衣。お前が転校してきた。
――――――。
「確かに親父はイベントスタッフとしてあの時その会場にいた。そして爆発事故から子どもを庇って事故死したことになっている」
俺は、まるで史実確認をするように、反芻する。
その、子どもが塚本だとでもいうのか。
「そ。場所は会場の地下にあるボイラー室。模擬店は外の方へ集中していたから建物内は人があまりいなかった。そこで悪戯にボイラー室へ忍び込んだ子どもがいて、巡瑠のお父さんもそこにいた。私が招いたから」
「じゃあ、お前がその爆発事故をわざと引き起こさせたっていうのか?」
自ら命を落とすかもしれないリスクを背負って、そうまでして俺の親父を殺さなければいけなかったのか。誰かを殺していい道理なんてあるはずないのに。
「その場でいろいろと用意するのは骨が折れたけどね、まぁ会場は入り乱れていたし、ローカルな会場だったから防犯もザルだったから結果オーライって感じだよね。忘れもしない、運命が巡り合わせてくれた」
さっきから視界が青白くチラついている。頭がガンガンする。親父は焼死? 溺死ではなく?
なぜ、俺は溺死だと思い込んでいた?
認めたくなかったからか?
情報があり過ぎる、理解が追いつかない。
苦しい。
「ごめんかえで、私もお手洗い行ってくる」
「もう、だから駅前でしておけばよかったのに。ここだとトイレ探すの大変だよ?」
「大丈夫、すぐ戻るから」
人混みをかき分けて私は駆け出した。
「あ、しまった。待ち合わせ場所とか指定しておくんだった。待って!」
かえでの声は透き通るほどに通り、聞こえてはいたけどそれでも私はなりふり構わず駆け出す。そっちのほうが都合がいいから。
外の露店を抜けて建物内へと入る。目的はもちろんトイレなんかじゃない。
『関係者以外立入禁止』というプレートの入ったドアを潜り、階段を降りる。ゴウンゴウンと全身を駆け巡るような音が段々と強まってきて、階下へ降り切ったころには『ボイラー室』のプレートがついた扉の前まで来られていた。
「ここまではスムーズに来られたかな」
ここで少し作戦を練ることにした。ドアに手を掛けて開いていれば実行。そうじゃない場合は別の機会を伺う。
「ああ、なるほど」
中に入ると、ガスボンベのような入れ物とバルブが付いている。
下手に触ってどうにかなったら、そう考えてしまいそうになるとじんわり手に汗がにじんだ。死にたくはないけど、そうなる覚悟も視野に入れておいた方がいいかな。
あくまで私は説得に来たのだから。
そう、あの人はめぐるの父親。
父親というのは、ロクでもない存在だから。
だから、私が解放してあげるんだ。めぐるを、あの男の呪縛から。私たちの関係を拒むものに罰を与えなければ。
手順は簡単。
近くで走り回っている見るからに迷子になっている子どもを一人さらってくる。
やってはいけないことの一つだけど、女子中学生からするとそれは容易い。一人で駆け回る男の子を見つけて、声は掛けない。
養父に入手させた睡眠薬をハンカチに染み込ませて後ろから、ね。
ちなみにスタンガンも持っていたけれどさすがに身体的外傷が残りやすいものは避けたかったため、たまたま持っていた持ち物でどうにか出来そうだったから、そうしただけである。
何事も用心に越したことはない。いつどこで何があるか分からないから。
ボイラー室までおんぶで運んだあと、バッグから綿棒を取り出してパイプ管まわりの錆やすすをとり、子どもの顔や服、肌にところどころ付ける。ある程度みすぼらしく見えればそれで良し。ボイラー室前の空間まで運んでゆっくりと仰向けに転ばせる。
この子は最悪の事態になったときの私の切り札だ。出来れば死んでほしくはないけれど、場合によっては可能性がゼロだとも言えなくなる。
「ごめんね」
おでこにキスをして近くの段ボール材などで覆って隠す。
そのあとボイラー室へ再び入り、ゆっくりとバルブを開けた。
果たしてここまでうまくいってていいのだろうか。順調すぎて逆に不安になってきた。
準備はこれで完了。
あとはかえでに見つからないように相手をこちらへ呼び込めればいいんだけど。
「苗字は立川」
立川めぐるの立川。
ボイラー室まで誘導するために、何が一番効果的か。
自分の一番大切なもの、あの男の場合は……うん、めぐるかな。
その一点に関して言うなれば私と同類だと言いたくなるけれど、あいつは違うもんね。独り占めはよくない、よくないよね。
「めぐるは私を待ってるんだから」
「立川さん、立川さん」
「なんだ」
次の段取りまで時間が空いている。
『秋の味覚フェス』という陳腐な名前を発案した上司のことはさておき、俺は家族への土産でもと店を周っていた。もちろん警備も兼ねて。
そんなときだった。
イベント時にしか使わないような小型無線機が震えた。
このプロジェクトのために揃えられた人材で携帯番号の交換などほんのいっときのやりとりしか行わない俺にとっては電話帳が圧迫されるので邪魔なのだ。
「息子さんの友だちっていう女の子が本部テントに来てまして」
「なに?」
「で、そのめぐる君って子が立入禁止区域に入ったっきり戻ってこないそうなんです」
「……わかった、俺が行こう。すまんな迷惑をかけた」
無線を切って俺は天を仰ぐ。
おかしいな、今日あいつはここに来ないと言っていたが。
まあ、スタッフが俺に嘘を吐く意味なんてないだろうし、教えてもいない息子の名前を知っていた。と、なるとやはりネックになるのがその友だちとか言う女の子か。
どうも健全なにおいがしないな。どうせその女に唆されたに違いない。前に一度痛い目を見ておきながらまたたぶらかされるなんて、女性との付き合い方を今一度改めさせなければいけないとな。
「立入禁止区域だと」
俺が会場内で把握している場所といえば、建物内の通用口くらいだが。小さな子供じゃあるまいし、そんなところに果たしてうちの息子が行くのだろうか。
いや、それが本当だろうが嘘だろうが俺にとっては些細な問題でしかない。家族が関わっていることであるならば俺が動かないわけがないのだ。
もし、それが何かの罠だったとしても。賢くない選択だったとしても俺は俺の家族にとっての最善手を尽くすだけ。ただそれだけなのだ。
何もない空っぽな俺にとって、唯一満たしてくれる存在の為なら俺は悪人と言われても問題がない。
自動ドアを潜り、窓口に座っていた管理人へ事情を説明してから念のためにとマスターキーをもらった。
少し重たいドアを抜ける。
「確かに鍵は掛かってなかったな」
それならば誰かが入り込んだという情報は僅かばかり信憑性が高まる。
中は基本的に薄暗く、上と下へと続く螺旋階段があった。
さて、
「巡瑠! いるのか!」
大きく声を出すと反響はしたものの、それ以外は返ってこない。
上の方を見ると小さな小窓がひとつあり、そこからだけ唯一外の光をもたらしている。あとは非常灯のぼんやりとした緑の灯りのみ。
たいてい入口ドア付近に電灯スイッチが付いているものだが、壁際を見たところそれらしきものはない。
コツン。
下から小さな音がした。
手すりにつかまって階下を覗いてみるが、薄暗くて目を凝らしてもよく見えない。
だが、確実に誰かはいる。声に反応を示さないあたり、巡瑠という可能性は消え失せはしたものの流石にイベント関係者とあってこれを放置するわけにはいかない。
と、すると例の女の子という可能性が一番高いわけだが。そもそもこんな悪戯をする必要性が分からない。本人に問い詰めるのが一番だ。
それに、巡瑠がいないという確証を得たわけじゃない上に、息子の名前を悪用するようなやつがいるとなると尚更退くわけにはいかなくなった。
階段を下りた先には一つの扉があった。『ボイラー室』と書かれていた。わざとらしく、そして中途半端に開いていた。
まあ、誰かがいるのなら最悪のパターンを想定しなくてもよさそうだ。
ゆっくりとドアを開いて中へと入る。
「ふん、臭いな」
ガスの独特なにおいが辺りに漂っている――――――――。
いや、充満しているという表現が正しいか。
ゆっくりと歩みながら奥へ向かう。
しかし臭うにしても異様だ。
「意図的にか」
そして振り返った。
「君か、俺を呼んだっていう少女は」
扉を背にして少女がそこに立っていた。
「はい」
うす暗くて顔は良く見えない。
「その尋ね方だと、私の目的に気付いてらっしゃいますようで」
「いや、知らない」
少女は息を吐いた。
「だが俺の息子の名前をダシに使った以上、相応の罰は与えないといけない。それとこんなところに入った責任もね。ご家族さんに連絡させてもらう」
「随分と余裕ですね、ですが見方によっては見知らぬ男性が女子中学生をうす暗い部屋に軟禁している状態、と思ってしまうとこの状況って面白くないですか?」
「いやまったく」
断頭、とまではいかないが確かに一理あるな。
「周りの職員は俺がそんなことをしない人間だとある程度は認知しているはずだ。それに」
胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「ここに入ってからの会話は全部、映像も込みで記録済みだ。愚かな娘さん、親御さんに連絡をしてあげよう、それとも望み通り一緒に警察まで行こうか?」
ねじ伏せることは簡単だ。だが無抵抗だった場合、過剰防衛に見られる可能性もある。時間は惜しいがここは確実にこの譲さんに灸を喫えなければ。
果たしてこの娘が賢い子だったら、ここで反省してくれるだろうが。
「やっぱり一筋縄ではいきませんか。ま、あなたはあの男たちとは違って賢い人ですからね。さすが巡瑠のお父さん。邪魔さえしなければいいお義父さんでいられたのに」
邪魔? この娘はさっきから何のことを言っているのか、まったく理解に苦しむ。
「邪魔も何も、俺はあいつに悪影響を及ぼす可能性は徹底的に排除するだけだ。あいつだけじゃなく俺の家族全員は俺の生きる目的であり、護るべきものだ」
そう言い張った。嘘偽りでもなければ去勢でもない。ただ当然のことだ。俺はこの考えを否定されようとも変えるつもりは毛頭ない。それが俺であるからだ。
だが、とくに何かを言うでもなく目の前の娘は、困ったように眉根を寄せた。
「こういうちゃんとした家族のカタチがあるのは、正直言ってうらやましいです。私は少なくとも恵まれていない人生だったので」
「そうか、それはお気の毒にだ」
不幸自慢、というやつか。
「棒読みですね」
「それもそうだ。人間は思った以上に他人への興味がない。そして悲しいことだが生まれてきた時点で優劣が既についてしまっている。同調はできても同情はしない」
自らの不遇を口にしたところで誰かがそれを変えてくれるような生易しい世の中じゃない。いじめか何か受けていたのだろうか。そう考えてみるが、俺にはやはり関係のないことだ。
いじめをする人間というのは百パーセントいじめた側が悪いと言われるが、俺は必ずしもそうではないと考える。
いじめられる側はいじめられない為の賢さを手に入れるべきだと思う。一対一ならねじ伏せればいい。集団でのいじめならその集団を内側から崩すくらいの仕返しというのをしてやっていい。
いじめられる側は逆に得をしていると考えてもいい。
やり返してもいいわけだからな。
「残念だがここでは子ども相談窓口はやってない。それにどうやら君の目的は、俺の息子と関係あるらしい。君は何者だ、何が目的だ」
「覚えてないんですか? あれだけのことをしておきながら」
いや、悲しいかなまったく覚えがない。
俺が他人に何か粗相を、それも女子どもに恨みを抱かれるようなことをするだろうか。どうも人違いではないみたいだが、それでもこの娘がまだ常識人だった時の話に限る。そう例えば謂れもない冤罪という可能性や体のいい被害妄想のひとつという線だってある。
「いい加減にこのむさくるしい空間から解放されたいものだ、答えるつもりがないなら、それまでだな」
「やっぱりお前は許さない」
なんだ、様相が変わったみたいだ。
簡潔に言うと豹変した。
顔立ちがいい少女からはおよそ範疇を越えたどす黒い何かを、俺は感じた。本来なら、このような曖昧且つ抽象的な表現は好まない俺だが、今ばかりはそうとしかいいようが無かった。ほかに表しようがないのだ。
「でも私が好きな人の父親だから、せめて花を持たせてあげようと思います。栄誉ある死を」
薄暗くて分かりづらかったが、少女は少しずつ俺との距離を空けていた。
逃げるつもりか?
いや、そもそも何故こんなところへ呼び出すような真似をしたんだ。
さきほどから部屋の中を充満するように臭ってくるガスの臭いが思考をいやに鈍らせる。
いや、こんな、これほどまでに吐き気を催すほどの臭いを普段から放っているものだろうか。だとしたら整備不良を疑い兼ねない。
「お前、なにをした」
どうやら俺には発想力が足りていなかったようだ。
「時間稼ぎです」
こちらを向いたまま扉を開けてひとり境界線の外へ出ていく。
俺は最悪の事態を避けるべく、あるいは目の前の少女を止めるべく駆け出そうとした。だが、突然動き出そうとしたことが過ちだった。
急激に頭が締め付けられるような痛みが遅い、一瞬だけふらついた。恐らく少女は正にこの時を待っていたのだろう。
もはや何をしようと間に合わない。
まさかこんなことをするわけがないと、勝手に除外していたことが敗因もとい死因だっただろう。
ドアを開けたまま、少女は片手に持ったジッポーライターを部屋に投げ入れた。
咄嗟に掴もうとするがそれも間に合わなかった。真っ赤に光り瞬間的に視界を奪われると同時に何かの勢いで壁面に背中から叩きつけられた。
ここはどこだろう。
いやにハッキリとした意識が纏わりつく汗のように気持ちが悪い。そうか、これは違和感というやつだろう。
直前のことを思い出そうと考えを巡らせる。
「ふっ、財布に続いてジッポーとはまた渋い」
俺は自分の漏らした声に驚き目を見開く。
ああ、そうか。俺はこの娘のことを知っていたんだな。
身体中が軋むような音を立てている。これは骨が折れたな。
眼ももうほとんど見えない。
だが、僅かにぼやける視界のなかで俺は確かに少年の姿を捉えた。
「父さん」
「ん」
「あの女の子のことだけど」
「ああ」
「あの子は別に悪くないから」
「そうか」
「…………」
「……巡瑠、おまえそんなことで悩んでいたのか?」
「え」
「だったらあのとき俺を止めればよかったじゃないか」
「そ、そう、だね」
「はは、お前が反抗するなんて珍しい」
「ごめんなさい」
「いや、いい。これはいい反抗だ。正しさを示すためなら家族だろうと意見をしたって構わない。実のところ俺は俺の信念で生きているから巡瑠も沙希も俺に似てほしくは無いんだ。俺はどうしたって家族を優先するからな、本質的には正しいことだろうが、それが時としていけないときもある。その逆も然りだ」
「…………」
「今の巡瑠には難しい話かもしれないな。父さんのことを内側ばかりから見ていたお前が今日、ようやく外側を見れたってことだ」
「けど俺は父さんみたいな人になりたい」
「全国の父親が子どもに言われたい一言ナンバーワンを聞けた、それだけで俺は満足だ。だから、そうだな。もし今度また、あの女の子に会ったらその時は謝罪しよう。数多いおまえのガールフレンドだからな」
三年前の夏休み。
あの女の子、か。
なるほど、確かに謝罪をしていなかったな。
そうか。俺のせいか。
「す、まない。めぐる……」
俺は最愛の息子を抱きしめる。
すまない、亜依、沙希。
「あいし……る」




