10 イエスかノーか
退院してから普段通りの生活が戻ったかと問われるならば半分はイエスと答えるだろう。もう半分はノー。
理由として身体に何か影響を及ぼしたわけではなく、ましてや機能低下でもない。
俺の周りが、取り巻く世界が普段通りにはなってくれなかったから、半々の回答をした。
よそよそしいクラスメイトたちはより一層俺に気を遣うようになってしまい、とても居心地が悪い。
そんな環境の変化に流されず、何一つ変わりなく接してくる相手はマコっちゃん、戸田、納富、塚本くらいなものだ。結局あれから明羽とは連絡も取っていなければ会ってすらおらず、俺を病院送りにした連中は未だに停学処分を喰らっている。
「......」
クラス内がざわついている。今が休み時間なのでそれ自体はなんら不思議な事じゃないけれど、どことなく不穏な空気のようなものを感じる。
最初は俺に気を遣っていると思っていた周りの視線をよくよく辿ってみると、どうやら俺にだけを対象としているわけではなかった。
「もしこれが密室なら集団パニック状態にでも陥るのかな」
よく透るその声に似つかわしくない言葉が乗せられる。
「よくあるホラー作品とかサイコパス的なモンの読み過ぎじゃない?」
冗談交じりの相手に溜息混じりで後ろへと振り返る。
笑顔の納富いと、あだ名は勝手に名付けてイトチン。
「俺にはイトチンの方がサイコホラーな存在だと思うね」
「わ、ひっっど!」
冗談交じりに言うがそれこそ、半分は本音だ。
俺は納富いとという人物の異常さに疑問符を浮かべつつも相手側から警戒されないように、普段通りに接している。
自分の身に降りかかった出来事の一連、自称興味本位で楽観主義者の彼女が一枚噛んでいるのではと疑いをかけている。
事件を推理するフリをして実はその状況さえも楽しめてしまえそうな、それこそ推理小説やサスペンスの世界では珍しくはない狂人めいた空気を時折彼女は放っている。
だが、俺自身が犯人探しを臨んでいるわけではない。自分の周りの環境も含めて、何もかもを元通りにしたいだけなのだ。
これ以上の荒波を立てるような真似はせず、再発防止に努めたいだけ。
と、体よく息巻いているフリをしつつ実はもうどうだっていいのだ。
世界や世間がどうとか、さして興味がない。一時は本当に焦った時もあったけれど、それは俺を中心にした日常がやってきてしまったからに他ならない。
だが今は違う。
「でもみんな、そういう風に誰彼構わずに疑いはじめてる」
「俺には、薄っぺらな友情の鍍金が剥がれる音しか聞こえないね」
何気ないクラスメイト同士の振る舞いや会話にも、とある感情を孕むようになりつつある。
「俺の言動は周りにどう思われているのか、誰がどこで見ているか分からない、とか。その逆も然り」
「情報を求める欲求、探究心とそれらに応える顕示欲とでも言えばいいのかな。誰も彼もがやらなかっただけで、本当は誰もが被写体になりえる」
どこで誰に見られているかわからない、なんて生ぬるいものじゃない。
どこで誰に撮られているかわからない、どこで誰に盗られているかわからない。
プライベートや個人情報なんてものもさらけ出せてしまえる上に、さらけ出される。
「そして、みんながやってしまうことだから罪として扱って、裁くこともできない」
「民法上のシステムなんて思わぬ抜け穴がたくさんあるから、実質ガバガバなんだよ」
「言葉づかいが穏やかじゃないなぁ」
女の子がガバガバとかもう、なんか、悲しみでしかないよね。
「どちらにせよ、ストレス過多な世の中が構築されていくのは止められないのかもね」
一介の高校生が休み時間にするような会話じゃない、俺はそう思った。
けど、身近な出来事になってしまわなければそもそも生まれる会話では無かった。誰も彼もが人知れず傷ついていく最中で彼女だけは非の打ち所がないとあくまで楽観主義を貫き通すのだろう。
果たしてその自信はいったいどこから来るのだろうか。失うものがない人間なんていない、なのに彼女だけはとても身軽そうで俺は羨ましかったのかもしれない。
羨ましく、妬ましい。
「最近納富さんと仲良さげだよな」
昼休み、食堂でマコっちゃんが放つ一言に俺は噎せた。
「死ぬっ」
お茶を一気に飲み干すことで喉の奥に支えた米粒たちを無理矢理に流し込んだ。
「仲良いとかじゃないっつーの」
「け、塚本とか織田とかさ。いいよなお前ばっかり女子に好かれてさ」
通称女子にモテたい男、戸田がすごすごと俺を睨めつける。
「現状を見てお前は俺がハーレムでも築き上げてる様に見えるのか?」
ここのところトラブルの続出で男女関係のいざこざとか勘弁してほしいくらいに思っているのに、やっぱり傍から見ればそういう捉え方をされているわけか。
「自分から動いた事案がひとつもないから俺は完璧に被害者なんだけど…...」
「それはお前戸田に悪いぞ、普通は告白される側じゃなくて男はする側なんだからさ」
そんなふうに言われても困るものは困る。今どき女子からの告白なんて珍しくないって明羽も言ってたし。それどころかSNSでの告白さえもが主流になりつつあるんだから、誠意も何も伝わるもんじゃないね。せめて電話だろ。
「性欲は阿呆みたいにあるけど自分から好きな人を作らないやつだからな、こいつ昔から」
まるで異端者を見るかのようにマコっちゃんはカレーをよそったスプーンで指す。こんにゃろうそのカレー食っちまおうか。
「はんっ。俺なら自分を好きになってくれた女の子を大切にするけどな」
「あーやだやだ歯の浮くような事言っちゃって。ずっと同じ相手と居るとどんどん嫌な所が見えてくるってのに」
「理想くらいは抱いたままでもバチは当たらんな」
「お前ら言いたい放題言いやがって!」
今にも噛みつかんばかりに戸田が唸る。
「悪かったから涙目になるのはやめろよ」
何をこみ上げる材料があったのかは知らないが、戸田の目が僅かに充血している。
「カ、ゴホッ」
いやこれ飯が喉につっかえただけだ。
「脅かすなよ」
しかし、納富との関係をただの隣人では誤魔化せなくなりつつある。
ただでさえ他の生徒から反感を買っているのに、これ以上悩みの種が増えるのはそろそろ勘弁してほしい。俺だけじゃなく他の人、俺に関わる人が危険な目に遭うのも良心が痛む。
その日の帰り。
「今帰り? 一緒に帰ろうよ」
自分の靴箱から靴を取り出し、履いたところで声を掛けられ振り返る。
「......いいよ」
少し考えたが、うまく断る言い訳が出てこなかったので渋々にも了承。
「じゃ、私自転車とってくるから先に行ってて」
小走りで駐輪場へと向かう女生徒。塚本麻衣の背を見ながらゆっくりと歩き出す。
「別に急がなくても」
駐輪場くらいまでならついていったのにな。まぁ、でも渋々だしな。渋々。
こういう時は校門前で待っておくものかもしれないけど、俺は構わず帰路につく。
本当は事件が起きてからあまり関わって欲しくないと思っているのだけれど、それを露骨な態度で示すのは俺のメンタルが耐えられない。
ほんの少しの行動とかから読み取って汲んでくれると尚良いのだがそれは期待しすぎか。
「お待たせー」
一度俺を追い越してからペダルを漕ぐのをやめて自転車から降りる塚本。
尋ねようとまでは思わないけど早く家に帰りたいとか、女友達と寄り道をして帰りたいとかはないのだろうか。そういった帰路より俺と帰る頻度が高いのは周知なのだけれど、ひょっとして俺のことが好きだったりするのだろうか。それは考えすぎだと思いたい。
確かめたい気もあるが、とんだ自惚れで終わりそうだしこの関係も変わりそうだから無粋な真似はしない方がいい。
「ん?」
不意に塚本の表情筋が固くなる、それと同時に声が漏れた。
「どうかした?」
「いや、気のせいかな」
周りを見渡すが特筆性のあるものは見当たらない。いつもと変わらない下校中の景色だし、誰かに尾行されている可能性もない。相手がス〇ークでもない限りは気付ける自信がある。
「へんなの」
そんな塚本に俺が抱いた感情はそれくらいだった。ここのところバタバタしてて気が立っているのだろうとしか思えなかった。一番の渦中である俺が最も警戒すべきなのだろうが、誰かに恨みを買う覚えも狙われる理由も浮かばない状態では放っとくほかに対処法が見つからないのだ。
ただの逆恨みだという可能性も捨てきれない。傍から見ての俺はモテていると勘違いする奴もいるみたいだし。いい迷惑だ。
傍からといえば、俺と塚本が並んで歩いて帰っているこの状態はやはりカップルと勘違いされるのだろうか。
「塚本ってさ」
「ん、なに?」
ふと、俺は言葉を噤んだ。
「俺とこうしてて怖くないの?」
とても単純な疑問。けど、その言葉だけで俺が知りたかった幾つかの事象を知ることが出来るかもしれない。
ただ転校してきて初めに仲良くなったから、部活をしていない者同士だから、帰り道が同じ方向だからというだけではここまで仲良くしてくれる必要性がわからない。
「この前の病室で変にまくし立てられたの覚えてる?」
「だいたいは」
あの時の塚本ははぐらかしたい一心だったろうから、あえて返答は曖昧な形をとることにする。本人にとってもデリケートな部分だったのは明白だから少し緊張してしまう。
「そ。そういうこと」
塚本がソワソワしているのは、やはりそういうことらしい。
正直言うとこんなに嬉しいことは滅多にない。選り好みはあれど塚本麻衣という女子生徒は誰が見ても容姿端麗で性格も目立って悪いところはなく、また成績もいい。
もし料理が下手だとか、寝相が悪いとか露呈しても些末な問題だろう。
学内では彼女のことが気になっている生徒も多いのではないだろうか。
だからこそ、掲示板事件が起きたあとの俺を煙たがる奴も明らかに増えた。そして学年問わず注目されたりした。
もしここでイエスと言えばどうなるか。
塚本麻衣をカノジョにすることで恐らく反感を買うのは避けられない。
けれど代わりに塚本は俺の癒しになるのだろう、なってくれるのだろう。見返りとしては大きい。
だが、
「塚本のことは好きだよ、けど今は誰とも付き合う気がないんだ」
嘘は一切織り込まずにハッキリと言う。
好きだから恋人同士になるのか、同じ時間を共有するのか、唇を重ね行く行くは一線を越えるのか。
それが本能なのか上辺なのか分からない。
相手に依存するのか、されるのか。
自分なりの答えが見つからないのだ。
だから俺は拒絶という道を選んだ。
相手への拒絶ではなく感情の拒絶。
「そっか。その気持ちは変わらないんだね」
少し前にも似たような話を帰り道でした気がする。その時から俺はまだ答えを見つけ出せていないということだ。
「あぁ、だから返事は」
ーーーー待ってくれ。
何かが腰に触れた。
チクリとしたので虫に刺されたのかと腰に手を伸ばすとなにか棒状の物があった。柄だ。
振り返ると見覚えのある顔が険しい顔つきで息を荒らげていた。ひと目でわかる、その常軌を逸した眼差しは次に俺の隣にいた塚本へ向くのがわかった。
「逃げっ......!」
塚本の震えて動けなくなっている背を強引に突き飛ばして俺は情けなく倒れる。
脚に力が入らない。まるで立つことを忘れたように動いてくれず、足など初めから付いていなかったのかと錯覚するほど。視界が明暗を繰り返しガシャンと倒れた自転車の音を最期に何も聞こえなくなる。
熱の籠ったアスファルトの筈なのに冷たく感じる。まだ梅雨さえも訪れていないのにな。
ふと、父親がどんなことを考え感じながら死を迎えたのか気になった。
誰かが死ぬと遺された人たちの方が寂しい思いをするというのは嘘じゃないか。
だって俺は今、この上なく寂しい。




