第54話―とっとと閉じろ
ビルの内壁が不自然に隆起し、大樹の幹程はあろうかという太さのラインを二本、深々と刻んでいく。
工事現場の騒音に似た轟音が響き渡り、テナント内に陳列された雑多な商品を小刻みに揺さぶった。
人外の存在が生み出す圧倒的破壊の爪痕は、まだ真新しく整然とした店舗に埃とコンクリート片を容赦なく撒き散らす。
後方へ身を仰け反った西島と比嘉は、互いに目を見開いたまま微動だに出来ない。
戦闘開始から10分も経過していないが、既に両者の疲労はピークに達していた。
肉体的疲労に対する自負はある。
だが、狩人に追い詰められるかのごとき恐怖と焦燥感は、疲労を数倍にも増幅させていく。
その目前で、先ほど二人が屋内へ侵入した小窓の隣にある、はめ殺しされた大きな一枚物の窓ガラスが派手に破られ、キラキラと飛散するガラス片の雨の中から、禍々しくも鈍く輝く漆黒の巨体、その頭部が突き出す。
吹き込む強風に煽られながら、西島と比嘉の目に映る夕陽は彼方に落ち、街並みがダークブルーとオレンジのグラデーションに飲み込まれた。
「ちぃっ」
腰のホルスターに差した拳銃を抜き放つと、比嘉は瞬時に狙いを定め、トリガーに指をかけた。人気のないテナントに頼りなく響き渡る、小口径の乾いた発砲音。放たれた弾頭は、敵の頭部側面に命中するも、あっけなく弾かれた。
「石投げてるのと変わらねぇ。西島!」
言った直後に、比嘉は身を翻し駆け出す。
勿論、逃げるのだ。
既に万策尽きている。
西島は口を真一文字に結び、自らも上司の動きに倣った。
一方で、上半身を屋内へ乗り入れた黒い巨体は、両腕をジタバタとさせながら前進しようとして見えた。
ほとんどホラー映画の様相で、匍匐前進とも、うつ伏せに倒れたともつかない不気味な動きを見せると、走り始めた二人との距離を詰め出す。
C4爆弾によるダメージは、巨体の胸部から右肩へかけ深い裂傷を刻み、有機的な装甲を無惨に剥がしていた。しかし、その傷が果たして敵の動きを緩慢にさせているのかどうか、西島の目からは判断がつかない。
(化け物め!)
胸中で吐き捨てると、全力疾走する。
激しく乱れる呼吸。強烈な喉の渇き。口の中の水分は干上がっていた。
後方から床や壁をゴリゴリと削りながら迫る脅威を感じ、無駄な思考を止めた。
テナントを左右にした通路を駆け抜けると、二人の視線の先にエレベーターが。
磨きこまれたフロアーを勢いに任せ滑りながら、エレベーター脇の壁に体ごとぶつかる。
比嘉は手のひらをボタンに叩きつけ、頭上の電光表示に目を凝らす。
すぐ階下にエレベーターは止まっていた。親指でボタンを再度連打しながら、背後から追い付いた西島に視線を送る。
必死の形相の西島の後方からは、特撮映画のCGと見紛う光景が迫っている。
赤ん坊のハイハイ。
比嘉の目からはそう見えた。
肩や腕が、壁やテナントに展示してあるマネキンにぶつかると、耳を塞ぎたくなる破壊音が響き渡る。ビル全体を揺るがす振動と常軌を逸した光景に、西島は再び軽い目眩を覚えた。
「比嘉……さん」
腰のホルスターから拳銃を抜き構えるも、西島はその行為が無駄になるかもしれないことを承知で狙いを定める。
「ちぃっ」
舌打ちする比嘉の思いとは裏腹に、エレベーターはまだ、来ない。
「んの野郎!」
トリガーを素早く引きながら絶叫する西島。
弾倉内の弾頭が銃身から射出され、敵の眉間周辺へ次々に着弾していく。ピンポイントと呼べる程正確に、間断なく巨大な頭部を揺さぶった。
翅蟲でも振り払う動作で黒い巨体は片手を上げると、手のひらで自らの顔面を覆う。
僅か数秒ではあるが、前進を止めた。
その刹那、エレベーターの到着を告げる場違いな程に呑気な電子音が鳴り、ゆっくりと左右に開き始めるドア。
「西島!乗れ!」
12発の弾丸を一気に撃ち尽くした西島は、比嘉の声には応えずに、射撃体勢を崩すことなく素早く後退しながらエレベーター内に入った。
大腿部にマジックテープで貼りつけられた予備の弾倉を引き抜くと、一切無駄の無い動きで銃床に差し込む。
入れ替わりに排出された空の弾倉がゴトリと重い音を立て、エレベーターの床に転がる。神がかった速さで給弾動作を起こし、続けざまに発砲を開始した。比嘉は薬莢が弾け飛ぶすぐ脇から腕を伸ばし、階下へのボタンに拳を叩きつけた。硝煙が濃くなる室内からの視界を遮りながら、重々しい動きで閉じ始めるドア。
(とっとと閉まれ!)
敵は緩めた勢いを再び加速させ、四つん這いのまま頭部を上下左右に震わすと、瞬く間にエレベーターへ迫る。
止まることなど考えてはいない速度だ。
そして、ドアが閉じた。
それに続く轟音。ドアに巨体が体当たりした音。
「ぅっ」
緊張感から解放され、うなだれながら内壁に背中を預ける西島。両手で握った拳銃をゆっくり下げた。
「すぐ降りるぞ、気を抜くなよ」
比嘉は、すぐ真下の階のボタンを押すと、隣の西島には視線を移さずに、自らの額に滲む汗を太い腕で拭う。
最下層まで一気に降りたいところだったが、先刻までいたフロアのエレベータードアが破られ、内部に侵入されては、上部からエレベーター本体ごと破壊されるのは容易に想像出来た。比嘉の頭の中に浮かんだのは、とにかく敵の視界から姿を消す……ただその一点。全てはその後に考えればいい。
一息つく間もなく、エレベーターは停止し、ドアが開く。
「階段を探せ!そこから降りる!」
比嘉の言葉に、西島はエレベーター脇の柱に貼られたインフォメーションパネルに駆けよった。
「比嘉さん!すぐそこにあります!……!!」
西島が叫んだ瞬間。
天井が崩れた。
ガラガラと重い音を立てながら、コンクリートとボードが雪崩のごとく落ち、舞い上がる粉塵。
「くっそ」
弱々しく呻く西島の目前に、膝をつく漆黒の巨体が。
上階から、いとも容易く床を貫き、悪夢が舞い降りた。




