案内役
衝撃とともに身体がぐらりと揺れる感覚で地震だと思ったのは、日本人だからこそだろう。
はっと目を開き周囲の様子を窺えば、拍子抜けするほど穏やかで白み始めた空が視界に映る。少し下げた視界に映る青々とした木々も不自然な動きをすることもなく、瑛莉は首を傾げた。
(揺れてなくない?夢にしてはリアルだし、何だったんだろう?)
寝起きで回らない頭でぼんやり考えていると、鈍い音と共に木全体が揺れて、振動が伝わってくる。
「……んん?」
足元に視線を投げれば、目つきの悪い男が不機嫌そうな表情で瑛莉を見ていた。舌打ちが聞こえてきそうなその男を瑛莉は反射的に睨み返す。
見覚えのない男だが、こんな風にたたき起こされたのだからどう考えても好意的には見られない。
そんな瑛莉の態度が予想外だったのか男は一瞬目を瞠ったあと、大仰に溜息を吐いた。
「……さっさと下りてこい」
忌々しそうに告げるその言葉よりも、一瞬変化した細い瞳孔と金色の虹彩に目を奪われた。
(この人、魔物だ)
そう直感すると同時に昨夜の夢の記憶が一気に押し寄せる。エーヴァルトが森から出られるよう案内をつけてくれると話していたことも思い出して、瑛莉はもう一度眼下の男を観察した。
無造作にまとめられた濃紺の髪、先程とは異なり猫の目のような黄色がかったヘーゼルの瞳、すらりとした身体は人間と変わらない。獣の姿をした魔物については話に聞いていたが、人と同じ外見の魔物がいるとは知らなかった。
敢えて伝えられなかったのか、王都の人間たちも知らないことなのか。
疑問はさておき、瑛莉は取り敢えず男に向かってきっぱりと告げた。
「断る。さっさと帰れ」
「………は?」
男は呆気にとられたような顔をしているが、むしろ先ほどまでの尊大な態度でどうして言うとおりにすると思っているのだろう。
エーヴァルトならともかく、露骨に嫌悪感を示す男に警戒しないほうがおかしい。
「お前に拒否権などない。森から連れ出してやれとのご指示だ。あの方のご厚情に感謝するがいい」
「エーヴァルトにはそう言われ――っ」
気づいた時には男の顔が眼前に迫っていて、喉を圧迫する感覚よりも驚きが先に立ち、言葉が途切れた。
「聖女であるお前が、あの方の名前を気安く呼ぶな」
押し殺したような声から伝わってくるのは憎悪とも思える激しい感情で、瑛莉は本能的な恐怖から咄嗟に自分の首を絞める手を掴んだ。
明確な思考ではなかったが、魔物イコール浄化という単純な図式を頭で描いていたからかもしれない。
「っ――!」
男が呻くと同時に瑛莉は乱暴に手を払いのけられた。
(あ……)
その反動で瑛莉の身体は大きく傾いて、視界がぶれる。流石にこの高さから落ちれば、軽傷で済むとは思えない。指先に走る痛みにも構わず木の幹に手を伸ばすが、バランスを崩した下半身は重力に従って地面へと向かう。
「――!!」
それでも伸ばした両手で何とかすぐ下の枝を掴むことに成功したが、身体の重さを支える両腕は長く持ちそうにもない。しなる枝は自身を引き上げるどころか、このまま折れてしまっても不思議ではないほど不穏に揺れている。
(くそ、このまま落ちるしかないのか)
半ばあきらめるような気分で、魔物の様子を窺うと静かにこちらを観察する瞳と目があった。先ほどのように激昂は感じられなかったものの、右手を押さえどこか警戒するような眼差しで瑛莉を見つめている。
(もしかして、浄化の効力があったということ……?)
左手で覆われた箇所がどうなっているのか見えなかったが、魔石と同じ要領で半ば無意識に心の中で願っただけだが、男は顕著な反応を示している。
そう考えると落下後に怪我を癒す隙を与えられないような気がして、瑛莉は緩みそうになる両手に力を入れた。
無言の膠着状態は恐らく二、三分ほどだったのだろう。だが必死に枝にしがみつきながらも、魔物の動きにも警戒していた瑛莉にはもっと長い時間に感じられた。
不意に男が目を細め小さく嘆息を漏らす。
「……あの方を損なう者を俺は永遠に許さない。それだけは覚えておけ」
その言い回しに僅かに違和感を覚えたが、瑛莉には聞き返すどころか考える余裕も最早残っていなかった。
(というより……もう限界)
「エリー!!」
その声が届いた瞬間、感覚を失いつつあった手のひらに力が戻る。
力強く地面を蹴る馬蹄の音が近づいてきて、もう全てが大丈夫な気がして瑛莉は最後の力を振り絞った。
「自分のことだけを考えろと言ったのに……お前はどうして無茶をする」
ディルクに受けとめてもらい、ようやく地面に戻ったことへの安堵に浸る間もなく説教が始まった。
「だって仕方な――」
「だってじゃないだろう。お前の無謀な行動がどれだけ危険なものだったか分からないのか。そもそもお前は――」
正論で懇々と諭されれば反論のしようもない。だが瑛莉はどうしても先に聞いておきたいことがあった。
「そいつはディルクの知り合いなの?」
木にもたれてつまらなそうにこちらのやり取りを眺めている男を、ディルクは警戒した様子もなく背を向けている。
「まあ知り合いといえば知り合いだな……」
どこか歯切れの悪い返答は、いつもディルクらしくない。聞いてはいけないことだっただろうかと思えばそれ以上質問を重ねるのも躊躇われる。
「おい、もういいだろう。それを森から出せば俺の仕事は終わりだ。話があるなら後にしろ」
「……ああ、待たせて悪かった」
何故まだいるのかと思っていたが、まだ案内役を務めるためだったと知り、瑛莉は内心驚いた。
(エーヴァルトに言われたから?)
であれば、瑛莉にあれ以上危害を加えるつもりはなかったのかもしれない。それでもあの時感じた激しい感情は、これまで向けられたどんな嫌悪感よりも強く身の危険を感じたのも確かだ。
そしてディルクとの間にも微妙な距離感と好意的でない空気が漂っているのは、気のせいではないだろう。
それから森と街道との境に到着するまでの間、どこか居心地の悪い雰囲気は続いたのだった。




