61 何もかもうまくいかない
こんなもんか。
貯め込んだ知識も、知恵も、経験も、力も、こんなに、呆気なく――。
――ゴキャ、と響いた音は、思ったより派手だった。
襲い来る痛みは、意識の消失とどちらが早いか、などと考えて。
ふわり、頬を掠めたものにハッと目を見開いた。
視界に舞う、花びらのような……。
「……お前」
一枚絵のように、瞳に焼き付いた。
あの脚が、ガッチリとドラゴンの頭を掴んだ瞬間が。
木をなぎ倒して地面へ叩きつけた瞬間が。
鋭い瞳がぎろりと俺を睨みつけ、忌々しげにくちばしを鳴らした。
空を切り裂いたドラゴンの尾が、何なくシールドに弾かれる。
森の主は拘束を振りほどき、咆哮を上げて大きく翼を広げた。
ふわりと飛んだ幻獣が俺の前へ立つ。
そして、ひとまわり劣る体格で、堂々と翼を広げて胸を張る。
闇の中に、次々金色の文字が浮かび始めた。
いや、ドラゴンブレスの方が早い……!
ゴッ……!!
凄まじい光量に目が灼ける。
先手を取ったドラゴンブレスが、見る間にシールドを破壊していく。
大地までが焼ける臭いが、鼻をつく。
それでも……知っている。
目を細め、耳を立てたこいつが、その程度ではないことを。
揺れもせず佇む身体が、魔法文字をまとう。
帯となった文字列が、意味を成す。
完成した一文が、魔法を成す。
ざわり、周囲の木々が魔力圧に揺れた。
ぶわり、美しい羽毛が膨らんだ。
ゴッ、と響いた音が、周囲の音をかき消して打ちあがる。
ブレスの残差を漂わせたまま、巨体が夜空へ浮いた。
右腕一本でそれをやってのけた幻獣が、落下より早くドラゴンへ跳躍する。
悲鳴が、破壊音が、夜の森を覆った。
バラバラと落ちてくるのは、ドラゴンの鱗。
そして、ふわり、ふわり、微かに舞う羽毛。
もはや、夜に黒く沈んだドラゴンは見えないが。
時折光る魔法と、淡く光を帯びた幻獣の姿だけが浮かぶ。
ひと際鋭く響いた悲鳴が、遠く尾を引いた。
ああ――蹴り飛ばしやがった。俺の、『最期』を。
……生きている。
俺は、まだここにいる。
ただ、意味もなく獣のように声をあげた。
喉が破れるほどの、咆哮を。
「クオオォ!」
応える鳴き声と同時に、荒々しく下りて来たヤツは、咥えていたドラゴンの翼を放り投げてやってくる。
目をぎらつかせ、羽毛も毛並みも逆立てて、ザシザシ足音を立てて。
目まぐるしく、古代魔法文字が現れては消える。
「待て、待て、読めねえ、早すぎる」
どうせ、読んでもろくな内容じゃねえ。
視線を逸らす俺の頭に、ゴツンと大きな頭がぶつかった。
立ち上がれもしなかった身体が、簡単に倒れ込む。
ギョッと目を瞬いたヤツが、しばし動きを止めた。
そして、ひょいと俺を咥えて自分の背中に乗せた。
それから――
「いっ、痛え痛え! 噛むな!!」
「クワァ!」
「うるせえ!」
がぶ! と遠慮なく噛まれるそれが痛くないわけがなく。
怒り心頭で噛んでくるくちばしを押しのけ、サッサと飛べ! と促した。
文句を言いながら、ばさりと広がった両の翼。
ぐん、と体にかかる圧迫感が、馴染んだ背中の感覚が、どうにも、どうにも――。
「……契約、切っただろうが。なんでお前は切らなかった」
さわさわそよぐ毛並みと、後ろへなびく俺の髪。
伏せるように体を預けた温かい生き物から、随分と久しい匂いがする。
まだ怒っている魔法文字が、夜空に流れて消える。
「……そうかよ」
うまくいかねえ。
全然、うまくいかねえじゃねえか。
あの時の選書魔法は、失敗だったのか。
それとも、俺の選択が。
時折羽ばたく逞しい翼が、破壊の限りを尽くした証にまみれていて、フンと鼻で笑う。
「ヴェル、腕が鈍ったんじゃねえのか。高潔なる『ペタルグリフ』が、聞いて呆れる」
「クルァッ!」
じろりと睨むが早いか、ヤツがきらきら文字をまとった。
瞬間、さらりとその翼が、身体が煌めいた。
風を切る翼にも、ゆらめく羽毛にも、もう僅かな汚れすらない。
ついでに、俺にも。
泥まみれだった髪がサラサラ流れるのを感じて、僅かに安堵した。
ちらり、そんな俺を見たヴェルグラースが鼻で笑う。
「……うるせえ。誰が恰好なんか……」
「クァ!」
「うるせえ!」
空を行くヤツが、ぐるりと旋回して、高度を下げていく。
もう、地上に降りてしまう。
できれば、ここで。
「おい、俺はもう魔法を使えねえ」
ちら、と俺を見る瞳が、先を促している。
「契約を結び直せねえ。お前、使い魔でもないのに、使われるつもりか」
フン、と小馬鹿にした仕草は、なるほど俺に似ている。
浮かぶ文字は――
「……そうかよ。なら、勝手にしろ!」
ふわり、柔らかく地面に着地したヴェルグラースが、静かに翼を畳んで首を傾げた。
きょろきょろ庭を見回す仕草に、肩を竦める。
「お前の小屋なんか、もうねえよ」
「クワァ!」
「痛え! 噛むな!!」
早々に壊した『未練』を、また作り直す羽目になるとは……。
「クソ、うまくいかねえ……」
俺は、馬鹿馬鹿しくなって力を抜いた。
もう、無理だろう。
全身で感じるこの体温を、再び手に入れてしまったものを、もう一度……無理だ。
舌打ちして、目を閉じた。




