毒入りパン
びしょ濡れの靴下を両手で絞りながら、愛が生足を大胆に伸ばす。
「全然気にしてないよ。水上君、本気じゃないって分かってたから」
「でも酷いセリフだったから。ちょっと配慮が足んなくてごめん。少しは傷ついたでしょ」
「うーん。まあね」純真な面立ちで素直に笑う。
「あれしかアイデアがなかったんだ」
「分かってるって。あなたを信じてたわ」
敦はポケットからカプセルを出しボタンを押す。
煙から現出したのは、巨大な紫の袋だった。
「さて、この黄泉の八咫袋でコイツを封印してと」魔物の死骸、ではなく仮死状態のそれを中に詰め入れる。もう幽体ではなく、赤黒い肉片に成り下がって固着している。コイツをマゴヒルコに預けて冥界へ逆送還するのだ。
そんなこんなで、いよいよ下山となった。
「ホント僅かな付き合いだったけど。また会えるかな」聡太が名残り惜しげに微笑む。
「ああ。いつでも参上するよ。皆元気で。いやー、とにかく初仕事だったからさ。自信なかったんたけど、無事に帰らせてあげられてよかった」
それに多大な貢献をしたのが、他でもない女霊能者の真中愛だった。
「ありがとう。それしか言葉がないわ」
「いやあ、助かったよ。愛さんがいなかったら、殉職ものだった」
そしてふと背中に気配が生じ、空気がざわめくのが判った。
「おっと。そろそろ御迎えだな。黄泉の刺客は楽なもんだ。自宅と現場をワープできるんだぜ。じゃ、またな」
空中にまたあの黒い空洞が開いた。
「便利なものね。私も連れてって。て、ジョークよ!」ケラケラ笑って愛が手を振る。
貴重な思い出を胸に、敦は穴へと飛び去った。
翌朝のニュースが吉報を伝えた。ウイルス感染で入院していた患者の体内から突如、病原体が消えてなくなり、被害者全員が全快したのだ。
おそらく宿主が黄泉に戻されたため、その魔力支配の効果がなくなったためだろう。
ゆえに、ひとまず一件はめでたく落着した。
朝練の筋肉疲労を感じながら、古典の授業を無為に聞き流す。
勉強熱心な亜季が真面目にノートをとっている。今やっている源氏物語は期末テストのミソらしい。他力はよくないが、またコピーを取らせてもらおうかな。
チャイムと同時に亜季がやって来た。ミニスカートからはほどよい肉づきの足がむき出しだ。
「ねえねえ、剣道部って春合宿どうするの?うちの管弦楽部は田舎で集中特訓するんだけど」
「ああ。うちも海辺の合宿所を借りて猛練習すると思うよ。と言っても、やる気あるのは俺くらいだけどね」
「ふーん。水上君エースだもんね。じゃあ女子部員の子たちとも仲良くするんだ」そう言って、どこか不満げに頬を膨らませる。
まさか俺に嫉妬か?まさかまさか。
とはいえ、敦は腹の中で淡い期待を抱く自分に気づいた。
「別に仲良くなんてしないよ。部内でベタベタするのは誤解を招くから」笑って誤魔化した。
「そうなの?私も水上君と一緒の部活にすればよかったかな」
「えっ、それ本気?」
「男の子の友達が部内にいると楽しいし、心強いでしょ」
友達かよ。やっぱし恋人未満なのか。それもそうだ。こんな可愛くて賢い女子が、何の才能も魅力もない、冴えない弱小剣道部員に惚れるわけないか。
「そうだね。一緒に声出して竹刀振りたかったな。それか、俺が管弦楽部入って一緒にモーツァルトでも演奏すれば最高だったな」
亜季との談笑は嬉しくて癒やされて、ほんと時間を忘れる。
これが幸せというものか。二人は愉快に笑い合う。
しかし、やはりそこへ不穏な視線が突き刺さるのだった。
由美が憮然と、邪魔者を見るような双眸を向けていた。
機転のきく亜季が素早く察知して席まで走る。
「あっ、新巻さんは春休みどうするの?」
「どうもしない」無愛想な返答後、すぐに読書に戻る。
「部活やってないから自由でいいね。何でも好きなことできるし。忙しいばかりが青春じゃないもんね」相手の不機嫌に感染することなく、満面な笑顔で言う。
「マジでいいよね。新巻さんは帰宅部で好きなだけ本読めるから。最近のジャンルはまだ純文学?」敦が渋々協調性を示す。
しかしそれが嫌味に聞こえたのか。棘々しい言葉が放たれる。
「それが何か?あんたに言っても理解できないから」
何だその言い方!癇癪を起こしそうになったが、亜季の手前、必死に矛を収めた。
人間嫌いの馬鹿女。優しくしてやれば、つけあがりやがって。大体、この社会不適合自己中人間に愛想を遣う義理は全くない。公私ともに借りも貸しもない。
ただ亜季が話しかけるから、しょうが無しに話してやってるだけだ。あっちが無関心なら、こっちも無視したいとこだが、邪険に扱うと亜季が悲しい顔をするから手加減してるんだぞ。
ぼっち女が。頭に来るぜ。
「文学って難しいもんね。私も偶に頑張って読むけど、身にならなくて」亜季は気まずくならないように、爽やかな笑みで同調する。
由美はその明るさを避けるように乱暴に椅子を引いて立つと、トイレでも行くのか、不機嫌オーラを如実に纏わせながら教室を出ていった。
放課後の練習をして帰宅すると、待ちくたびれた顔のマゴヒルコがベッドに片肘をついて菩薩のように横になっていた。図々しくなったもんだ。
「いきなり何の用だよ!留守中に来るなんて失礼だぞ!」声を荒げてやった。用件は分かっている。この前の初任務は命辛々、薄氷を踏んだ。まだ一週間も経たないのに、また仕事か。
「私が来るときは常に急用だ。時は選ばん」
「で、何の用かって聞いてるだろ?」
「鎌山という町で奇妙な事件が起きてるだろう」
カマヤマ?ああ知っている。連続強盗事件のことだ。何でも善良な人々がある日、取り憑かれたように狂って街中の店を襲撃するという奇異な事件が連続発生しているという。
家族に事情を尋ねても、朝起きてきたら突然人格が壊れたように別人になっていたなどと、不可解な証言をするばかりで皆目理由が分からない。
よもやとは思っていたが、また奴らの仕業なのか。
「魔王の手先なのか?」
「そうだ。犯人はパンだ」
パン?今度は小麦粉に扮した怪物か。
「そうではない。パンに仕込まれた魔道の秘薬により、人間が破壊者に変貌したのだ」
「破壊獣は真人間に変装し、町の店のパンに秘薬を仕込んでいる」
「コンビニやスーパーのパンに?」
「奴は人間の仮面をつけ町中に隠れている。それを見つけ出し回収送還するのが今回のお役目だ」
「どうやって探すんだ。見分けなんかつかないぞ」
マゴヒルコはまたもカプセルを出しスイッチを押した。
すると、一枚の派手な鏡が現れた。枠は金縁で由緒ある埋蔵品のように威風を漂わせている。
「神明鏡だ。森羅万象全ての真実を映す黄泉の神器。これで捜索するのだ」
「四次元ワープでそいつのとこまでスッ飛んで行けないのか?」
「破壊獣は完全に三次元物質たる肉体になっている。ゆえに、場所は特定できん」
「それじゃまるで、海底の金貨を探すようなもんだよ」
「そう言うことだ。救国使にとっては、推理力を鍛えるいい修業になるぞ」他人事のように鼻笑いする。
ウイルス事件のシャボン玉野郎を退散させて、一応初っ端は首尾よく運んだ。
それでもまだこの過酷な使命に対する違和感は拭いきれないでいた。
万一しくじったら命を奪われる。そうなったら、自分は晴れてあの世に行くのだろう。
もしかして、死んで霊体になったら、本物の不死身幽霊ハンターとして黄泉の使者になれるのかも知れないが。
そうなっても悲しむのは両親ぐらいだ。やはり自分はちっぽけで凡庸な人間なのか。
マゴヒルコが悟り顔でこちらを見据えている。 この小人は人間のことをどう思っているんだ。愛しているのか、哀れんでいるのか、軽蔑しているのか。
あー、面倒くさい。鏡を使っての大捜索か。これから自分はどうなってしまうのか。そして地球は。
自棄になった敦はベッドからマゴヒルコをどかして、今度はみずからが菩薩ポーズで寝そべった。
鎌山という町は東西に長く広がった比較的賑やかな土地だ。
北部の繁華街には真新しいショッピングモールがあり、その周辺には様々な飲食店が散在している。
それ以外は、主に所得的に中流階級と思われる家々が多く建ち並ぶ。
小人の奴、ただ命令するだけで情報収集も何もしてはくれない。
敦は現地に来たものの、何から手をつけたらいいか迷うばかりだった。
ただし加害者の名前と自宅の番地をネットで検索して控えていた。まずはそこへ行って家族から状況を見分するしかないだろう。
川田雅弘。強盗を働いた加害者の一人だ。スマホニュースアプリの記事によれば、川田は二日前の午前十一時、路上で足の不自由な高齢男性を突き倒して現金を強奪した。その後、警察と追走劇を繰り広げたが、警官複数人によって取り押さえる。
それはいいが、俺の肩書はどうする?友人か、マスコミ、ジャーナリスト。はたまた刑事。
逡巡した結果、潰しの効く雑誌ライターの身分を自称することにした。
自宅には母親と妹がいた。どこか寂しげな面相の大人しそうな母子だ。
「すいません。雅弘さんのことで、お話を拝借できないでしょうか。あの、ぜひ社会にメッセージを発信して、事件が連鎖模倣されないよう警鐘を鳴らしたいというか、ええっと」敦は不慣れな長広舌で、つい口籠ってしまう。
「雑誌に雅弘の事を?」母親が敦の言葉を補うように言う。
「そ、そう考えていまして。はい。お願いします。それで、雅弘さん、何か言ってませんでしたか?急に頭がおかしくなったとか。何かを食べたら。いや、いいえ。何でもいいんです。異変が起きたような様子はありませんでしたか?」
「いえ。それがよく分からなくて。強盗なんて乱暴なことをする子じゃないので。とにかく信じられなくて」
母親の困惑を後ろから垣間見た妹が、何か言いたげに敦に目線を置く。
「妹さんは何か?」
言われて、妹は細い脚を弱々しく交差した。
「外出から帰って、昼ご飯を食べてから変になったみたいで」蚊のような声で言う。
「昼ご飯ですか。何を食べたのか分かりますか?」
「お昼はいつもパンです」
「なるほど。それです」っと!待てよ。狂った原因を教えるのはまずい。何で俺が知ってるかの説明もできない。警察も知らない情報をライターが知るわけがないからな。
「いえいえ!その、あの、そうなんですね。で、どこの店で買ったものかとか分かりますかね?」
「多分、二丁目のコンビニだと。いつもそこで買ってますから」少しはっきりした声で恥ずかしそうに答える。
その他私事など些細な雑談をしてから、手厚く礼を言って退出した。
さてどこで犯人たる破壊獣を待ち伏せし網を張るか。
同じ店にはもう来ないか。いや、その前に毒を仕込んだパンはどのくらいあるんだ?そしてパンを扱う店は何軒くらいあるのか?とても監視しきれない。
畜生。もっと大胆に出てこないと、現行犯で捕まえるのは無理だ。
奴が次の破壊工作に移るまで待つしかない。
それでもまずは街並みを観察して、聞き込みをしてみることにした。
最初に川田がパンを買ったコンビニの前に行った。
この辺は適度に人通りのある区画で、ポツポツと客が出入りする。
しばらく外で待ち合わせを装って立っていると、色褪せたジャージの上下を羽織った無職風の男がふらりとやって来た。
ものは試しだと思い、敦は例の黄泉の鏡を出して、男に翳して見た。
映ったのは、何の変哲もないそのままの姿形だった。
ハズレか。まあすぐに見つかるわけないしな。
それからスマホでネット検索して、事件現場の一つに向かった。
強盗があったその場所は、車も頻繁に通る目立つ所だった。
側にお好み焼き屋の看板があったので寄ってみる。
「すいません。ここで、強盗があったの見ましたか?」
眼鏡をかけた店主の親父が、汗を流しながら機嫌よくお好みをひっくり返して言う。
「見たよ。あれはびっくりしたねえ。高校生の女の子に殴りかかって、財布を毟り取るは、身体に触るわで。その子、泣きながら助けを求めてた。助けてあげたかったけど、俺非力だからさ。どうにもできなくて、110番通報するしかなかったんだ」
「そうですか。その強盗犯、何か変じゃなかったですか?奇妙な事を叫ぶとか、行動が奇天烈だとか、顔がヘンテコとか」
「さあね。どうだったかなあ。君、なんでそんな事知りたいの?分かった。新米刑事?はたまた探偵かい?」主人が興味深そうに詰問する。
「いえ、いいやその。ただのライターなんです。いい記事を書かないとお金もらえないんで」敦は怪しまれないように誤魔化しながら言い繕う。
「へえ、そりゃ気の毒な商売だね。まあおいらも先行き分かんない水物の仕事だから、おんなじようなもんか」肩を揺すって愉快に笑う。お好みに唾液が吐き飛んでしまわないか心配だ。
「そうだね。あの男、何かまともじゃなさそうだったな。こんな言い草しちゃうと人権侵害かも知れないけど、何かゾンビみたいな狂った動作だったよね」
主人は一人仕事のストレスを吐き散らすように能弁に目撃談を揚々と話し続けた。
ともかく犯人は奇っ怪な声紋と異様な体の運びが特徴的だったとのことで、その獰悪さに縮みあがったらしい。
もっとも敵は魔王の派遣した破壊獣だ。人間がまともに太刀打ちできはしない。
「どうだい君?お腹空いてる様だね。出来立ての絶品だよ。買ってかない?今じゃレアな蛸一杯のお買い得品だし。栄養満点、食べれば記事もスラスラ書けるよ」
せっかくのセールストークに逆らうのも憚られたので、遅めの昼飯にと購入した。
馬が合うとばかりに、すっかり気に入られた敦は、しつこく話し掛けてくる店主を振り切るようにして礼を述べ退店した。
その後も各部を周遊し、遭遇した何人かの怪しい人物に鏡を当てて見たが、悉く全部人間だった。
とりあえず初日、敦は日暮れまで町を隈なく見て歩いた。
やがて夜が訪れ、四次元装置の送迎で家に帰った。
異次元ホールは自室に繋がっている。装置を操作するのは勿論マゴヒルコだ。
「お疲れさん」
敦は返答せず、カーペットにリュックを降ろしてへたり込んだ。
「骨折り損だよ。まだ行っても意味なかったし。あいつ自身が暴れ始めなきゃ駄目だ。炙り出すのは無理」
「破壊獣は町を支配するために来た。必ず正体を現す」
となれば、さらなる犠牲者が。一体どんな侵略計画を練っているのか。
「つかぬ質問で恐縮だけど、魔王はどうしたら地球征服を断念するのかな。要するに、あと何体倒せばいいんだ?」
「さてな。私にもそれは分からん。魔王は強い意志で地球制圧を遂行しようとしている。だからして、地球人もそれに劣らぬ団結と決意を持たねばならない」
「そんな悠長な話じゃないよ。昔の春秋戦国時代みたいな永い戦いになるんなら、この世は血の海地獄になるじゃないか」
マゴヒルコは黙してそれ以上は語らなかった。
最悪のシナリオが現実になってしまうかも知れない。地球の生死は自分の腕一つにかかっている。
やってられないぜ。途轍もない重圧と孤独じゃねえか。救国使なんて巫山戯た使命を与えた、天津国の神々への怨嗟が沸々と心に滾るのだった。