『ニケ』の正体
ふいに、礼音の肩を引いた慶太が、ぎゅ、と礼音の背に腕をまわした。
まばたきに紛れ、ちいさなちいさなささやきが、耳にとどく。
窓の外でまた、羽毛のように、雪が舞う。
「ほんとは、こういうのはゴールを決めた後、勢いでやっとくんだけど。もう、その機会もないから。それだけ、言いに来たんだ」
ぽん、と肩をたたいて立ち上がった慶太が、足元に残した青い布を、おもいだしたように拾いあげた。
「ああ、そう。あとこれ、先生にあげようとおもって。たぶん深澤も気づいてないけど、先生が『ニケ』って呼んでたものの正体って、それなんじゃない?」
落ちてきた布をすくいとめて、礼音はぴら、と広げてみる。
「──ユニフォーム?」
「そう、日本代表のね」
「えっ。それって、すっごく大事なものなんじゃ……」
「またこれを着るためには、後生大事に持ってちゃいけない気がするんだよ。葬式に間にあってたら、監督の棺桶にでも入れたけど。おなじくらい、出会えてよかったとおもった先生に、あげる。教師をがんばる張り合いになったらいいし、のぼりたい山があるなら、そっちをあきらめないための、お守りぐらいにはなるかも。ギリシャの女神様とおなじで、導き手だから、ヤタガラスも」
ユニフォーム左胸のエンブレムを指さして、慶太が微笑みながら手を振った。
「──じゃあ、行くよ。またね、先生」
「あっ、こ、これ! ありがとう、鷹林くん。大事にします、かならず」
こく、とうなずいた慶太は、とびらに手をかけたところで不意に足を止め、ふり返る。
「…………あのさ。何か後悔しそうだから、やっぱり訊くよ。その絵って、どうすんの」
「え?」
礼音は、慶太と描き上げたばかりの絵とを交互に見た。
「え、っと……まだ、決めてはない、けど。どこかに飾ってもらえたらな、って」
「飾るって──美術館的な壁のこと? 個人の家っていうか、せまい寮の部屋の壁とかはナシ?」
美術館、のひとことで思考がショートしてしまい、あとはもう、何を訊かれているのか分からずに、礼音はただまばたきを返す。
焦れたように、慶太がことばを継いだ。
「絵のことなんか何も分からないくせにっておもうだろうけど、毎日その絵が見れたらな、って今、すっげえおもっててさ。俺に売ってくださいって頼んだら、考えてくれる?」
「…………え?」
「だ、から──」
「あ。う、ん。それじゃ、持って帰って……つつむから、すぐ、君が、えっと」
「いや、先生、何言ってんの。俺、まだお金ないし、今すぐじゃなくてね」
ふらふらと立ち上がった礼音のところまでやってきた慶太が、肩をとる。
ふりあおいだその顔が、なぜか歪んで見えた。
「えっ──、何で、泣くの。つか、泣くほど嫌ならそう言えよ、先生」
「ち、が……」
ぽろり、と頬をつたい落ちる涙を自覚して、礼音は手近な布であわてて拭う。
「え、それで拭くの……っていうか、鼻水は拭かないでくれる、頼むから」
うめかれて、手にしているのは慶太のくれたユニフォームだったと気がついた。
「あっ、ご、ごめん──」
「…………いや、もう、何でも拭いちゃっていいから、泣きやもうよ。いい大人がさ」
「だって、君が……」
「分かったよ、もうほしいなんて言わない」
ちがう、と礼音は懸命に首を振る。
子どものように慶太の手に宥められながら、礼音はユニフォームに顔を伏せた。
「あり、がと……まいにち、みたい、って、言ってくれ、て。ほしいって、言ってくれて……ありがと、う。すごく、うれしい……」
「エッ、──じゃ、いいの?」
こくこく、と礼音は何度もうなずいた。
ほしかったのは、絵の対価でも、プロという肩書でも、何でもなく。
ただ、自分の絵を手元に置きたい、いつでも見たいという、そのことばだけだったのだ──と思い知らされる。
絵を描きつづける理由は、『ほしい』という、他人のたった一言で良かったのだ。
「君に、差し上げます。そのために、この絵を描いたのに、違いないから……」
教師として未熟すぎる自分に、出会えてよかったと言ってくれた、初めての生徒である、君へ──
「グラツィエ、先生」
耳元で聞いた慶太の生の声を、その笑顔を、礼音は生涯、忘れることはなかった。
少しでも、楽しんでいただけましたでしょうか。
当初のタイトルは『隻腕の女神様』だったのですが、いくら3本脚のヤタガラスを意識してるからって女神が隻腕なのはどうよ、と思ったので、『有翼』になりました。
鷹林vs流星、私はけっこう気に入っております。
読んでくださって、ありがとうございました。




