誰か、ではない
夜が明けてもうす暗いままの空を窓ごしにあおいで、礼音はちいさな吐息をこぼした。
左腕の時計を見れば、今まさに、集合時間をまわろうとしている。
雨はまだ残っているらしく、時折、窓の向こうで、ぽたりぽたりと大粒のしずくが落ちていた。
窓際から一歩でソファがわりのベッドに腰かけると、マグカップを載せたテーブルから藤色のネクタイを取り上げる。
サッカー部のユニフォームによく似たその色を身につけることだけが、礼音にとっては、ベンチに座る免罪符のようにおもえた。
どこか遠くで、ベルが鳴る。
しばらく考え、カバンの中に入れっぱなしにした携帯電話からきこえるデジタル音だと気がついた。
あわてて探りだせば、液晶に誰のものだか分からない番号が表示されている。
が、相手は誰だか、直感した。
すこしく迷った挙げ句、礼音は意を決して通話ボタンを押す。
「──も」
『なめてんのか、てめえッ』
応える前に一喝され、やっぱりとおもう。
「すみません……連絡は、入れようとおもったんですが」
『が、何だ』
「深澤先生の連絡先が分かりませんでした」
沈黙が、おちた。
と、キイン、と電話を当てた耳の向こうで耳鳴りのような音がする。
『で、今どこだ』
「うちです」
『──うちって、何だ。なめてんだろ、レオン。昨日、正門前に十時集合だってちゃんと言っただろうが。今日、決勝だぞ、決勝!』
「……知っています」
もういちど、沈黙がおちた。
なんとなく、髪をかきまわす流星のすがたが目にうかぶ。
『昨日も、とちゅうで帰ってたな。風邪でもひいたのか』
「いえ、そうじゃなくて──」
ことばを切った礼音は、ふと、電話の向こうに耳をすませた。
やはりきこえる甲高い音が回線から生じたものなどではないことは、しばらく聞く内に分かってくる。
「深澤先生、ニケはちゃんとそこにいます」
『はん? こっちのことが見えるのかよ』
「声がきこえていますから。ニケさえいれば、私はいなくてもいいはずです。試合のときは、これまでもとくに何も言ってませんでしたし。チームには、鷹林くんがいるでしょう?」
彼は、ニケがそこにいる、という事実さえ必要とはしていない。
そんなものがなくても、エースとしてチームを勝利に導けるちからと信頼とを彼が持ち合わせていたことに、今の礼音も確信に近いおもいがある。
『──いいから、さっさと出て来い』
ひときわ低い、最後通牒のようなことばに、礼音はかぶりを振った。
鈴の音よりも高い声が鼓膜にひびいている。
まるで、呼ばれているようにきこえるのは、なぜなのか。
「行きません。すみま、せん……」
そうか、とだけ言って電話は切られた。
何もきこえなくなったはずの電話ごしに、耳鳴りの余韻がしつこく、そなたが必要だ、とくりかえす。
そんなはずは、ない。
もしかしたら、そう言ってほしいという願望なのかもしれないとおもう。
礼音は、藤色のネクタイを手にして、苦笑をうかべた。
そも、自分が行ったところで何の足しになるというのか。
けれど。
必死に呼びかけているような声は、たしかにしていて。
それは、礼音にいつかの記憶をおもい起こさせた。
きこえないふりで、死なせてしまったひと。
まさかまた、あんなことがあるはずはないとおもいつつも、不安はぬぐいきれない。
気が遠くなるほどに、走って、走って、ひたすらにボールを蹴っていた選手のすがたが容易に目にうかぶ。
それはどこかの誰かでは、もはやない。
ニケが呼ぶのも、他の誰かではない。
礼音はちらりと窓の外に目をやると、意を決し、藤色のネクタイを首にまわした。




