母親、綾子
「キャンプ、ですか?」
「うん、キャンプ」
瀬奈の声に、雅が答えた。
手に持っていたエコバッグをカウンターの上に置いてから、雅はまた二人のほうに体を向けた。
「もうすぐゴールデンウィークでしょ?毎年ゴールデンウィークにはここの常連さんたちで旅行に出掛けるんだ。今年は長野のほうにキャンプしに行こうかーって話になっているんだけど、どう?瀬奈ちゃん行かない?」
「え、と……。親に聞いてみます」
行きたい。もの凄く行きたい。でも、親の承諾がないと流石に駄目だ。
瀬奈が遠慮がちに答えると、カウンターにいた空也が呆れ顔をする。
「お前、親にいちいち了承得ないとどっか行けねぇのかよ」
「瀬奈ちゃんは空也みたいに無言でお出かけしちゃうような悪い子じゃないんだよ。まぁ、多分最低でも一泊くらいはするだろうし、そうなったらちゃんと親御さんの了承得ないと」
雅の言葉に、空也が音を立てて固まった。
「と、泊まりで旅行、行くのか……?いつもは日帰りじゃねぇか」
いつも、とは、きっと毎年常連さんたちと行く旅行の事を指しているのだろう。慌てた様子の空也を見て、雅はカラカラと笑った。
「だって、キャンプと言えば普通泊まるでしょ」
「そりゃ、そうだけど」
「大丈夫。コテージ借りるし、お酒は飲ませないし、部屋は男女別だから」
「当たり前だろっ!」
ガタンと派手な音をさせながら、空也は立ち上がる。その瞳の中に、若干の羨望の眼差しを確認して、雅は心の中でほくそ笑んだ。
「まぁこればっかりは瀬奈ちゃんの希望を聞くしかないからね。瀬奈ちゃん、どうする?」
唯一座っている瀬奈に、雅と空也二人の視線が集まった。瀬奈は、いきなりの事に戸惑いながら、おずおずと口を開く。
「い……」
(いかねえって言え!)
「い、行きます!」
「なんでだよ!」
大声を上げる空也にびくつきながらも、瀬奈の心は変わらない。行く。行きたい。雅さんや、常連さんたちとの旅行は、絶対楽しいものに違いない。
「だ、だって、楽しそうだから……」
「おっまえ、なんでそこまで……!!」
ギシリ、空也が歯軋りする。
二人の応酬をニマニマしながら見つめていた雅が、パンパンと軽く手を叩いて二人の注目を集めた。
「はいはいそこまで。じゃあ瀬奈ちゃん、親御さんの許可貰えたら、俺に連絡して。詳しい日程教えるから。またなんか聞きたいことあったら気軽に聞いてね!」
「はいっ!」
「グッ……!!」
嬉しそうに顔を綻ばせる瀬奈と雅に、空也はただ奥歯を噛み締める事しか出来なかった。
深夜2時過ぎ。
瀬奈は、広いリビングに一人で座ってテレビを見ていた。
いつもは眠っている時間帯。もう既に夕食も済まし、歯も磨いていつでも眠れる状態だが、瀬奈には起きていなければいけない理由があった。母親にキャンプに行っていいか許可を取りたかったのだ。
(なんて言うかな……)
まだ座りなれていないソファの上で、体育座りをしながらぼんやりと考える。普段みていない番組は瀬奈にとっては面白くもなんともなくて、ぽんぽんと番組が変わっていった。
瀬奈はどうしても両親が苦手だった。多忙な日々を過ごす両親に、甘えた記憶など残っていない。
いつもいつも、『家族』という印象ではなく、『養う側』と『養ってもらっている側』という印象が払拭出来ないでいた。
がちゃ
「!!」
扉の開く音。帰ってきたんだ。
ぱっと玄関の方に視線を投げ掛けた瀬奈の表情は、親がやっと帰ってきたという安堵の様子は見られず、緊張によってガチガチに固まっていた。
面白くもなんともないテレビを消し、ぱっとソファの上から飛び降りて、背筋を伸ばして玄関へと続くドアの前へと足を運ぶ。
その扉から表れたのは、瀬奈よりも背が高く、気の強そうな顔をした女性だった。
この時間になってまでもかっちりとスーツを着こなし、髪をキチッと結い上げている瀬奈の母親、岩倉綾子は、にこりともしないで自分の娘を見下ろした。
子供を一人産んでいるというのに、余り老いを感じさせない若々しい母親は、そこまで瀬奈とは似ていない。似ているなんて一度も言われたことが無いし、本人もそう思っているだろう。
「なんでこんな時間まで起きているの、瀬奈」
「ご、ごめんなさい。ただ、その、ゴールデンウィークに、少し出掛けたくて……。その許可が今日中に、欲しかったんです……」
おずおずと話し始めた瀬奈は、母親の顔色を伺った。いつにも増して無表情な親に、しおしおと心が萎縮していくのが分かる。
「どこに誰と行くの」
綾子は瀬奈の横を通り過ぎて、テーブルの上に鞄を置いた。瀬奈はその場からは離れずに、ただ視線だけ母親の方に向ける。
「瀬奈、物事を言う時はちゃんと相手に伝わるように言いなさい。学校で習ったでしょそれくらい」
「す、すみません。ゴールデンウィーク中に、あの、私がバイトをしている、お店の人たちと、キャンプに行きたくて……。一泊したい、ので、許可が、欲しくて……」
「……バイトって、『weiss katze』っていうただの喫茶店よね?」
「は、はい……」
暑くもないのに、冷や汗が背中を伝う。
いつも思う。これが世間一般の母親と子供の距離なのだろうかと。
母親とは2メートル位しか離れていないのに、その間に越えられない溝があるような気がして、瀬奈はその場から動く事は出来なかった。
恐らく、母親は駄目だと言うだろう。そしてその言葉に落胆しながらも、自分は『分かりました』とだけ言って引き下がるに違いない。親に反抗したことのない自分に嫌気が差しつつ、瀬奈は下を向いて母親の言葉を待った。
「……いいわよ、行っても」
「え?」
反射的に視線が上がる。気だるそうにソファに寄りかかっている瀬奈の母親、綾子は、特に興味が無さそうに見えた。
「必要な費用があれば言いなさい。用意するから。あなたはさっさと部屋に戻って寝なさい。テストで点数落としたら、バイトは無しになるのを忘れたの?」
「あ、ありがとうございますっ。おやすみなさい」
慌てて頭を下げて、自分の部屋へと逃げる。
部屋に到着すると 静かに扉を閉めて、瀬奈はずるずると扉に寄りかかりながらその場に腰を降ろした。
「やっ、た……!」
キャンプに、行けるんだ。
山本さんと、美里さんと、雅さんと。じわじわと身体が暖かくなっていく気がした。誰かと旅行だなんて、数える位しか記憶にない。しかもそのほとんどが学校での修学旅行だ。
「ふぁ……、ねむ……」
安心したからか、親との会話での緊張が解けたからか、一気に眠気が襲ってくる。もう寝る用意はしてあるから、後はベッドに潜り込むだけた。
うつらうつらとしながらベッドに潜り込み、ふかふかの布団にくるまれながら瀬奈は目を閉じた。