クレーマーさん
『じゃあ、お姉さんと日曜、デートしましょうね!』
美里の最後の言葉が、瀬奈の頭の中でぐるぐると回った。
お風呂に浸かりつつ、頭の中で繰り返す。デート? 誰と、誰が? 肩までお湯に使って、更に体を沈めてブクブクとお湯の中で息を吐く。
誰かと出かけるだなんて、何時ぶりだろう。
瀬奈の両親は共働きで、両方とも瀬奈の生活費と学費を払えるだけの経済力を持っていた。
その為か、どんな要件を言っても、返ってくるのは数枚のお札だった。
洋服だってお金を渡されて一人で買いに行くし、食事など手作りの方が珍しい。一人で食べるなんて瀬奈にとっては当たり前の生活になっていた。
『小学校の運動会がある』と言った日でも、返ってきたのは仕事だからという拒否の言葉とお札だったのを、今でも覚えている。
「………デート、かぁ…」
顔をお湯から出して、呟く。
お金を出して貰える自分は、きっと幸せなのだろう。幸せだと分かっているのだが、でも私はこの両親との関係が寂しいと思っている。
我が儘だと言われるかもしれない。だけど、記憶の中では一度も経験したことがない、『家族団欒』というものに、幼くもない自分が未だに憧れているのも事実だった。
美里さんは、何歳なのだろう。
そこまで年上には見えなかった。30代位だと思う。お姉さんという感じがぴったりだと思った。一緒に街を歩いたら、『家族』に見られるかな。普通の家族だったら、普通どこに行くのだろう。映画館? ショッピング? カラオケ? そんな考えが浮かんでは消えていく。
「…ああ、そっか」
唐突に、自分は美里さんとのデートに不安を抱えつつも、内心期待している事に気が付いた。
人は、変わろうと思っても、中々変われないものである。
(今日も、上手くいかなかったなぁ……)
とぼとぼと帰りながらため息を付く。相変わらず、学校では上手くいかない事だらけだった。
人に話しかけようと思っても、喉が塞がったように言葉が出てこない。そのままはくはくと口を動かし、最後には諦めてしまうのだ。
もう、グループは出来つつあるのに。どうしよう。
焦りを感じつつ、でも怖くて一歩が踏み出せない。そんなやるせなさに打ちひしがれつつ足は自然と『weiss katze』に向かって-…、ピタリと止まった。
トレードマークの、白い猫の置物付近に、男の人が立っていた。短めの黒髪に、学生服。
高校生だと分かると別に悪いことをしていないというのに、見つからない内にと瀬奈は慌てて『weiss katze』へと続く路地を通り過ぎてしまった。
通り過ぎてしまって若干後悔が生まれたが、あの男性の横を通っていくなんて勇気、瀬奈には無かった。 あの路地は狭いから、声をかけて開けてもらわないと通れないし、今の自分は学校生活に打ちひしがれてしまっていて、知らない男性に声をかけるというその程度の事でも出来そうに無かった。
でもまぁ、明日は土曜日。仕事は午後の2時~5時だ。明日行っても今日行っても、常連さんとのお茶会なのでそう変わらない。
(そういえば、あの人の制服……)
自分が通っている学校の制服じゃないだろうか。
男子の制服なんてマジマジと見たことなど人見知りが激しい瀬奈には無いに決まっているが、ちらりと視界に入る事はある。
しっかりとは見なかったが、あの深緑のブレザーは…、確かに、うちの学校のものだった、はず。
(まあ、そんなに考えなくても大丈夫だよね)
だって、仕事で出会ったとしても雅さんがきっとフォローしてくれるはずだもの。高校生に絡まれるなんて事、無いはずだ。
そう結論付けて、私は帰り道を急いだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
まだ片手で数える程しか働いていないが、それでもこの仕事に慣れてきたと言えば、慣れてきた。
とは言っても、雅さんがシフトの時間を調節してくれているからかほとんどの時間に山本さんがいて、誰も居なくても毎回お茶会なのだが。
焦げ茶のエプロンと白いワイシャツを着てカウンターに入る。
雅さんがいつものように笑って出迎えてくれる…、と思っていたのだが、今日は雅さんはワタワタと探し物をしているようだった。
「み、雅さん、どうしたん、ですか?」
「え? ああ、瀬奈ちゃん。えっとね、コーヒーのフィルターが無くなっちゃったらしくて」
困惑した笑顔をこちらに向けた。どうやら予備も無いようだった。
「あの、買って、きますか?」
「ううん、俺が行ってくるよ。すぐ行ってくるから、それまで留守番頼めるかな?」
勿論だ。コクコクと頭を縦に振ると、『良かった』と雅さんが言った。カウンターの引き出しから財布を取り出しポケットに入れる。
「多分だけどお客さんも来ないだろうし、すぐ行って来るから、ほんのちょっとだけ待っててね」
「は、い。あの、気を付けて、行ってらっしゃい」
勇気を出して行った言葉はしっかりと雅さんに伝わったらしく、雅さんはドアを開けながら『行って来ます』と破顔してから出て行った。
しん、とした店内に、申し訳程度にバラードが流れる。
ああ、雅さんがいないとこんなにも静かなのかと、実感しつつも、とりあえず私は座り込む。
お客さんが来たらと不安には感じるが、雅さんにコーヒーや紅茶の淹れ方はある程度教えてもらっているから、お客さんが来ても大丈夫だ。と自分を元気付けていた時-、カランカランと、ドアベルが鳴り響いた。
もしかして雅さんが忘れ物をしたのかな? と視線を上げて-…、瀬奈はピシリと固まった。
「へぇ~綺麗な店内じゃん」
「うわっ、ガラッガラ~」
「こんちは~」
軽い感じの、男の人の声。
雅さんと入れ違えるかのように入ってきたのは、4人のチャラそうな高校生らしき人たちだった。
(ど、どうしよう……)
ついさっきまで大丈夫だと意気込んでいたのに、一気に頭の中が真っ白になった。動かなくなった私の事などいざ知らず、4人の男の人たちは勝手にテーブル席を占拠する。
「お~い、店員さ~ん」
間延びした声を聞いて、ハッと我に返った。そうだ、今、ここには私しか店員はいないんだ。
瀬奈は拒絶を示す体と頭を無理やりに動かす。集団の男子ほど、瀬奈にとって怖いものは他に無い。4人が果たして集団に入るかは疑問だが、瀬奈にとって2人以上ならそれは集団だ。
おずおずと体をカウンターから出して、近寄る。一番手前に座る男性から1.5メートルは離れて、私は震える声を抑えて話しかけた。
「あ、の、ご注文、は…」
「の前にさ~メニュー表持って来てよ~」
「あ~俺炭酸水~」
「何それお前、狙って言ってる?」
「シャレオツっしょ?」
ぎゃはは、と笑い声が溢れたが、私はパニックで笑えなかった。
メニュー表など、ここのお店にあっただろうか。思えば一度も見たことが無い。私は雅さんのオススメや過去に頼んだものを選んでいるし、山本さんは毎回昆布茶だからメニューなど見なくてもいいし。
それなりに淹れ方を教えてもらっていると言っても、簡単なものだけだから全メニューなど覚えているはずも無かった。
それに、炭酸水は…、あっただろうか……。
固まる私に、笑い終えた男子が目を向ける。
「おい、突っ立ってないでメニュー表持って来いよ」
「てか可愛くねこの子」
「はぁ? お前ロリコン? 女はやっぱ胸っしょ~」
「ねぇ君いくつ? ここ閉めてさ、俺らと遊ばねぇ?」
「店員をナンパとか、ウケる!」
ニヤニヤと、下卑た笑みと視線が突き刺さる。
体が震える。バクバクと心臓が悲鳴を上げる。ひくりと喉が引きつったように動き…、
「ここの店、メニュー表ねぇよ」
ずっと奥の席で黙っていた男の子が、声を上げた。
ワックスで固められただろう黒髪は綺麗に整えられていて、つまらなそうに彼は頬杖をついていた。勝ち気そうな吊り目が私を睨む。
びくりと体を震わせた私を彼は睥睨した。
「てかお前さ、なんか喋ったらどう? ずっと黙ってばっかで気色悪ぃ」
「っ……」
「反論も出来ねぇの? てか雅は?」
雅。その言葉には反応出来た。
「雅さん、は、今、出掛けていて…」
「ふ~ん、てかお前、誰よ? ここの店員? いつから働いてんの?」
「……二週間、位前、から、です…」
糾弾するような鋭い声に、視線は下がり声は小さくなる一方だった。そんな私を見てか、舌打ちするのが聞こえた。
「雅もこんな使えない奴入れて。本当にあいつお人好しだな」
「な~空、雅って?」
「ここのオーナー。いっつもアホみたくヘラヘラ笑ってる。お前さ、接客出来ねぇんだったら辞めたら? お前みたいな使えない奴いて、雅もいい迷惑だよ」
その鋭い言葉に、とうとう私の目に涙が溢れた。駄目だ、ここで泣いちゃあ駄目だ。雅さんの留守を頼まれているのだからと自分を鼓舞して視線を上げる。
周りが『そこまで言わなくても…』という雰囲気になっているとは気づかなかった。
「…あ、の。ご注文を、どうぞ…」
ほとんど消えかかった言葉だが、伝わったらしく『へぇ…?』という冷めた声が響く。
「じゃあ、コンビニ行って4人分コーラ買ってこい。5分以内に帰って来なかったらお前の自腹な」
「っ……」
ここは、『かしこまりました』と言った方がいいのだろうか。
冷たい視線が突き刺さる。男の人。集団。怖い。怖い。雅さん、助けて。と甘えたくなる自分を、震える体を叱咤する。
「かしこ、まりま…「それくらいにしてもらえるかな」」
ぎゅ、と、肩に腕を回された。
いきなりの人肌にびくりと震えたが、すぐ近くで聞こえた聞き覚えのある声に、じわじわと涙が溢れた。
「雅、さん…!!」
「遅くなっちゃってごめんね」
走ってきたのだろうか、若干息が上がっている。急いで来てくれたんだと分かって、嬉しくなった。
「空也、瀬奈ちゃんを何で虐めるのか分からないけど、今日は帰って貰おうかな」
有無を言わさぬ声に分が悪いと感じたのか、男の子たちは渋々と席から離れる。
最後、空也、と言われた、散々文句を言ってきた子はギロリと私を睨んで、一番最後に出て行った。
「瀬奈ちゃん、ごめんね…」
「い、いえ……」
へなへなと崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。
怖かった。死ぬほど、彼らが怖かった。
ふるふると震える私の頭を、雅さんが撫でる。
「お留守番、頑張ってくれたね。ありがとう瀬奈ちゃん。よく頑張ったね」
止めて、と思った。こんなちっぽけな事しか出来なかったのに褒めないで欲しいという気持ちと、恐怖しながらも彼らを対応した私を褒めてくれて嬉しいという気持ちが羽交い混ぜになり、じわじわと涙が溢れ出てしまう。
人前で泣くなんて情けないと必死に堪えるが、やがてポロポロと涙が頬を伝った。
「ご、ごめんなさ……」
「いいんだよ。瀬奈ちゃんは、よく頑張ったから、泣いていいよ」
そう言って撫でてくれる雅さんの手が凄く優しくて、暖かくて。私はしばらくの間涙を流し続けた。




