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02

 鈴音が住むマンションに到着したのは、日付が変わる少し前だった。四月も半ばが近いというのに、夜風はまだ冷たい。車から降りた蒼は身震いした。今は肩を貸してくれている鈴音の体温だけが救いに思える。

 二人でエントランスを抜け、エレベーターで五階まで上がる。オートロックの扉に監視カメラ、静かな廊下。建物の中は清潔で、外の喧騒が嘘のように遠かった。


「ここ」


 廊下に並ぶドア、その一番奥の前で足を止め、鈴音はスーツの内ポケットから鍵を取り出す。それを鍵穴に差し込み、暗証番号を押す。何かを確認するようにドアノブを引いてから、玄関の扉を開いた。


「……お邪魔します」

「どうぞ。靴、そこに置いといて」


 鈴音は先に中へ入り、玄関の照明をつけた。暗かった空間がぱっと明るくなる。

 白い壁にグレージュの床、作り付けのシューズボックス。その上には鍵を置くトレイがあるだけで、余計な装飾はない。必要なものを使いやすい場所に収めた、簡潔な空間だった。たたきにも目立った汚れはない。

 蒼は靴を脱ぎながら、思わず足元を見た。泥と埃にまみれたそれが、場違いなほど目立っている。


「……あの、すみません。汚してしまって」

「気にしなくていいよ。俺も汚すときあるし」


 鈴音はあっさり答え、恐縮する蒼を一瞥した。

 玄関の明かりに照らされると、蒼の状態は車内で見た時以上にひどかった。顔には殴られた跡だけでなく切り傷もあり、髪にも汚れが残っている。シャツもチノパンもよれていた。長いことまともな生活を送れていなかったのだろう。本人は気づいていないのかもしれないが、近くにいると臭いも気になった。

 鈴音はわずかに眉を寄せた。嫌悪というより、まず何から手をつけるべきか考えているような顔だった。


「……手を洗って、先に飯にしようか」

「え?」

「腹減ってるでしょ」

「い、いえ。俺は……」

「洗面所、そこ」


 鈴音は蒼の返事を待たず、洗面所を指し示した。蒼が手を洗い終えたのを確認すると、そのまま奥へ案内する。

 リビングとダイニングが一続きになった部屋だった。三人掛けのソファとローテーブル、テレビ。飾り棚には小さな置物や本が並び、部屋の隅にはルームランプが置かれている。ウォールナットの家具にブルーグレーのクッションがよく馴染み、全体に落ち着いた雰囲気。

 ダイニングには二人掛けのテーブルと椅子があり、その奥にはペニンシュラ型のキッチンが続いている。食器棚も冷蔵庫も整然としていて、必要なものが使いやすい位置に収められている。華美ではないが、センスのいい部屋だった。ひとりで住むには十分すぎるほどの部屋だった。

 その室内の様子に、蒼は椅子に座ることさえためらい、入り口近くで立ち尽くす。


「……あの」

「ん?」

 キッチンへ向かいかけた鈴音が振り返る。気だるげな目元には眠たそうな雰囲気があったが、こちらを見つめる黒い瞳は思いのほか色が深く、蒼は反射的に背筋を伸ばした。


「ここ、本当に……あなたの家なんですか?」

「そうだけど」

「……すごいですね」


 思わず口をついて出た言葉だった。蒼が暮らしていた部屋とは何もかも違う。広さも清潔さも家具の質も、そして何より、誰かに怒鳴られたり、突然扉を開けられたりする心配のない静かな場所など、ずいぶん長い間縁がなかった。

 鈴音はそんな蒼の様子を見て、軽く肩をすくめる。


「普通のマンションだよ。ほら、そこ座って」

「でも……」

「座って、長く立ってられる状態じゃないでしょ」


 そう言って、鈴音は椅子を軽く引いた。有無を言わせない口調だったが、乱暴に扱うわけではない。その動作があまりに自然だったため、蒼は戸惑いながらも腰を下ろした。それでも緊張は解けず、身体は強張ったままだ。汚してしまわないか気になり、背もたれにも寄りかかれない。鈴音はそれ以上何も言わず、キッチンへ入った。

 夕食には遅すぎる時間だが、何も食べずに風呂へ入れれば、かえって身体に負担がかかりそうだった。いきなり脂っこいものや大量の食事を与えるのも避けたい。帰り道で買っておいたテイクアウトのうどんを取り出し温めると、出汁の香りがふわりとダイニングにまで広がる。


「はい、どうぞ」


 テーブルに器と割り箸を置かれた。湯気の立つうどんを、蒼はしばらく見つめていた。


「……うどん?」

「うどん、食べられるよね?」

「は、はい。でも……」

「でも?」


 口ごもるのに鈴音が片眉を上げる。蒼はその様子を見て、身を縮こませながらためらった末に尋ねた。


「俺、本当にいただいていいんですか」


 鈴音は一瞬、その言葉に無言になる。


「……山田さん」

「はい」

「食事を出すたびに許可を取るつもり?」

「えっ」

「これから働いてもらうんだから、食べてもらわないと困るんだけど。倒れられたら、こっちの仕事が増えるし」


 言い方はそっけなかったが、声のトーンは強くはない。鈴音は向かいの椅子に腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。それを見て、ようやく蒼も器に手を伸ばす。


「……いただきます」


 割り箸を持つ手がわずかに震えていた。うどんを少しずつ口に運ぶ。温かい出汁が喉を通り、冷え切った身体の内側へ染み込んでいった。空腹を感じる余裕さえなくなっていたが、一口食べると、自分がどれほど腹を空かせていたのかがわかる。それでも、急いで食べることはできなかった。胃が縮こまってしまったようで、少しずつ口に運ぶのが精いっぱいだった。

 鈴音はスマートフォンで何かを確認しながら待っていた。食べる様子をじっと見つめることも、急かすこともしない。


「……おいしいです」


 ぽつりと蒼が言った。


「そりゃよかった」


 鈴音は画面から目を上げずに答える。特別なうどんではない。帰り道で買った、ごく普通のテイクアウトだ。それでも蒼にとっては、久しぶりに誰かが自分のために用意してくれた食事だった。泣きそうになりながら少しずつ食べ、器が空になるまでずいぶん時間がかかった。


「ごちそうさまでした」


蒼が手を合わせて箸を置くと、鈴音はスマートフォンをしまい、顔を上げる。


「食べられたね」

「……はい」

「じゃ、次」


 そう言って鈴音は立ち上がった。


「風呂」

「え?」

「風呂、入って」

「い、いえ、俺は後で……」

「後でっていつ?」


 鈴音は蒼を見下ろした。表情は穏やかだが、その声には有無を言わせないものがある。断られるとは思っていないらしい。


「その格好で寝かせるわけにもいかないでしょ。あと、正直に言うと、かなり臭う」

「……っ!」


 蒼の顔が一気に赤くなった。慌てて自分の服を見下ろし、袖口を鼻に近づける。確かに、汗と埃、それに何日も洗っていない衣服特有の臭いがした。


「す、すみません!」

「だから謝らなくていいって。ほら、こっち」


 呆れたように息を吐きながらも、鈴音は蒼を立たせ、廊下へ案内した。

 浴室は広く、洗面所もきれいに整えられていた。白を基調とした空間に必要なものだけが揃い、洗面台の横には畳んだタオル、棚にはシャンプーやボディソープが並んでいる。


「タオルはこれ使って。シャンプーとボディソープの量とか気にしないで、しっかり洗って」

「は、はい」

「あと、これ」


 鈴音はウォークインクローゼットから持ってきた衣類を、洗面所の棚に置いた。替えの下着とパーカー、スウェットパンツ。どれも鈴音のものだが、蒼が着るには十分な余裕がある。


「風呂から出たら、それ着て」

「……借りていいんですか?」

「他に着るものある?」


 蒼は黙って首を横に振った。


「じゃ、決まり。汚れた服はそこの袋に入れといて。洗ってどうにかするより、捨てた方が早そうだし」


 鈴音は洗面所の隅に、衣類と一緒に持ってきたゴミ袋を広げる。

 蒼は自分の服を見つめた。監禁されたときに着ていた服。今の自分に残っているものはこれしかない。そのわずかなものまで捨てることに抵抗はあったが、ほかにどうしようもなかった。蒼はゆっくりと頷き、別れを惜しむように汚れた服を脱いで袋に入れた。


「じゃ、ゆっくり入って。のぼせない程度にね」


 鈴音が洗面所を出ると、しばらくして浴室からシャワーの音が聞こえ始めた。

 リビングに戻った鈴音はソファに腰を下ろし、スマートフォンで明日の予定を確認する。午前中は特に急ぎの仕事もない。いつものハウスキーパーが来るのは十一時だ。それまでに蒼を落ち着かせ、最低限の説明をしておけばいい。そう考えて、鈴音はふと手を止める。


――さて、どこまで話すかな。


 蒼に便利屋の仕事を詳しく説明する必要はない。少なくとも、今すぐには。まずは食べて、眠って、まともに動けるようになってもらう。それから先のことは、様子を見て決めればいい。

 さっき服を脱いだ時に見たが、蒼は痩せていて、身体もだいぶ痛めつけられていた。打撲の跡や切り傷がいたるところに残っている。応急手当が必要かもしれない。

 鈴音はスマートフォンを置き、背もたれに身体を預けた。そうして考えているうちに、浴室のシャワーの音が止まった。


「あの……」


 少しして、遠慮がちな声が聞こえた。鈴音が顔を向けると、洗面所の扉からタオルを首にかけた蒼が顔を覗かせていた。

 借りたパーカーとスウェットパンツは、少々大きい。だいぶダボついているものの、顔や首筋はすっかりきれいになり、肌についた埃も落ちていた。ただ、焦げ茶色の髪だけは相変わらず伸び放題だった。濡れた髪をタオルで拭いたせいか、あちこちに跳ねている。きちんと切って整えれば印象も変わりそうだが、今はそこまで手を回す必要もないだろう。


「どうした?」

「……服、ありがとうございます」

「髪、ちゃんと乾かしてね。風邪ひくから」

「はい」

「ドライヤーは洗面台の下」


 蒼は慌てて頷き、洗面所へ戻った。鈴音はその背中を見送り、小さく息を吐く。

 素直なのはいいが、何をするにもこちらの顔色を窺っている。今までどんな扱いを受けていたのかは知らないが、慣れるまでには時間がかかりそうだ。

 髪を乾かし終えた蒼が戻ってきた際に、鈴音は着ていた服を問答無用でめくって、身体の傷をよく見せてもらい、治りきっていない傷には傷薬と絆創膏、打撲には湿布を貼って応急処置を施す。その後、家の中を案内することになった。


「ここがリビング、さっきも見たね。あっちがキッチン」


 ペニンシュラ型のカウンターの向こうには、冷蔵庫やオーブンレンジ、炊飯器、コーヒーメーカー、ケトルが並んでいる。調理器具や食器は種類ごとに収納され、必要なものをすぐ取り出せるよう整理されていた。


「冷蔵庫の中は、飲み物なら自由に取っていいよ。心配なら聞いて」

「……はい」


 着替えた蒼は、まだ足取りこそおぼつかないものの、先ほどより落ち着いて見える。顔色は悪く、痩せた頬や目の下の隈も残っている。それでも、怯えた目で周囲を窺う様子は幾分薄れていた。


「洗濯機はさっき入った脱衣所の中、乾燥までできるから、洗濯物を入れてボタンを押せば大体終わる。細かい使い方は、明日田所さんに聞いてもいい」

「田所さん……?」

「今、家事を頼んでる人。明日来るから、紹介するよ」


 次に、玄関に近い方にある部屋の扉をひとつ開ける。


「こっちは作業部屋。俺が仕事で使う場所だから、勝手に入らないでね」


 部屋にはデスクとパソコン、プリンター、収納棚が置かれていた。棚には細かな工具や道具が整然と収められ、作業台には銀細工に使う器具が並んでいる。金属を加工するための道具は、素人の蒼には用途のわからないものが多い。


「あれは何のための道具なんですか?」


 蒼が思わず尋ねると、鈴音は少しだけ目を細くする。


「ああ、シルバーアクセサリー作ってるの。趣味も兼ねてね」

「そうなんですか……」

「ここは触らないこと。危ないものもあるし、仕事の資料も置いてあるから」

「わかりました」


 鈴音は念を押すように蒼の顔を見た。蒼は真剣に頷く。


「で、こっちが寝室」


 リビングの隣になっている部屋の扉を開けると、ダブルベッドとサイドテーブル、ルームランプが置かれていた。クローゼットの扉は閉じられ、室内は落ち着いた色合いでまとめられている。余計なものが少なく、寝るための部屋という印象だ。


「寝室は…ベッドの半分を使っていいよ」

「……え?」


 その言葉に蒼は言葉を失う。


「え、じゃなくて。さすがにその身体でソファで寝かせるのもどうかと思うし」

「で、でも、そんな……」


 鈴音はベッドの端に手を置き、蒼の反応を眺めた。整った顔には、相変わらず気だるげな表情が浮かんでいる。


「俺は隣で寝るし、気になるなら端に寄ってくれていいよ」

「いえ、そういうことでは……!」


 蒼は慌てて両手を振った。耳まで赤くなっている。その反応を見て、鈴音は少しだけ笑った。


「冗談。俺はソファでも寝られるし、今日はそっちで寝るよ。あんたはベッドを使って」

「そんな、申し訳ないです」

「山田さん」

「は、はい」

「今夜は寝る、それが仕事」


 蒼はぽかんとした。


「……仕事?」

「そう、食べて、風呂に入って寝る。明日から家事を覚えてもらうんだから、体調を戻しておいて」


 鈴音はそう言って、ベッドの掛け布団を整える。


「枕元に充電器があるけど、スマホ持ってないんだっけ?」

「……はい、もう手元には」

「じゃ、気にしなくていいね。何かあったらリビングにいるから」


 蒼はベッドの前に立ち、しばらく動けずにいた。ふかふかの布団に清潔なシーツ、静かな部屋。どれも、今の自分が使っていいものとは思えない。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして、じゃ、おやすみ」


 茫然とする中、鈴音はあっさりと寝室を出た。

 扉が閉まると、蒼はゆっくりベッドの端に腰を下ろす。程よい硬さのマットレスが、身体を受け止める感触に、張り詰めていた何かが少しずつ緩んでいく。長い息を吐きながら、借りたパーカーの袖を握りしめ俯いた。

 今夜、自分は死ぬのだと思っていた。それなのに、温かいうどんを食べ、風呂に入り、服を着せてもらい、ベッドまで貸してもらっている。何が起きているのか、まだよくわからない。ただ、今は眠っていいらしい。

 蒼は布団に潜り込んだ。身体が温まっていたせいか、眠気はすぐにやってきた。久しぶりに、誰かに怒鳴られることを心配しなくていい夜だった。


/*/


 翌朝。カーテンの隙間から、四月の柔らかな日差しが差し込んでいた。

 蒼が目を覚ました時、最初に感じたのは身体の痛みだった。今まで感覚が麻痺していたのか、あちこちにある傷や打撲がずきずきと痛む。それでも、床の冷たさや硬い椅子で眠った時の疲労とはまるで違った。

 一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。見慣れない天井、清潔なシーツ、大きなベッド。昨夜の出来事が、ゆっくりと頭の中に戻ってくる。


「……あ」


 しばらくぼんやりしていた蒼は、慌ててベッドから降りた。借りたパーカーとスウェットパンツは、寝ている間に少し捩れていた。袖を引っ張って整えていると、部屋の外からかすかな物音が聞こえてくる。恐る恐る寝室の扉を開けると、キッチンに人影が見えた。


「起きた?」


 鈴音が振り返る。朝日が差し込む明るい室内で、蒼はようやくまともに彼の姿を見て、硬直した。

 昨夜はスーツ姿だったが、今はパーカーにスウェットパンツというラフな格好。それでも、長身で肩幅のある体格や、均整の取れたスタイルのよさは隠しようがない。そして何より、顔がいい。昨夜は恐怖と混乱で気に留める余裕などなかったが、明るい場所で改めて見ると、蒼は思わず言葉を失った。

 ツーブロックにスパイラルパーマをかけた黒い髪。切れ長の目に、深い黒の瞳。通った鼻筋と形のいい唇。気だるげな表情さえ妙に様になっていて、まるで雑誌から抜け出してきたような顔立ちだった。


――こんな人間が、世の中には実在するのか。


 立っているだけで妙に目を引く、パーカーにスウェット姿なのに、妙な色気まである。蒼は内心で慄いた。いや、顔がよすぎる。何度見てもそう思う。

 こんな男が普通に街を歩いていたら、誰だって振り返るのではないだろうか。昨夜、自分を助けてくれた時は、それどころではなかった。今になって、ようやくその事実を認識したのだった。


「……何?」


 鈴音が不思議そうに眉を上げる。


「い、いえっ。何でもありません!」


 蒼は勢いよく首を横に振った。伸びた焦げ茶色の髪が、その動きに合わせて揺れる。


「そう?」


 鈴音はそれ以上追及せず、キッチンのカウンターに置いてあった皿を手に取る。


「とりあえず、朝飯。座って」

「あ、はい」


 蒼は慌ててダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。目の前に置かれたのは、トーストと温めた牛乳だった。昨夜のうどんに続き、胃に負担がかからないようにと考えてくれたのだろう。そんなことまで気にかけてもらえるとは思わず、蒼は皿を見つめた。


「食べられそう?」

「はい、ありがとうございます」

「なら、食べながら聞いて」


 鈴音は向かいの椅子に座り、自分のコーヒーを一口飲んだ。カップをテーブルに置くと、蒼に視線を向ける。


「改めて自己紹介しとく、俺は佐々木鈴音、二十八歳。仕事は便利屋みたいなもん。探し物から掃除、ちょっと面倒な案件まで、依頼があれば大体引き受ける」

「えっ、年下……いや、その、便利屋、ですか?」


 年齢を聞いて年下なのかと思いつつ、蒼はトーストを持ったまま首を傾げた。昨夜のことを考えると、単に探し物や掃除をするだけの仕事とは思えない。とはいえ、鈴音の口調はあまりにも自然で、詳しく尋ねるのもためらわれた。


「そう、まあ、仕事の内容はあんまり気にしなくていいよ。あんたに頼むつもりなのは家事だから」


 鈴音は特に説明を加えず、コーヒーをもう一口飲んだ。


「で、あんたは山田蒼、三十五歳。家も仕事もなくて、借金の問題も抱えてる。昨夜聞いた話だと、こんなところかな」

「……はい」


 自分の状況を改めて並べられると、蒼は何とも言えない気分になった。三十五にもなって、住む場所も仕事もない。おまけに他人の借金まで背負い、最後には知らない年下の男に拾われている。それが現状だった。


「あれから、借金取りのパソコンから抜いたデータを見てみたんだけど」


 鈴音は何気ない調子で話を続けた。


「残った借金は四百万円強。利子のせいで、ほとんど返せてなかったんだね。これは昨日言った通り、俺が肩代わりする」

「ありがとうございますっ!」


 蒼は勢いよく頭を下げた。涙ぐみ、今にも土下座しそうな勢いだった。鈴音はその様子に、わずかに眉を上げる。


「いや、まだ話は終わってないよ」

「あっ、すみません!」

「ほら、また」


 蒼ははっとして口を閉じた。鈴音は呆れたように息を吐いたものの、責める様子はない。指先でカップの取っ手に触れながら、淡々と続けた。


「データの中で、『身寄りなし、借金の取り立てで周りから孤立させろ』って備考があったんだよね。『首が回らなくなったら臓器か身体を売らせて返済させる』とも書いてあったけど」


 その言葉に、蒼の顔から血の気が引いた。鈴音の口調は変わらない。だからこそ、内容がひどく生々しく聞こえた。


「身体、もう売っちゃってた?」

「………はい……何回か……」


 蒼は苦々しい気持ちで答え、視線を皿に落とした。こうして聞くと、我ながらひどい有様だ。毎日家に押しかけられ、暴力も振るわれ、泣く泣く身まで売った。それでも返済できず、今度は臓器を売られそうになっていた。情けない。悔しい。トーストを持つ手が震えた。


「そんなに深刻な顔しなくていいよ、まあ、災難だったね」


 鈴音は淡々と返し、コーヒーを飲み切った。


「性質の悪い借金取りに捕まって身を崩した典型だね、俺が見つけてよかったよ。何度も言うけど、体がボロボロだから、まずは食べて寝て、まともに動けるようになること。で、家事を覚えて、生活を立て直す。順番にやればいい」


「……はい」


 蒼は小さく頷いた。昨夜から、鈴音は何度も同じことを言っている。食べること、寝ること、身体を休めること。それから先の話は、それができてからだと。そんなふうに先のことまで考えてくれる人間がいる。その事実が、まだうまく飲み込めなかった。


「それと、俺のことは鈴音でいいよ。雇い主だからって、変に畏まらなくていい」

「いえ、でも……」


 口ごもりながら、向かいに座る男をまじまじと見た。昨夜のような血なまぐさい現場にいた人間とは思えないほど、朝の光の中では落ち着いた雰囲気をまとっている。話し方は気だるげだがその声は心地よい、ただし、言っていることは驚くほど現実的だったが。

 蒼は口に入っていたトーストを飲み込むと、顔を上げて背筋を伸ばした。


「……鈴音さん、と呼ばせてください」

「別にいいけど」


 鈴音は気にした様子もなく頷いた。


「好きに呼んで、じゃあ……俺も蒼さんって呼ぶ」

「ありがとうございます」

「あと、それ」

「え?」


 鈴音は空のカップを持ち上げかけた手を止め、蒼を見る。


「礼を言うのはいいけど、何でもかんでも謝ったり、恐縮したりしなくていいから。癖になってるでしょ」


 蒼は口を閉じた。図星だった。数か月、謝る言葉ばかり口にしていた。それがいつの間にか身に染みついていることを、改めて実感する。


「……気をつけます」

「うん」


 それで話を切り上げ、鈴音は立ち上がってコーヒーカップを流しに置いた。


「さて、そろそろうちのハウスキーパーが来る時間だな」

「ハウスキーパーさん、ですか?」


 蒼ははっと顔を上げる。昨夜、家の中を案内された時に聞いた「田所」という名前を思い出す。


「田所さんって人。今月末まで来てもらう契約になってる。二年世話になったんだけど、六十五歳で引退することになってね」


 鈴音は立ったまま腕を組み、少し考えるように視線を上げてから微笑んだ。


「だから、あんたには田所さんから家事を教わってほしい。掃除も洗濯も料理も、できることを増やしてもらう。いきなり全部任せるわけじゃないから、心配しなくていい」

「……俺に、務まるでしょうか」


 蒼は不安そうに眉尻を下げた。食事を取り、清潔な服に着替えたことで、昨夜よりはずっと身体が楽になった。それでも、これから先の生活については何もわからない。自分が役に立てるのか、ここに置いてもらえるのか。その不安は消えていなかった。


「もう採用決めちゃったし、できるかどうかじゃなくて、覚えてね」


 鈴音はあっさりと言い切った。あまりにも簡単に言われて、蒼は目を瞬かせる。

 昨夜からずっと、自分は何かを失うことばかり考えていた。家も仕事も金も、これからの人生も。何をしてももう駄目だと思い込んでいた。けれど、この男は違う。必要なことだけを言葉にし、次にやることまで決めている。こちらが自分の人生をどうにもできなくなっている間に、次の段取りを整えてしまうのだ。それがありがたいのか、恐ろしいのか、蒼にはまだ判断がつかない。


「……わかりました。よろしくお願いします」


 「はい、よろしく」


 鈴音は軽く答え、空になった蒼の皿に目を向けた。


「もう一枚食べる?」

「い、いえ。大丈夫です」

「そう、じゃあ食べ終わったら皿を洗ってね。田所さんが来たら紹介するから」

「はい」


 蒼は少し戸惑いながらも、言われたとおりに皿をシンクへ運んだ。水を出してスポンジを手に取る。今の自分にも、できることがある。その事実が、昨夜よりも少しだけ現実味を帯びて感じられた。蒼はそっと顔を引き締めた。


/*/


――午前十一時。


 玄関のチャイムが鳴った。


「来たね」


 鈴音はリビングのソファから立ち上がり、玄関へ向かう。蒼も慌てて後を追った。扉を開けると、大きなバッグを持った女性が立っていた。

 白髪交じりの髪にはきれいにパーマがかけられ、丸顔には年相応の皺が刻まれている。くりっとした目は明るく、ふくよかな体つきながら背筋はすっと伸びていた。オレンジと白を基調にしたハウスキーパー派遣会社の制服は清潔感があり、手にしたバッグには業務用の掃除道具が詰まっている。女性は鈴音を見ると、にこりと笑う。


「おはようございます、鈴ちゃん。今日もいいお天気ねえ」

「おはよう、田所さん。相変わらず元気だね」


 鈴音は軽く片手を上げ微笑む。長い付き合いの相手らしく、普段より少し気安い口調だった。


「そりゃあねえ、でも最近足腰が痛むのよ、年ねえ」

「無理しないでよ、あと半月で引退なんだから」

「あら、鈴ちゃんに心配されるなんてねえ」


 田所愛子、六十五歳。鈴音が今のマンションに越してきた時から、二年契約で家事を任せているハウスキーパー。三日ごとに訪問し、午前十一時から午後二時までの間に掃除と夕食用の総菜作りをこなしている。洗濯は乾燥機付きの洗濯機があるため、鈴音自身が済ませていた。

 長い付き合いだけあって、田所は鈴音の生活習慣もよく知っている。仕事の内容について深く尋ねることはないし、依頼主の秘密を外に漏らすこともない。そして何より、鈴音が時折、困った人間を拾ってくる性分であることも承知している。


「……あら?」


 田所の視線が、鈴音の後ろに立つ蒼へ向いた。蒼は慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。


「は、初めまして。山田蒼です」


 昨夜の汚れた服は捨て、今は鈴音のパーカーとスウェットパンツを着ている。顔や手はきれいになったものの、伸びた焦げ茶色の髪はまだ整えられておらず、額や耳の周りに無造作にかかっていた。殴られた跡や目の下の隈も残っている。ただ、昨夜のように怯えて身体を縮めることはなくなり、緊張しながらも、相手の顔を見て挨拶する程度の余裕は戻っていた。


「まあまあ、新しい方?」


 田所は蒼の顔を見てから、鈴音へ視線を戻した。大きく驚くでもなく、事情を問い詰めるでもない。蒼の着ている服が鈴音のものであることや、まだどこか落ち着かない様子から、おおよその事情を察したようだ。


「田所さん、ちょっと話があるんだけど、いい?」

「ええ、もちろん。中でお話ししましょうか」


 三人はリビングへ移動した。

 田所はバッグを邪魔にならない場所に置き、ソファに腰を下ろす。鈴音は蒼にも座るよう促し、自分はダイニングから椅子を持ってきて座る。蒼は一瞬ためらったものの、今度は素直にソファへ腰を下ろした。昨日なら、座るように言われても何度も遠慮していただろう。ほんの少しだが、相手の言葉をそのまま受け取れるようになっていた。


「実はね、この人、山田蒼さんを昨日引き取ったんだ」


 鈴音がそう切り出すと、田所は「あら」と短く声を上げる。


「事情はいろいろあるんだけど、今はうちで住み込みで働いてもらうことにした。まずは生活を立て直してもらう感じ」


 蒼は膝の上で両手を握りしめた。自分のことを話されるのは落ち着かないが、口を挟むこともできず、頭を下げる。


「それで、田所さんにお願いがあるんだ」

「はいはい、何かしら?」


 田所は明るい声で答えた。鈴音がこうして改まって頼み事をする時には、それなりの事情があると知っている。


「今月末で契約が終わるでしょ、引退するまでの間に、蒼さんに家事を教えてほしいんだ。掃除の仕方とか、総菜の作り方とか。今まで俺がやってた洗濯とその片づけも」


 鈴音はやって欲しいことを簡潔に説明する。必要なことを伝え、相手の判断を待つ。仕事の依頼をする時と変わらない話し方だった。

 田所は蒼を一度見てから、鈴音へ視線を移す。


「なるほどねえ、私の後を任せる方、というわけね」

「そういうこと、もちろんいきなり全部できるとは思ってないよ。田所さんが引退するまでに、少しずつ覚えていってもらうつもりだから」

「ええ、わかりました」


 田所はあっさりと頷いた。


「鈴ちゃんがそう決めたのなら、私は教えるだけよ。家事はね、慣れれば誰でもできるようになるもの。ただ、やり方を知らないまま自己流で進めると、かえって時間がかかることもあるからね」

「田所さんならそう言ってくれると思っていたよ、助かる」


 そう言いながら目元を緩ませ、鈴音は小さく息を吐いた。どうやら、引き受けてもらえることは最初から見込んでいたらしい。


「それにしても、鈴ちゃんも相変わらずねえ」


 田所は楽しそうに目を細める。


「困った人を見ると、放っておけないんだから。ここに来て何人目かしらね」

「……別に、そういうんじゃないよ」


 鈴音は視線を逸らし、肩をすくめた。


「はいはい、そういうことにしておきましょうね」


 田所は慣れた様子で笑う。反論しても意味がないとわかっているらしく、鈴音もそれ以上は何も言わなかった。

 そうして、田所は改めて蒼の方を向いた。


「山田さん、だったわね。私は田所愛子。鈴ちゃんのお宅で、掃除とお料理のお手伝いをしているの。今日から少しずつ、家のことを覚えていきましょうね」

「よ、よろしくお願いします。」


 蒼は勢いよく頭を下げ、田所はそんな彼を見て、柔らかく笑う。


「そんなにかしこまらなくて大丈夫よ、わからないことは聞いてくれればいいんだから。最初から上手にできる人なんていないもの」

「……ありがとうございます」

「それにね、家事は力仕事だけじゃないのよ。どこを先に片づけるか、どこに何をしまうか、どうすれば毎日きれいな状態を保てるか。そういう工夫も大事なの。山田さんは、焦らずひとつずつ覚えればいいわ」


 田所の声には、長年仕事をしてきた人ならではの落ち着きがあった。何かを教えることにも慣れているのだろう。蒼が答えるまで急かさず、穏やかに次の言葉を待ってくれる。蒼はその言葉に何度も頷いた。

 昨夜からずっと、自分は役に立たなければならないと思っていた。食事を出してもらったことも、服を借りたことも、ベッドで眠らせてもらったことも、すべて返さなければならない。そう考えると、何ひとつ無駄にできない気がしていた。けれど、田所の言葉は少し違っていた。最初から完璧でなくてもいい。知らないことは、教えてもらえばいい。それだけのことが、今の蒼にはひどくありがたかった。


「じゃあ、田所さん。今日はまず、家の中を一緒に見てもらってもいいかな。どこに何があるか、蒼さんにも覚えてもらいたい」

「ええ、いいですよ。では山田さん、まずは道具の場所から覚えましょうか」

「はい」


 田所はバッグから掃除用の道具を取り出し、明るい声で説明を始める。掃除機の使い方、床材に合った拭き掃除の方法、洗剤の種類と使い分け。蒼は教えられたことをひとつずつ聞き、頭に入れようとした。

 田所は仕事に誇りを持っていた。単に部屋をきれいにするだけではなく、住む人が気持ちよく暮らせる状態を整える。それが自分の仕事だと考えている。だからこそ、手順も道具の扱いも丁寧に教えた。蒼がわからない様子を見せれば、言い方を変えて説明する。できたことはきちんと褒め、間違えた時も、何がよくなかったのかを落ち着いて伝えた。


「そうそう、そこは力を入れすぎなくていいのよ。床を傷めてしまうからね」


 そう言って手元を指し示す。蒼は教えられたとおりに力加減を変え、慎重に床を拭いた。


「こう、ですか?」

「そう、上手よ。最初にしては十分ね」


 褒められた蒼は、少し困ったように笑う。昨夜のような張り詰めた様子は薄れ、口元には柔らかさが戻っている。目の下の隈は濃く、伸び放題の髪も相変わらずだったが、表情は少しずつ和らいでいた。

 鈴音は少し離れたところから、その様子を眺めていた。昨夜は何を聞いても謝ってばかりだった男が、今は田所の説明に真剣に耳を傾けている。まだ緊張は抜けきっていないが、少なくとも、ただ怯えているだけではなくなっていた。


――笑うと、妙に愛嬌のある顔をするなあ。


 そんなことを考えながら、鈴音は小さく肩をすくめる。


――まあ、何とかなるかな。


 蒼を拾ったのは、確かに気まぐれだった。自分でも、どうしてそうしたのか明確な理由はない。ただ、あのまま置いて帰る気にはなれなかった。後付けで、殺害現場を見られているからとも言った。けれど、拾った以上は放り出すつもりもない。

 田所が引退するまで、あと半月ほど。蒼が一通りの家事を覚えるには短い期間かもしれない。それでも、生活を始めるための足場くらいは作れるだろう。元の暮らしには戻れないかもしれないが、いずれは社会復帰もできるはずだ。


 リビングには、田所の明るい声と蒼の控えめな返事が響いている。静かだった一人の部屋に、一時的であったとしても、少しの賑やかさが戻ったのだった。

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