01
仕事は滞りなく終わった。佐々木鈴音は頭から血を流して床に倒れた男を一瞥すると、左手で黒い革手袋の履き口を引っ張った。鉄パイプを握る手袋に目立った汚れはなく、指先までぴたりと手に馴染んでいる。
殺した相手は闇金業者だった。表向きは小さな金融会社の社長だが、裏では法外な利息を吹っかけ、返済できなくなった人間を脅して金をむしり取っていた男だ。
今回の依頼は、そいつを始末し借金の証文と管理データ、債務者から押収した物を回収すること。とはいえ、管理元が闇金から別のヤクザに変わるだけで、借金を背負った側の境遇が大きく改善するわけではない。もっとも、それは鈴音の関与するところではなかった。
依頼人から渡された情報に間違いはなく、報酬の割に仕事も難しくなかった。後始末まで含めて、いつもの業務のひとつにすぎない。
「さて、と」
腕時計で時間を確認し、鈴音は小さく息を吐いた。
黒いシャツにダークグレーのスーツ。身なりに乱れはなく、控えめなシルバーのアクセサリーが鈍く光っている。身長は百八十センチ。ジャケット越しにもわかる、無駄のない引き締まった体つきだった。
黒く深い瞳に、すっと通った鼻筋と形のよい唇。整った顔立ちは、黙っていれば近寄りがたいほど端正だ。けれど、表情にはどこか気の抜けたような余裕がある。
どこにでもいそうな会社員と言い張るには、顔もスタイルも少々造りがよすぎる。もっとも、こんな場所でそんなことを気にする人間は、今のところいないだろう。そして、役目を失った監視カメラにも映像は残らない。
——必要なものは回収した。あとは火をつけて帰るだけ。
そう思って部屋を見渡した時だった。壁際に積まれた段ボール箱の陰に、何かがある。最初は脱ぎ捨てられた衣類かと思った。だが、よく見ると違った。人間だ。
「…………」
鈴音は足を止めた。薄汚れたシャツにくたびれたチノパン。伸び放題の焦げ茶色の髪。男は痩せた身体を小さく丸め、両腕で頭を抱えていた。
息を殺しているつもりらしいが、肩は小刻みに震え、呼吸もひどく浅い。こちらの気配に気づいているはずなのに、顔を上げることさえできないようだった。
頬はこけ、服は痩せた身体に余っている。頭を抱える腕も頼りなく、手首の骨が浮いて見えた。
鈴音は数秒、男を観察した。逃げる気配はない。武器を隠し持っている様子もなく、少なくとも今すぐ自分に向かってくるつもりはなさそうだ。とはいえ、怯えている人間が無害とは限らない。念のため手元を確認してから、声をかけた。
「……ねえ」
「ひっ……!」
男の肩がびくりと跳ね、情けない悲鳴が漏れた。両腕で頭を覆い直し、さらに身体を縮める。
「生きてる?」
「…………」
返事はない。鈴音は片眉を上げた。
「死んでるなら、返事しなくていいけど? 事務所と一緒に燃やすし」
「い、生きてますっ」
男は慌てて顔を上げたものの、すぐに鈴音から目を逸らした。人の目が怖いのだろうか。どう見ても散々な目に遭ってきた様子なので、そうなのかもしれない。
「そりゃよかった」
淡々と答える鈴音に、安堵した様子はなかった。
男は恐る恐る顔を上げた。血の気の引いた頬には殴られた跡があり、目の下には濃い隈が浮かんでいる。前髪の隙間から覗く焦げ茶色の瞳は濁り、唇は乾いて荒れていた。
もともとの顔立ちは、目立つほど整っているわけでも、ひどく崩れているわけでもない。特徴がないことが特徴といえるような、どこにでもいそうな男だった。ただ、今は頬のこけ方や隈が目立ち、実年齢以上に疲れ切って見える。
年齢は、おそらく三十代半ばといったところだろうか。ごく普通の男が、こんな場所で壁に張りついて震えている。どう考えても、まともな状況ではない。
「で、何してんの、あんた」
男は答える代わりに、顔を青くして唇を震わせた。
「すみません、すみません」
謝罪を繰り返しながらうつむき、膝の上で両手を握りしめる。爪の周りは荒れ、指先には細かな傷があった。長い間、不安に駆られて自分の手をいじっていたのだろう。
「だから、何してるのかって聞いてるんだけど?」
「……わかりません」
「は?」
鈴音は思わず黙った。どうやら、まともに会話できないほど追い詰められているらしい。困ったな、と内心で呟く。
仕事の対象は始末し、もう動かない。ここに残された人間は依頼の範囲外だ。見なかったことにして帰るのが、もっとも手っ取り早い。
この男が何者で、どうしてここにいるのかなど、自分には関係がない。関係がないのだが。
「あんた、こいつに何かされた?」
床に倒れた男を顎で示すと、隅の男はびくりと身を縮めた。視線が倒れた男へ移り、すぐに戻る。唇が動いたが、声はなかなか出てこなかった。
鈴音は急かさずに待った。こういう人間は、無理に喋らせようとすると余計に混乱する。必要なことだけ聞けばいい。
数秒の沈黙のあと、男はようやく口を開いた。
「お金を……借りて、いました」
「へえ」
鈴音は壁に軽く背を預け、続きを促した。視線だけが静かに男を捉えている。
「でも、返せなくて……。友人の、代わりに……保証人になったんですけど……」
「連帯保証人?」
男は小さく頷いた。
「……はい」
それだけで、おおよその事情は察せられた。他人の借金を背負い、返済できず、ここまで追い詰められたのだろう。返済のためにあちこち駆けずり回り、最後には逃げ道を失った。そして今、この部屋の隅でいつ始末されるかと怯えている。現状では、そんなところだろう。
「名前は?」
男は質問の意味を測りかねたように顔を上げた。
「……山田、です」
「下の名前」
促されると、男は慌てて背筋を伸ばした。痩せた肩が強張り、着古したシャツが不自然に引っ張られる。
「蒼……山田、蒼です」
「山田蒼ね」
鈴音は名前を一度口にしてから、室内を見回した。机の上には書類が散乱し、床には空になった酒瓶と食べかけのコンビニ弁当が転がっている。どれも始末した男の持ち物らしく、蒼の私物と思しきものは見当たらなかった。さっき回収した債務者の押収品の中に紛れているか、あるいは、すでに処分されたのかもしれない。
「で、山田さん。あんた、この後どうするつもり?」
蒼は答えず、床に視線を落とした。膝の上で握りしめた手に、さらに力がこもる。
「…………」
「帰る家は?」
しばらくして、蒼はかすかに首を横に振った。
「……ありません。私物と一緒に、もう引き払われました」
「家族は?」
「いません。両親は亡くなっていて、親戚とも疎遠で……」
鈴音は短く相槌を打ち、次の質問を口にした。
「仕事は?」
蒼は唇を噛んだ。喉が小さく上下する。
「……辞めさせられました。数か月、無断欠勤していたので」
「そりゃそうだろうね」
慰めもなく言うと、蒼の顔がますます暗くなった。正論を受け止める余裕すら残っていないらしい。
「借金は?」
蒼は目を伏せたまま、力なく答えた。
「……友人が借りた額は五百万……でも、利子がどんどん増えて……」
「いくら?」
その問いに蒼は口をつぐんだ。視線が宙をさまよい、やがて足元へ落ちる。
正確な額を言いたくないのか、もう自分でも把握できていないのか。どちらにしても、まともな状態ではなさそうだ。鈴音は小さく息を吐いた。
「あんたさ」
「は、はい」
声が少し低くなると、蒼は反射的に顔を上げた。怯えた目だけが、鈴音をはっきりと映している。
「今ここから逃げても、次の債権者になるヤクザに追われるから」
蒼の顔から、さらに血の気が引いた。唇が震え、何かを言おうとしても声にならない。
その反応で鈴音は確信した。この男は、自分がどうなるかを知っている。知っていて、それでも逃げられなかったのだ。
臓器を売れ、身体で払え。闇金が追い詰めた人間に突きつける、お決まりのコースだ。鈴音は表情を変えずに蒼を見つめた。
「……すみません」
蒼が消え入りそうな声で呟いた。
「だから、謝らなくていいって」
鈴音は片手を軽く振った。何度目かもわからない謝罪に、さすがに呆れが混じる。
「でも……」
「俺に謝られても、困るんだよね」
鈴音はしゃがみ込み、蒼と目線を合わせた。近くで見ると、蒼の顔はますます冴えない。ただ、その目だけは妙に正直だった。恐怖も絶望も隠しきれていない。この男は嘘をつくのが下手そうだし、ひどく騙されやすそうでもある。
こういう人間は、悪意のある相手に捕まると厄介だ。疑うことを知らず、断るのも苦手で、相手が悪いとわかっていても自分を責める。目の前の男は、その典型に見えた。
「山田さん」
呼ばれて、蒼はおずおずと顔を上げた。
「……はい」
「今から俺が言うこと、ちゃんと聞いて」
声は落ち着いていた。蒼は戸惑いながらも、何度も頷いた。
「ここから出る。歩ける?」
「え……?」
突然の言葉に、蒼は目を瞬かせた。
「歩けるかって聞いてる」
鈴音は差し出しかけた手を止め、もう一度尋ねた。
「は、はい。歩けます」
「なら、立って」
改めて黒い手袋に包まれた手を差し出すと、蒼は呆然とそれを見つめた。
手袋に覆われた長い指はすらりとしている。優雅にさえ見える手つきだが、借金取りを殺害してからの動きには、妙に手慣れた様子があった。
「……あの」
手に触れかけた蒼は、ためらうように指を引っ込めた。
「何?」
「俺、まだ……借金が」
「うん」
鈴音は急かさず、続きを待った。
「返せていなくて……」
「そうだね」
「それに、仕事も……家も……」
話すほどに蒼の声は小さくなっていく。鈴音はその様子を見つめ、少しだけ首を傾げた。
「うん、聞いた」
「で?」
問い返され、蒼はぽかんと口を開けた。
「……え?」
「だから、今はここから出るんだよ。あんたの借金は俺が肩代わりする」
まるで、帰りにコンビニへ寄るかどうかを話すような気軽さだった。
鈴音は金庫から回収した証文の束をボストンバックから取り出し、「山田蒼」と保証人欄に記された一枚を見つけると、それを確認して元にもどした。
蒼は口を開いた。何か言おうとして、結局何も言えなかった。やがて差し出された手を取る。恐る恐る体重を預けて立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜ける。
「おっと」
鈴音が腕を掴み、倒れかけた身体を支える。蒼はあっけなく、その腕に寄りかかった。
痩せているとは思っていたが、予想以上に軽い。肩や背中に触れると、骨の形がわかるほどだった。鈴音は蒼を支えたまま、その顔を覗き込む。
「……あんた、ちゃんと食ってる?」
蒼は答えず、気まずそうに視線を逸らした。
「…………」
「食ってないんだね」
返事を待たずに結論づけると、蒼は恥ずかしそうに目を伏せた。
「……すみません」
鈴音は一瞬、その顔を見つめた。
「謝罪とかいらない」
そう言って、蒼の身体を支え直す。
腕に触れた感触からして、筋肉はほとんどない。数か月の監禁で、食事も睡眠もまともに取れなかったのだろう。この状態で外に放り出しても、まともに歩けるかどうかさえ怪しい。
鈴音は面倒そうに眉を寄せた。自分の仕事は、困っている人間を助けることではない。失せ物探しから掃除、厄介な揉め事の処理まで、金になることなら大抵引き受ける。
今回だって、頼まれた仕事を済ませただけだ。人助けを看板に掲げているわけでも、慈善事業に興味があるわけでもない。それでも、目の前で震えている人間を見捨てて帰るほど、割り切った人間ではなかった。厄介だなと思いながらも、鈴音はこういう人間を拾ってしまう性分なのだ。
「……まあ、いいか」
小さく呟き、蒼の様子を確かめる。
「え?」
「いや、こっちの話」
鈴音は蒼を支えたまま、出入口へ視線を向けた。
「とりあえず、食事」
「……はい?」
蒼は目を丸くした。予想外の言葉だったらしい。
「何か食べて、風呂入って、寝る。話はそれから」
当然のことのように言い切る。蒼はぽかんと口を開けた。今までの会話から、そんな結論にたどり着くとは思っていなかったようだ。
「……あの、俺……」
言いよどみながら、鈴音を見上げる。
「うん?」
鈴音は出口へ向かいかけた足を止めた。
「あなたに、何かできることが……」
「あるよ」
鈴音は即答した。蒼の顔にわずかな希望が浮かぶ。
「……本当ですか?」
声に、ほんの少しだけ力が戻った。鈴音は気に留める様子もなく、指を折りながら説明する。
「借金を肩代わりする分、飯代と宿代に今後の生活費。全部タダにするわけにはいかないから、働いて返してもらう。利子は無い、だから借金取りに追われるよりはマシ」
「……働く?」
蒼は聞き返し、瞬きを繰り返した。
「家事。掃除、洗濯、料理。できる?」
「……料理は、少しなら」
「掃除と洗濯は?」
「できます」
「じゃあ、採用。今月でハウスキーパーの契約が切れるから、ちょうどよかった」
「はい?」
あっさりと決まった。まるで、必要な人員をひとり確保しただけのような口ぶりだった。
「とりあえず俺の家で働いてもらう。後のことは、俺が調べてから考える」
あまりにも唐突な話だった。蒼は目を瞬かせたまま、鈴音を見上げている。
鈴音の顔には、助けた人間を前にした感傷めいたものは見当たらない。無表情でいると冷たくも見えるが、その目には、蒼を見捨てるつもりがないという妙な確かさがあった。
「……どうして」
蒼の声はかすれていた。
「何が?」
「どうして、そこまで……」
助けてくれるのか。そう尋ねたいのだろう。鈴音は少し考えた。正直なところ、自分でもよくわからない。ただ、目の前の男を放っておくのは、なんとなく寝覚めが悪い。それに、殺害現場を見られている以上、放置するわけにもいかない。そういうことにした。
「……さあ。気まぐれ?」
鈴音は肩をすくめた。
「気まぐれ……」
蒼はその言葉を繰り返し、まだ信じられないといった表情で鈴音を見つめた。
「そう。嫌なら置いてくけど」
「い、いえ! 嫌じゃないです!」
蒼は慌てて首を横に振った。勢い余ってよろめき、鈴音はその肩を押さえながら苦笑した。
「じゃ、決まり」
鈴音は蒼を連れて部屋を出た。深夜のビルの廊下には誰もおらず、四月の夜気がひんやりと肌に触れる。
「……ありがとうございます」
「礼は、働いてからでいいよ」
そう言い残し、鈴音は蒼をいったん壁際に寄りかからせると、ひとりで部屋に戻った。
暖房用の石油ストーブを倒し、その周囲に灯油を撒く。火をつけたタバコを床に落とすと、鈴音は部屋のドアを閉めた。
やがて火が燃え広がり、隙間から煙が漏れ始めた。借金取りの事務所に背を向け歩きながら、蒼は何度も振り返る。
今までいた部屋。自分を追い詰めた男。もう戻ることのない、借金にまみれた日々。それらを背後に残して歩くことが、まだ現実とは思えなかった。
「……あの」
「何?」
鈴音は歩調を緩め、蒼を見下ろした。
「俺、本当に……あなたの家に行ってもいいんですか」
「その話、もう不要だから」
「すみません……」
蒼は反射的に頭を下げかけた。
「ほら、また謝る」
指摘され、蒼ははっとして口を閉じた。
「あ……」
鈴音は横目で彼を見て、わずかに口元を緩めた。
「まあ、ゆっくり直せばいいよ」
そう言って、再び前を向く。ダークグレーのスーツの背中は、夜の街灯の下でも妙に目立った。背が高く姿勢もよく、長い脚が静かに前へ出る。それでも、歩く速度は蒼に合わせて少し落とされていた。
蒼はそのことに気づいていなかった。気づく余裕がなかったのだ。ただ、自分を置いていかない人間がいる。それだけで胸の奥が痛くなるほどだった。
やがて、鈴音の黒いワンボックスカーが見えてきた。車種も色もありふれていて、街中に停まっていても記憶に残らないような一台だ。鈴音は鍵を取り出し、周囲を確認してから助手席のドアを開けた。
「乗って」
「……はい」
促されるまま助手席に座る。シートに身体を沈めても、落ち着く姿勢が見つからないようだった。車内は静かで、芳香剤の匂いも派手な装飾もない。きれいに整頓された、ごく普通の車だった。
鈴音も運転席に乗り込み、ドアを閉めた。シートベルトを締め、ミラーを確認してからエンジンを始動する。車内に低い振動が伝わった。
「何か食べられないもの、ある?」
ハンドルに手を置いたまま、鈴音が尋ねた。
「え?」
蒼は戸惑ったように顔を向ける。
「アレルギーとか。嫌いなものでもいいけど」
「……いえ、特には」
少し考えてから、蒼は遠慮がちに首を横に振った。
「了解。じゃ、帰りに何か買っていくか」
鈴音はギアを入れ、車を発進させた。
蒼は膝の上で、ぎゅっと手を握った。細い指には血色がなく、爪の周りも荒れたままだ。食事の心配をされたのは、いつ以来だろう。最後にまともな食卓を囲んだ記憶さえ、すぐには思い出せなかった。
「……ありがとうございます」
今度は謝罪ではなかった。鈴音は前を向いたまま、「どういたしまして」と短く答えた。
車が走り出す。窓の外では夜の街並みがゆっくりと後方へ流れていった。鈴音は運転に集中している。ラジオもつけず、余計なことも聞いてこない。
蒼は何度か口を開きかけ、そのたびに閉じた。聞きたいことは山ほどある。なぜ助けてくれたのか。どこへ連れていかれるのか。本当に働くだけでいいのか。けれど、今は何も聞けなかった。
隣にいる男が何者なのか、蒼にはまだわからない。ただひとつ確かなのは、この男が自分の知らない世界を知っているということだった。
その夜、山田蒼は佐々木鈴音という男に拾われた。本人の意思とは関係なく、住み込みのハウスキーパーとして採用されることになったのだが。
このときの蒼は、まだ知らない。これから自分が暮らす家が、セキュリティの整った高層マンションであることも。雇い主が、表向きの便利屋稼業の裏で、誰にも知られず厄介な仕事を片づけている人間であることも。
そして何より、自分を拾ったこの男が、一度拾ったものをそう簡単には放り出さない性分であることも。鈴音にとっては、ほんの気まぐれだった。けれど、その気まぐれが、二人の生活を変える最初の一歩になった。




