2 バラの図書室
広げた本をそのまま放り投げて、指揮棒を引っ掴む。掴む時、手のひらを切ったが、構わずに自室のドアを飛び出した。背後でドアが大きな音を立てて閉まる頃には、もう廊下を半分ほど走っていた。
この時間に、図書室から異音なんて明らかにおかしい。なんだか胸騒ぎがする。廊下の電気を入れながら、図書室のある東棟に続く扉を目指して走った。扉近くまでくると、図書室の奥にある書庫の扉を揺らす音が聞こえ、それが徐々に大きな音に変わった。大きく息を吸いこみ、一度自らを落ち着かせ、扉を開いた。
そこは円形の図書室で、天井が高く、中央に半円形の書棚が二つ、そして左右の壁に沿うように書棚が(ほぼ天井まで)ある。上から見るとちょうどバラの花が開きかけた形に見えることから、バラの図書室と異名を持っている。本は全てリー一族が古代より集めてきた魔術や歴史に関するもので、膨大な蔵書数を誇っている。天井まで伸びる書棚には梯子がかけられており、うず高く収められている本にアクセスできるようになっている。
今、小さな人影が階段の一番上、入り口から一番遠い書棚に手を伸ばすのに忙しかった。あの最上段の書棚には、50センチはある大型本、特に大人向きの難しい魔術の本が配されており、いたずらに子どもたちが手にできないようになっている(大型本を配置している理由は他にもある)。
ドレス姿の少女は強引に本を引き出そうとして忙しかった。両足で梯子にふんばり、両手で本の背に手をかけ、細身の自分の体を使って、本を引っこ抜こうとしている。長い金色の髪が揺れ、本が引き出された瞬間、バランスを崩し、足を踏み外した。
「きゃあああ」
少女が悲鳴をあげた。ボリュームのあるスカートが梯子にひっかかったのも束の間、繊細な生地がビリビリっと音を立て始めた。
「いっ、いやー」
クリストファーは本棚の下に駆け込んだ。生地の繊細さと地球の重力に逆らえず落ちてきた少女をガッチリと腕の中に受け止め、落下してきた大型本を巧みに避けた。
「間に合った」
ほっとして言うと、少女が恐々目を開いた。
「ああ、よかった。ありがとうクリス! あの上から落ちた時にはもう……」
そこまで言って、少女は口ごもった。手を取られて、床に立たせてもらった手を見つめている。その手が血で汚れたからだ。
「問題ないさ、マリー」
疲労を感じながら言った。
「こんなのたいした傷じゃないから」
マリーの眼の奥に罪悪感の色が見え隠れしている。
「だ、代償の魔術、まさか瞬間移動の魔術を使ったわけじゃないわよね」
マリーはつっかえながら言った。
代償の魔術とは、自分の肉体の一部を差し出すことで目的を叶える魔術で、とびきりの即効性がある。瞬間移動の魔術はこの代償の魔術に分類される。空間を歪めて移動する魔術で、差し出す代償は移動する距離によるものの、ほとんどが血液数的で済む。|しかし他の代償の魔術の中には、もっと大きな代償を必要とするものもある。
「マダム・リーに怒られない?」
マリーの言う通り、マダム・リーはこの“代償の魔術”を使うことを禁じている。そもそも黒魔術に属するからだ。
「まさか」
おどけて言った。
「そんなの使えるわけないだろ」
「そうかな……わたしにはクリスが突然現れたように感じたわ」
胸の中にどうしようもない空しさが広がった。禁じられた黒魔術どころか魔術自体が使えないっていうのに!
「それより」
ぴしゃりと言った。
「マリーこそ、お茶の時間にこっそり抜け出して、図書室をあさるなんて、どういうつもりだよ」
「怒らないでよ、クリス。わたしはただ復活の魔術を探していたの」
「復活の魔術! なんだってそんなもの……」
復活の魔術ってのは病人を元気にさせる魔術。ってのは建前。実際は死者をも生き返らせることができるものだ。代償の魔術に分類される上、最大級の禁忌。クリストファー自身、そういう魔術があるというのは本で読んで知ってはいるけど、やり方は知らない。そもそもそんな大それた魔術、この図書室にマダム・リーが置くはずがない。奥にある秘密の書庫ならともかく……。
「だってロルの具合が悪いから」
マリーの声で現実に引き戻された。ロルというのは、マリーの愛犬トイプードルのことだ。
「でも復活の魔術なんて、そんなものないよ」
「嘘」
マリーが即座に反論した。
「わたし達一族には、禁断の魔術があるって聞いたことあるもの」
「ふーん、ならマダム・リーに直接聞いたら」
「クリスったら、なんでそんな意地悪なこと言うの? わたしには、ううんクリス以外の他の誰にも、マダム・リーは魔術を教えないし、魔術の話すらしないって知っているじゃない。だから、わたしはこうして図書室に――」
「盗みに入った?」
「違うわ。ちょっと本を借りようと思っただけよ。ちゃんと返すつもりだったし。悪い事なんてし、してないもん」
マリーが小さな胸を張った。桃色の唇も、挑むようなアクアマリンみたいな澄んだ青い瞳も可愛い。ピンク色のワンピースもなかなか似合って……。
「そういうのはマリー、スカートを履いてから言えよ。水玉のパンツを見せられながらだと説得力ない」
マリーはビックリして視線を落とした。そこで初めて自分がパンツ姿なことに気づいたらしく、真っ赤になってしゃがみこんだ。
「どうして早く教えてくれないのよ」
「ん? 良い眺めだったから」
「バカ!」
視線を梯子に移すと、スカート部分が梯子にひっかかり、藤の花のように垂れ下がっている。
「あーあ、せっかくスカートをとってきてやろうと思ったのに」
「もうっ、クリスの意地悪!」
梯子に手をかけた時、背後で魔力の光が集まるのを感じた。
梯子に引っかかっていたスカートが羽根を広げた鳥のように飛びあがり、いきなり急降下してきた。びっくりして避ける。振り返ると、立ち上がったマリーの上半身、前身ごろと後ろ身ごろにスカートがビタッとくっついた。まるで磁石に砂鉄がくっつくように、ぴったりと縫い合わさっている。魔術としても、縫製としても完璧だ。
「すごいな」
思わず感嘆の声をもらした。
するとマリーも自分でしたことに自分で驚いたように目を丸くしている。
「どうしてできたのかしら、こんな難しい魔術」
魔術の感触を確かめるようにマリーが自分のピアスに触れた。マリーの瞳と同じ色のアクアマリンのピアスは、マリーの魔術を引き出すアイテムだが、普段の透明な水色と違い、今はまるでサファイアのように深い青色になっている。マリーの魔術が最大限まで引き出された証拠だ。魔力0の俺とは大違い。
「さすがは優等生のマリーだな」
「そんなことないわ」
マリーが恥ずかしそうに肩をすくめる。
「クリスだってこれくらいの魔術使えるようになるわよ」
何の魔術も使えない|俺にとって嫌味でしかない言葉だけど、マリーのピンクのバラの蕾みたいな唇から出てくるとそうは聞こえない。透き通るようなアクアマリンの目はまっすぐで、“いつかクリスも魔術を使える”と本気で思ってくれている。本当に素直で屈託がない優等生で……俺のことなんて一生分からないだろう。情けなくて笑えてきた。
「クリス? 何で笑うの?」
「いや。もし俺が魔術を使えるようになったら、もっと丈を短くしてやるよ」
スカートの裾を思いっきりつまみ上げてやった。すると、またマリーのパンツが露わになった。
「何するのよ!」
マリーが真っ赤になって俺の手を叩こうとしたその時、図書室の扉が開いた。深紅のドレスを着た背の高い金髪の女性が入ってきた。
マダム・リーだ。
その眼には何の感情も浮かんでいないようにも、あらゆる感情が浮かんでいるようにも見える。
「おばあさま、ご機嫌麗しく……」
膝を折って礼をしようとすると、手で制止された。
「挨拶はいい。それよりクリスとマリーはそこで何をしている?」
穏やかな声だが、隣に立つマリーが縮みあがるのを感じた。
禁忌である復活の魔術を探していた、などと、マリーが言えるはずもない。ため息を一つついてから、口を開いた。
「本を読んでいたんです」
マダム・リーの視線は既に床に落ちている大型本に移っている。
「それで、マリーは?」
「わたしは……えっと……」
マリーの震えは既に声にまで及んでいる。その震えがうつらないよう、ゆっくりと口を開く。
「マリーはお茶の時間だからと呼びに来てくれたんです」
「そうか」
マダム・リーが油断ならない眼でマリーを見つめている。
「マリー、クリスは魔術の勉強を優先させるため、お茶会への参加は自由になっている。夏をここで過ごすのは初めてではないだろうに、忘れたのか? まさか許可もなく、ここの図書室を漁っていたわけではないだろうね」
マダム・リーはさすがに鋭い。底のしれない湖のような青い目に見据えられ、マリーがうつむいた。小刻みに震えながら口を開く。
「まさか……そんな……はずありません。ただここで……」
「ここで?」
「俺に迫っていただけです。マリーは俺とどうしてもお茶会に出たいからって」
マリーが真っ赤になって顔を上げた。その眼が“なんてこと言うの!”と抗議している。しかし、突然マダム・リーが声を上げて笑った。
「ならばクリス、今日はお茶会に参加するしかないな。まだ始まったばかりだ。2人ともおいで」
マダム・リーが深紅のドレスを翻し、図書室から出て行った。




