表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪異清掃、請負います  作者: 夾竹桃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/17

17.第十七話

深夜零時0分。首都高速湾岸線・大井ジャンクション付近。

東京湾の冷たい海風が吹き抜けるこの巨大な大動脈は、今夜、奇妙な静寂に支配されていた。普段ならば物流を支える大型トラックや、スリルを求める走り屋たちの排気音(エキゾーストノート)が響き渡る時間帯だ。だが今夜、この場所には一般車両が一台たりとも存在しない。

『緊急道路工事』および『不発弾(ふはつだん)処理』。そんな取ってつけたような名目で、警視庁によって半径五キロメートルが完全封鎖されているからだ。

無人のアスファルト。その闇を切り裂くように、整然とした車列が疾走していた。

先頭と殿(しんがり)を固めるのは、漆黒に塗装されたストライカー装甲車。中央には、荷台を厳重に装甲化した大型輸送トラック。さらに上空百メートルには、回転翼(ローター)音を極限まで抑えた最新鋭のステルスヘリが二機、獲物を探す鷲のように旋回している。

米国海軍第七艦隊・特殊輸送部隊『ブラボー』。彼らが運んでいるのは、日本政府から極秘裏に譲渡された『箱』――戦後最大の禁忌(きんき)とされる特級呪物(とっきゅうじゅぶつ)である。


「ブラボー・リーダーよりCP(コマンドポスト)へ。現在、ポイント・デルタを通過。予定時刻よりマイナス三十秒」


装甲車の助手席で、隊長のジョン・スミス大尉は冷静にマイクへ告げた。だが、その内心(ないしん)には(ぬぐ)いきれない(おり)があった。


(……敵対組織の名は『御堂(ミドウ)エンタープライズ』。作戦資料(ブリーフィング)には『新興の複合企業であり、産業スパイを雇っている』としか記されていなかった)


だが、現場に渡された極秘ファイル(アイズ・オンリー)の末尾には、不可解な警告文が添えられていた。『脅威レベル:測定不能』『接触厳禁』。

たかが民間企業相手に、なぜ第七艦隊の精鋭が動員され、対化物用の装備を持たされているのか。上層部は何かを隠している。自分たちは、重要な情報を知らされないまま、虎の尾を踏まされようとしているのではないか――そんな不吉な予感が、スミスの背中を冷たく撫でていた。


「隊長。前方三百メートル。道路中央に障害物を確認」


ドライバーの報告に、スミスは思考を中断した。サーマルセンサーが、道路の真ん中に立つ「人型」の熱源を捉えていた。


「民間人か?」


「いえ、妙です。身長はおよそ190センチ……大柄ですが人間としてあり得る範囲。ですが、サーモグラフィが真っ赤です」


「体温が高いのか?」


「違います。筋肉密度が異常なんです。熱量が……エンジンのように燃えています」


なんだそれは、とスミスが(いぶか)しむ間もなく、その「障害物」は肉眼でも確認できる距離に迫った。ヘッドライトが闇を照らす。そこにいたのは、テロリストでもバリケードでもなかった。

金色のオイルを全身に塗りたくり、極小のブーメランパンツ一丁を身に着けた、褐色の男。彼は迫りくる二十トンの装甲車を前にしても、微動(びどう)だにしない。それどころか、両腕を広げ、恍惚(こうこつ)とした表情で待ち構えている。


「……轢き殺せ」


スミスは即断した。ブレーキを踏むという選択肢はない。上層部が何を隠していようと、現場の兵士にできるのは任務遂行のみ。立ち塞がる者が何者であれ、質量と速度で排除する。


「アイ・アイ・サー。衝撃に備えてください」


ドライバーがアクセルを踏み込む。ディーゼルエンジンが(うな)りを上げ、装甲車は最高速度へと加速した。衝突まであと三秒。二秒。一秒。男が、叫んだ。


「キエェェェェェイッ!! マッスル・ドッキングゥゥゥッ!!」


湾岸線に、爆発音と錯覚するほどの轟音が響き渡った。だが、それは爆薬によるものではない。肉と鉄が、正面から激突した音だった。


「なッ……!?」


スミスの体が、シートベルトに食い込むほどのGで前方に投げ出される。エアバッグが作動し、車内が白煙に包まれる。停止した。時速八十キロで突進した装甲車が、たった一人の人間によって、物理的に停止させられたのだ。


「馬鹿な……エンジントラブルか!?」


「い、いえ! タイヤは回っています! 押し負けているんです!」


ドライバーの悲鳴。白煙の向こう、ひしゃげたバンパーに両手を突き刺し、アスファルトに両足をめり込ませて耐えている男の姿があった。


「ぬんぬんぬんッ!! 素晴らしい! これこそが私が求めていた『圧力(プレッシャー)』だ!」


|神宮寺剛社長である。彼は口から大量の血を吐きながらも、満面の笑みを浮かべていた。

全身の筋肉が赤黒く充血し、血管が今にも破裂しそうに脈打っている。骨の数本は確実に折れているだろう。内臓も損傷しているかもしれない。

だが、彼の「筋肉への信仰」が、肉体の崩壊を精神力で繋ぎ止めていた。


「見よ! 鍛え上げた大胸筋は、戦車の装甲よりも硬いのだァァッ!」


社長が叫びと共に、さらに一歩、前へ踏み込む。メキメキと音を立てて、装甲車のフロントガラスに亀裂が走った。


「化け物め……! これが『産業スパイ』だと!?」


スミスがドアを蹴り開ける。やはりだ。自分たちは騙されていた。相手は人間ではない。だが、嘆いている暇はない。


「総員下車! 戦闘態勢ッ! 相手は超常存在だ、遠慮はいらん!」


米軍の動きは早かった。後続のトラックから兵士たちが展開し、流れるような動作で射撃姿勢を取る。

彼らが構えるアサルトライフルには、対人用の通常弾ではなく、対妖怪用の『劣化ウラン呪術弾』が装填されていた。


「ファイア!」


統率された一斉射撃。乾いた発砲音が夜空を裂き、数百発の弾丸が社長へと吸い込まれる。


「ぬうぅぅン! 痛い! 凄く痛いぞ!」


社長の鋼鉄の皮膚をもってしても、最新鋭の呪術弾は貫通こそしないものの、確実に肉を削り取っていく。流石の社長も、これにはたまらず後退した。


「チッ、やっぱプロかよ。動きに無駄がねぇな」


高架下の暗がりに身を潜めていた(もも)が、忌々しげに舌打ちをした。彼女は背負っていた巨大な包みを解く。現れたのは、身の丈ほどもある無骨な金棒。その表面には、びっしりと呪符が貼られている。


「おい新人、出番だぞ。さっさと行ってこい」


「えっ、ちょ、まだ心の準備が……」


隣で震えているのは、ジャージ姿の青年――佐藤健太だ。顔面蒼白。足はガクガク。

とてもではないが、戦力として数えられる状態ではない。だが、この作戦において彼の役割は「戦うこと」ではない。「(まと)」になることだ。


「準備なんていらねぇよ。お前はただ、悲鳴を上げて逃げ回ればいいんだ」


「そんな無茶な! 相手は米軍ですよ!?」


「給料分は働け!」


桃の容赦ない蹴りが、佐藤の背中を直撃した。ボールのように転がっていく佐藤。


「あだァッ!? ……って、うわぁぁぁぁ!!」


転がり出た先は、銃弾が飛び交う戦場のド真ん中。スポットライトのように、ヘリのサーチライトが佐藤を照らし出した。


「ターゲット確認。敵性歩兵一名。武装なし」


「構わん、排除せよ」


スミス大尉の指示は冷徹だった。彼らにとって、この作戦区域にいる者はすべて「敵」であり、排除対象だ。数名の兵士が、流れるような動作で佐藤に銃口を向ける。


「い、命だけはぁぁぁ!!」


絶叫し、頭を抱えて走り出す。その瞬間、トリガーが引かれた。マズルフラッシュが闇を焦がす。プロの射撃だ。逃げ惑う一般人など、一瞬で蜂の巣になる――はずだった。

だが。


「うわっ、危なっ、ひぃぃ!」


奇妙な動きで弾丸を避けた。まるでダンスでも踊るように、上体を反らし、地面を滑り、不自然なステップを踏む。弾丸は彼の耳を、頬を、脇腹を、紙一重で掠めて通り過ぎていく。


(見える……! 死ぬほどハッキリ見えるぞ……!)


俺の視界は、異様な色彩に染まっていた。勝手に『清掃眼(クリーン・アイ)』と名付けた、俺だけの能力。

あらゆる「汚れ」を視認するこの目は、空間を飛翔する弾丸の軌道を、「空間の汚れ」として認識していた。

赤いレーザーのような線が、自分を貫く未来。それを脳が処理し、体が勝手に「汚れのない場所(安全地帯)」へと動く。


(でも怖い! 痛いのは嫌だ! 帰りたい!)


能力で避けられても、恐怖心は消えない。俺は涙目で、コンテナの陰へとスライディングした。


「なんだあの動きは!? 弾が当たらないぞ!」


「動きが気持ち悪い! クネクネしている!」


兵士たちの間に、僅かな動揺が走る。その隙を、桃は見逃さなかった。


「ヒャッハー! お兄さんたち、余所見はいけないねぇ!」


高架上からの強襲。重力を味方につけた桃が、金棒を振りかぶってトラックの屋根に着地した。トラックの装甲が紙のようにひしゃげ、衝撃波で周囲の兵士たちが吹き飛ばされる。


「鬼をナメんじゃないよッ!」


桃が金棒を一閃させる。人間離れした膂力(りょりょく)で振るわれる数トンの鉄塊は、当たれば即死、ガードしても内臓破裂確定の凶器だ。前衛の兵士たちが宙を舞う。


「くっ、バケモノのバーゲンセールかここは! 上層部の嘘つき共め……!」


スミスが奥歯を噛みしめる。産業スパイどころか、神話級の怪物がゴロゴロ出てくるではないか。

だが、ここで退くわけにはいかない。退けば軍法会議(コート・マーシャル)、進めば地獄。ならば進むしかない。


「ガーディアンを投入しろ! 出し惜しみはなしだ!」


スミスの怒号。それに応えるように、輸送トラックの後部ハッチが爆発的に開放された。高圧蒸気と共に現れたのは、人の形をした重戦車だった。

対異能殲滅(せんめつ)用パワードスーツ『ガーディアン・マークⅣ』。全高三メートル。全身を複合装甲で覆い、右腕には20ミリ・ガトリングガン、左腕には火炎放射器とミサイルポッドを装備している。

科学と呪術のハイブリッドが生み出した、現代の化物殺し。それが五機、重々しい足音を立てて展開した。


「ターゲット・ロック。脅威度判定A。殲滅モードへ移行」


無機質な合成音声。五機のガーディアンが一斉に火器を起動する。ガトリングの砲身が回転し、キーンという駆動音が鼓膜を突き刺す。


「お、おい桃ちゃん! あれヤバくないですか!?」


コンテナの陰から顔を出した佐藤が、裏返った声で叫ぶ。桃の表情も強張っていた。


「チッ、最新鋭かよ……あいつの装甲、私の金棒でも一撃じゃ抜けないぞ。しかもあのガトリング、一発一発が社長の拳みたいな威力がある」


「じゃ、じゃあ逃げましょうよ! 死んじゃいますって!」


「逃げられるかよ! 囲まれてるんだ!」


その通りだった。米軍の展開速度は異常だった。いつの間にか、アサルトライフルを構えた歩兵たちが周囲を包囲し、その内側をガーディアンが固めている。

完全な包囲網。社長は未だに先頭車両と力比べをしていて動けない。


「ターゲット、歩兵一名、鬼族一名。ファイア」


死の宣告。五つの銃口が火を噴く――その直前だった。


「……五月蝿(うるさ)いわね」


硬質な音が、戦場の喧騒を切り裂いた。それは、ティーカップをソーサーに置く音だった。

銃声でも、爆音でもない。日常の、あまりにも些細な生活音が、なぜか鼓膜の奥深くまで響き渡った。

その瞬間。世界から「音」と「動き」が消えた。

回転していたガトリングが停止する。発射されようとしていたミサイルが、点火信号を受け付けずに沈黙する。

兵士たちの指が、トリガーの上で凍りついたように動かない。時間停止ではない。

彼らの生存本能が、脳からの命令を拒絶し、全身を硬直させているのだ。

「動けば死ぬ」という、絶対的な予感が、数多の修羅場(しゅらば)を潜り抜けてきた彼らの体を縛り付けていた。


「……な、なんだ?」


スミス大尉が、脂汗を垂らしながら視線を動かす。道路の真ん中。先ほどまでは何もなかったはずの空間に、それは「在った」。

白亜のガーデンテーブル。三段重ねのアフタヌーンティー・スタンドには、色とりどりのマカロンやスコーン。そして、優雅に猫足の椅子に腰掛ける、一人の少女。

漆黒のゴシックドレスに身を包み、月光を溶かし込んだような銀色の髪を、夜風になびかせている。その容姿は、人形のように美しく、そして、死体のように冷ややかだった。

御堂アリス。このふざけたサーカスの団長にして、最悪の観客。


「……お茶に埃が入ったわ」


アリスが呟いた。その声は小さく、しかし周囲の静寂ゆえに、拡声器を使うよりも明瞭に届いた。

彼女は不愉快そうに眉をひそめ、なみなみと注がれたダージリンティーをアスファルトに捨てる。

熱い紅茶が地面を濡らす音が、やけに生々しく響く。


「誰の許可を得て、私のティータイムを邪魔しているのかしら?」


彼女が顔を上げる。その瞳と目が合った瞬間、スミス大尉は呼吸を忘れた。

感情がない。敵意も、殺意も、怒りすらない。そこにあるのは、道端の石ころを見るような、あるいは羽虫を見るような、圧倒的な無関心。


「き、貴様は何者だ……! 我々はアメリカ合衆国の……」


一人のガーディアンのパイロットが、恐怖に耐えかねて叫んだ。虎の威を借る狐。

だが、相手は虎をも喰らう竜だということを、彼らは知らされていない。

アリスが、うるさそうに指を立てる。


掃除(クリーニング)


指が鳴らされた。

直後、そのパイロットが乗っていたガーディアンが「潰れた」。

爆発したのではない。見えない巨人の手で握りつぶされた空き缶のように、四方八方から均等に圧縮されたのだ。

装甲が悲鳴を上げ、強化フレームが飴細工のようにねじ切れる。

中にいた人間はどうなったのか。それを想像する暇すら与えられなかった。

圧縮された鉄塊の隙間から、大量の赤黒い液体と、ミンチ状になった肉片が絞り出され、地面に落ちる。

悲鳴はなかった。声を上げるための肺も喉も、一瞬で圧壊(あっかい)したからだ。


「ヒッ……!?」


隣にいた兵士が、腰を抜かして後退る。嘔吐する者もいた。

あまりにも理不尽で、あまりにも生理的嫌悪感を催す死に様。

これが、上層部が隠していた「真実」なのか。


「撃てッ! 殺せ! 殺さないと我々が消されるぞ!!」


パニックに陥った兵士たちが、命令を待たずに引き金を引く。数千発の弾丸が、アリスという一点に集中する。だが。


「……品がないわね」


アリスは、飛来する弾丸を一瞥もしなかった。彼女がティーカップを手に取ると、彼女の周囲半径一メートルの空間が歪んだ。

弾丸は彼女に届く直前で、ふっと消失する。弾かれたのでも、止まったのでもない。「存在すること」を許されず、この世から消滅させられたのだ。


「邪魔よ、鉄屑(てつくず)ども」


アリスが、あくびを噛み殺しながら手を振る。ただ、それだけの動作。しかし次の瞬間、残りのガーディアン四機に同時に衝撃が走った。

四機同時に、圧縮。抵抗など無意味だった。最新鋭の複合装甲も、対呪術シールドも、彼女の前では濡れたティッシュペーパーと同義だった。

四つの鉄塊が、血の雨を降らせながら転がる。

静寂が戻った。先ほどまでの戦闘の熱狂は消え失せ、残ったのは死の冷気だけ。社長も、桃も、そして佐藤も、言葉を失ってその光景を見つめていた。


「……レベルが、違う」


俺は震えながら呟いた。社長や桃は「強い人間」だ。だから、まだ理解できる。

だが、あそこに座っている銀髪の少女は違う。

あれは人間ではない。着飾った台風。あるいは、意思を持った大地震。対話も交渉も通用しない、理不尽な天災そのものだ。


「……退却だ」


スミス大尉が、(かす)れた声で命令を下した。彼の顔からは、軍人としてのプライドが完全に剥落(はくらく)していた。騙されたのだ。勝てるはずのない相手に、捨て駒として投げ込まれたのだ。


「総員、退避せよ! あれには勝てん! 逃げろッ!」


もはや統率などなかった。兵士たちは我先にとトラックへ走り、あるいは防音壁を乗り越えて逃走を始めた。戦う意志を、根底からへし折られたのだ。


「あら、もう終わり?」


アリスは、逃げ惑う兵士たちを追おうとはしなかった。興味を失ったように視線を逸らし、立ち上がる。


「……まあいいわ。メインディッシュを確認しましょう」


彼女は、血とオイルで汚れた路面を、ドレスの裾を一切汚さずに歩いていく。その先にあるのは、守り人を失った輸送トラック。『箱』が眠る場所だ。


「おもちゃ、開けなさい」


不意に、名を呼ばれた。


「えっ、お、俺ですか……?」


「他に誰がいるの? 早くしなさい……それとも、貴方もあの鉄屑になりたいのかしら?」


アリスが、転がる鉄のサイコロ(元ガーディアン)を顎でしゃくる。俺の背筋に氷柱(つらら)が突き刺さる。断れば死ぬ。確実に。


「や、やります! 喜んで!」


俺は脱兎(だっと)のごとくトラックへ駆け寄った。荷台のロックは厳重だったが、会長が触れた瞬間にバラバラと崩れ落ちたので、苦労はなかった。

重い扉を開ける。中には、黒光りするコンテナが鎮座していた。


「……これが、『箱』」


ごくり、と喉が鳴る。特級呪物。このために、多くの血が流れ、俺も死にかけた。

一体、中には何が入っているのか。伝説の妖刀か。封印された悪霊か。佐藤は震える手で、コンテナの蓋を開けた。


「……はい?」


俺の声が裏返った。覗き込んだ桃も、社長も、目を丸くして固まっている。

コンテナの中は、空っぽだった。いや、正確には一枚の紙切れだけが、ポツンと置かれていた。

それを拾い上げる。そこには、油性ペンで殴り書きされた文字があった。


『HAHAHA! 残念賞! 本物はあっちだよバーカ!』


「…………」


沈黙。海風の音だけが、虚しく響き渡る。


「……なん、ですか、これ」


俺は震える声で言った。嘘だろ。囮? このドンパチが、人が死んで、俺が死にかけて、社長が車に撥ねられたこれが、全部ただの囮?


「やっぱりね」


背後から、クスクスという笑い声が聞こえた。振り返ると、会長が口元を押さえて笑っていた。

驚いた様子はない。むしろ、予想通りの結末を楽しんでいるようだ。


「……会長。知ってたんですか?」


佐藤の声が低くなる。恐怖よりも先に、どうしようもない徒労感(とろうかん)が湧き上がってくる。


「ええ。政府の臆病者たちが、こんな分かりやすいルートを通るわけがないもの。本命は地下鉄よ」


「じゃ、じゃあなんで……! なんで俺たちをここに行かせたんですか!?」


俺は叫んだ。会長はキョトンとした顔で首を傾げる。まるで、何を怒られているのか理解できない子供のように。


「面白そうだったもの」


彼女は悪びれもせずに言った。


「貴方たちが必死に逃げ回って、踊って、死にかける姿……退屈しのぎにはちょうどいいエンターテイメントだったわ」


「……」


俺は膝から崩れ落ちた。怒る気力すら湧かない。このドS幼女にとって、俺たちの命も、騙されて死んでいった米兵の命も、壊れたガーディアンも、すべては紅茶のつまみに過ぎないのだ。


「さ、行くわよ。夜風が肌に悪いわ」


 アリスは銀髪を揺らし、(きびす)を返す。


「……え?」


俺は耳を疑った。今、なんと言った? 帰る、じゃない。行く?


「ちょ、ちょっと待ってください! 行くって、どこへ……?」


「決まっているでしょう?」


惨劇の跡地を後にする彼女は、振り返り様に邪悪な微笑みを浮かべた。


「本物の『箱』を取りに行くのよ……まさか、これで終わりだと思ったわけじゃないわよね?」


「あ……あぁ……」


俺はアスファルトに手をつき、乾いた笑いを漏らすしかなかった。


「……あはは……あはははは……」


ブラック企業? いや、そんな生温い言葉では表現できない。ここは地獄だ。

そしてあの銀色の髪をした少女こそが、この地獄の閻魔(えんま)大王なのだ。

佐藤健太の夜は、まだ明けない。本当の地獄は、これから始まるのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ