16.第十六話
人生には、「知らぬが仏」という言葉がある。真実を知らない方が幸せなこともある、という意味だ。
だが、今の俺――佐藤健太の状況においては、「知らぬが死」であり、同時に「知っていても地獄」という、救いのない二択しかなかった。
「……なぁ、氷室先輩」
決戦前夜。俺は、誰もいない給湯室で、コーヒーを淹れている氷室先輩に声をかけた。
明日は、いよいよアメリカ軍の輸送車列を襲撃し、特級呪物『箱』を巡る大芝居を打つ日だ。
胃が痛い。キリキリと痛む。
「なんですか、佐藤君。また逃げ出す算段ですか?」
「違いますよ。もう覚悟は決めました(給料のために)……ただ、一つだけ気になってることがあって」
俺は声を潜めた。事務所の奥、会長室(兼・会長の玉座)の方をチラリと見る。
「今回の作戦……本当に、会長に黙ってていいんですか?」
そう。今回の「給料防衛作戦」は、あくまで社員(下僕)たちの独断専行だ。
『会長の興味を箱から逸らすために、佐藤が囮になって派手なショーを見せる』というプランは、御堂アリス本人には知らされていない。
彼女には「明日はちょっと面白い映画がありますよ」とだけ伝えてある。
「もしバレたら、俺たち全員消されるんじゃ……」
「逆ですよ、佐藤君」
氷室先輩は、淹れたてのコーヒーを俺に手渡しながら、冷徹に言った。
「会長に事前に全てを伝えてしまえば、その時点で『予定調和』になります。会長は予定調和を何よりも嫌う」
「あー……」
「会長が愛するのは『サプライズ』と『ちゃぶ台返し』です。ギリギリまで伏せておき、当日に予想外の展開を見せることで初めて、彼女は満足するのです」
氷室先輩は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それに……最悪の場合を想定していますか?」
「最悪の場合?」
「ええ。『箱』の輸送、政府の動き、アメリカ軍の介入……これら全てが、最初から会長の掌の上だとしたら?」
俺は背筋が凍るのを感じた。あり得る。あの魔女なら、全部知った上で「泳がせている」可能性が高い。
「もしそうなら、私たちが小細工をしたところで無意味です……だからこそ、私たちは全力で『道化』を演じ切るしかないのです。会長が『合格』を出してくれるレベルまで」
詰んでいる。どう転んでも、俺たちは魔王の手のひらで踊るピエロだ。
「……分かりました。腹をくくります」
「よろしい。では、明日に備えて今日は早めに――」
と言いかけた時だった。事務所の電話が、けたたましく鳴り響いた。
こんな時間に? 氷室先輩が受話器を取る。
「はい、クライシス・クリーンサービスです……はい……ええ、会長へのご指名ですね?」
数秒の沈黙の後、氷室先輩の表情が曇った。
「……承知いたしました。ですが、本日は会長は不在でして……はい。代理の者でも構わない、と……分かりました。直ちに向かわせます」
受話器を置いた先輩が、俺の方を見た。その目は、「ご愁傷様」と言っていた。
「……仕事ですか?」
「ええ。六本木の高級タワーマンションから、特急の除霊依頼です」
「明日は決戦ですよ!? 断りましょうよ!」
「相手は政財界の大物です。無下にはできません。それに……」
氷室先輩は意味深に言葉を濁した。
「依頼内容は『部屋に変な女が出る』というありふれたものですが、報酬が破格です。300万」
「高っ! 怪しい!」
「ええ。明らかに『罠』の臭いがしますが……行かないわけにはいきません」
罠。このタイミングで罠ということは、十中八九、政府(局)の差し金だろう。明日の作戦前に、こちらの戦力を削いでおきたいという魂胆か。
「桃は温存したいですね。明日の主役(追跡者)ですから」
「じゃあ、まさか……」
「佐藤君。行ってください」
「やっぱり!?」
「ただし、一人ではありません……『物理無効』の相手には、最強の物理をぶつけるのが最適解です」
氷室先輩の視線が、筋トレルームのドアに向けられた。中から、「フンッ! ヌンッ! ライウェイベイベー!」という暑苦しい掛け声が聞こえてくる。
「……嘘でしょ」
「行ってらっしゃい。生きて帰ってくることを祈っています」
六本木、高級タワーマンションの最上階。東京の夜景を一望できるペントハウス。家賃だけで俺の年収を超えそうなその部屋の前に、俺たちは立っていた。
「……帰りたい」
俺は玄関前で呟いた。隣には、場違いなほど巨大な男が立っている。
神宮寺剛社長。彼は今日、最高級のタキシードに身を包んでいた。ただし、サイズが合っていないのか、背中の縫い目が今にも弾け飛びそうだ。
「シャキッとしたまえ佐藤君! 夜景の輝きも、私の筋肉の前では霞んで見えるぞ!」
「あんたのテカリ(脂汗)のせいだよ!」
「失敬な。これは『自家製オーガニック・オイル(皮脂)』だ」
社長はサングラスの位置を直し、インターホンを押した。ピンポーン。応答はない。だが、鍵は開いているようだ。
「失礼するぞ! マッスル・デリバリーだ!」
社長がドアを開ける。中に入った瞬間、むせ返るような甘い香りが鼻をついた。
「……なんだ、この匂い」
バラのような、ランのような。濃厚なフローラルの香り。だが、俺の『眼』は、その奥にある「腐臭」を捉えていた。
ただの芳香剤じゃない。これは、獲物をおびき寄せるための、毒の花の匂いだ。
「甘いな」
「ですね。霊的なフェロモンが充満してます」
「違う。プロテインのフレーバーの話だ。最近の『完熟マンゴー味』に似ている」
「黙れ筋肉脳」
俺たちは広々としたリビングに進んだ。間接照明に照らされた室内は、モデルルームのように洗練されている。
だが、人の気配がない。依頼人の「政財界の大物」とやらはどこにいるんだ?
「……あら、いらっしゃい」
不意に、艶めかしい声が響いた。リビングの奥、寝室のドアが開く。そこから現れたのは、息を呑むような美女だった。
透けるようなネグリジェを纏い、豊かな胸元を露わにしている。濡れたような黒髪、妖艶な赤い唇。
「お待ちしていたわ……ふふっ、随分と逞しい殿方ね」
美女は、熱っぽい視線を社長に向けた。その瞳には、怪しい光が宿っている。
「あなたが依頼人ですか?」
俺は警戒しながら聞いた。美女は答えず、ゆっくりと近づいてくる。一歩近づくごとに、甘い香りが強くなる。頭がクラクラする。
意識が霞む。この人、めちゃくちゃ綺麗だな……。あれ? 俺、なんで警戒してるんだっけ? こんな綺麗な人が、悪い人なわけないじゃないか……。
「……佐藤君」
野太い声で、意識を引き戻された。ハッとして横を見ると、社長が仁王立ちしていた。彼は美女の誘惑を、サングラス越しに無表情で見下ろしている。
「目が死んでいるぞ。糖質不足か?」
「ち、違います! 精神汚染攻撃です! 社長、気をつけてください!」
「ふむ。精神汚染だと?」
社長は鼻を鳴らした。
「そんな軟弱なものが、私の『マッスル・メンタリティ』に通用すると思ったか!」
「え?」
「筋肉は裏切らない。そして、筋肉もまた嘘をつかない! 私の大胸筋が、この女に対して『反応なし』と判定を下した!」
社長がビシッと美女を指差す。
「貴様、何者だ。その体から発せられるオーラは、人間のそれではない……例えるなら、そう、賞味期限切れのサプリメントの臭いだ!」
「……チッ」
美女の顔が歪んだ。美しい仮面が剥がれ落ち、その下から「本性」が露わになる。
「無粋な男ね……せっかく、苦しまずに溶かしてあげようと思ったのに」
美女の背中が割れた。脊椎から、巨大な蔦のような触手が何本も飛び出し、天井に突き刺さる。顔が裂け、鋭い牙が並ぶ巨大な花弁のような口が現れた。
「ひぃぃぃ!! 植物!? 人食い花だ!」
俺は腰を抜かした。悪霊じゃない。これは、呪術によって作られた「キメラ(合成獣)」だ。さっきの香りも、獲物を誘き寄せるための消化液の臭いだったのか!
「ハニートラップというやつか! だが残念だったな!」
社長は一歩も引かない。むしろ、嬉々としてタキシードのボタンに手をかけた。
「筋肉に効くトラップは、『ダンベルの重量詐欺』だけだ!」
社長が両腕を広げると同時に、タキシードが爆散した。高級生地が紙吹雪のように舞い散る中、現れたのはいつもの戦闘形態――ブーメランパンツ一丁の巨人。
「さあ、剪定の時間だ!」
「シャアアアア!!」
怪物が咆哮し、口から緑色の液体を吐き出した。消化液だ。
それが床に落ちると、大理石がジュウジュウと音を立てて溶けていく。
強力な酸。浴びれば骨まで溶ける。
「社長! 避けて!」
「避けん! 筋肉は逃げない!」
社長はポージングを取ったまま、真正面から酸のシャワーを浴びた。
終わった。社長が溶ける。そう思った瞬間。
信じられない音がした。酸が、社長の肌の上を滑り落ちていく。
皮膚を焼くこともなく、まるで水を弾くように、テカテカの筋肉の上を流れて床に落ちた。
「な……!?」
怪物が(たぶん驚きの表情で)動きを止める。
「フハハハ! 甘い! 今日の私は『耐酸性シリコンオイル』を三度塗りしている!」
「なんでそんなの持ってるんですか!?」
「常在戦場! ボディビルダーの肌は、常に最高の艶を保たねばならん!」
社長は無傷だった。いや、酸の熱でオイルが温まり、より一層輝きを増している。
「貴様の攻撃はそれだけか? ならば、こちらの番だな」
社長が踏み込む。その巨体が、砲弾のように怪物に肉薄する。
「食らえ! 物理的圧殺!!」
社長が両腕を広げ、怪物の本体(花弁の部分)を抱きしめた。ベアハグ。単純にして最強の締め技。
「ギ、ギィィィ……!」
怪物がもがく。触手で社長の背中を叩き、刺そうとする。だが、社長の背筋(広背筋)は鋼鉄よりも硬く、針が通らない。さらに、オイルで滑って力が伝わらない。
「私の大胸筋と広背筋のサンドイッチはどうだね!」
「ギ、ギャアアア……!」
怪物の体が、物理的にひしゃげていく音。植物の繊維が断裂し、霊的な構造が破壊されていく。
「佐藤君! 今だ! 弱点を見つけろ!」
「は、はい!」
俺は『眼』を凝らした。社長の腕の中でもがく怪物。そのドロドロとしたエネルギーの中心に、一際濃い淀みが見える。胸の奥。花弁の中心。
「胸だ! 胸の真ん中にある、赤い蕊みたいなやつ!」
「了解した! そこが急所か!」
社長はニヤリと笑い、さらに力を込めた。
「ならば、これでトドメだ! ……胸筋・バースト!!」
社長が、抱きしめたまま大胸筋を爆発的に膨張させた。パンプアップによる、ゼロ距離からの打撃。風船が割れるような音がして、怪物の胸部が弾け飛んだ。核が粉砕される。
「……ア、ガ……」
怪物は力を失い、ドロドロと崩れ落ちていった。ただの枯れた植物の残骸となって、床に広がる。
「……除霊、完了」
社長が残骸の上でダブルバイセップスのポーズを決める。
俺はへたり込んだ。終わった。精神攻撃も、溶解液も、全て筋肉とオイルで無効化するという、デタラメな勝利。
「ふぅ。いい汗をかいたな」
「……社長。服、どうするんですか」
「む?」
社長が足元を見る。そこには、酸で溶け、さらに爆散したタキシードの残骸があった。帰るための服がない。
「……走って帰るか」
「またですかぁぁぁ!!」
六本木の夜の街を、全裸(パンツ一丁)の巨人と、泣きそうな顔の男が疾走する。
通報されなかったのは、たぶん六本木の人々が「ああいうパフォーマンスか」と勘違いしてくれたおかげだろう。
翌日。決戦の朝。クライシス・クリーンサービス事務所には、緊張感が漂っていた。これから「箱」の強奪作戦が始まる。
俺は寝不足の目をこすりながら、装備(ジャージと運動靴)の確認をしていた。
「おはよう、おもちゃ」
会長室のドアが開き、会長が現れた。いつものゴスロリドレス。手には高級そうなタブレットを持っている。
「お、おはようございます会長!」
「昨夜はご苦労さま。六本木の件、聞いたわよ」
会長はソファに座り、ニヤニヤと俺を見た。
「ハニートラップだったんですって? どう? いい夢見れた?」
「悪夢ですよ! 溶解液吐く植物女でした!」
「あはは! やっぱりね。筋肉(社長)を連れて行って正解だったわ」
やっぱり? 俺は耳を疑った。
「……会長、知ってたんですか? あれが罠だって」
「当然でしょ。このタイミングで、そんな都合のいい依頼が来るわけないもの」
会長はタブレットの画面を俺に見せた。そこには、昨夜のマンションの監視カメラ映像が映っていた。俺たちが戦っている様子(主に社長の裸)がバッチリ映っている。
「政府の連中も浅はかね。明日の作戦の前に、ウチの主戦力(社長)を潰しておこうと思ったんでしょうけど……」
「相手が悪すぎましたね」
「ええ。筋肉バカに精神攻撃は通じないし、物理攻撃も効かない……あっちが悔しがってる顔、目に浮かぶようだわ」
会長は愉快そうに笑った。そして、ふと真顔になり、俺の目を覗き込んだ。
「ねえ、おもちゃ」
「は、はい」
「今日何か『隠し事』してない?」
ドキリとした。心臓が早鐘を打つ。バレてる? まさか。俺は必死にポーカーフェイスを作った(つもりだ)。
「か、隠し事なんて! 滅相もない! 今日はほら、溜まってる書類整理とか、掃除とか……」
「ふーん」
会長は興味なさそうに視線を逸らした。
「ま、いいわ……精々、私を楽しませてちょうだいね」
その言葉の意味を考える暇もなく、彼女は「散歩に行ってくる」と言って出て行ってしまった。
「……ふぅ。寿命が縮んだ」
俺はその場に崩れ落ちた。氷室先輩が給湯室から顔を出す。
「ナイス演技です、佐藤君……まあ、今の反応で『何かある』ことは確信されたでしょうけど」
「えっ、ダメじゃん!」
「いいえ。それでいいのです」
氷室先輩は不敵に微笑んだ。
「会長は『予感』を楽しんでいる……箱の中身が何であれ、今日という日が退屈な一日にはならないことを、確信して喜んでいるのです」
つまり、俺たちは既にステージの上に立たされているということだ。観客は一人。絶対的な支配者、御堂アリス。
「準備はいいか、新人」
桃が金棒を担いで現れた。彼女の目は、獲物を狩る獣のそれだ。
「ああ……やるしかないな」
俺は立ち上がった。給料のため。ボーナスのため。そして、この理不尽でクレイジーな日常を守るため。
「行くぞ! 『給料防衛作戦』、開始だ!」
俺たちは事務所を飛び出した。目指すは湾岸線。アメリカ軍の車列が通る、運命の交差点へ。
賽は投げられた。そして、その賽の目がどう出るかを知っているのは、おそらく神様と――性格の悪い魔女だけだろう。




