15.第十五話
世界には、触れてはならない「パンドラの箱」というものが存在する。開ければ最後、あらゆる災厄が飛び出し、希望だけが残るという神話のアレだ。
だが、現代社会において、希望すら残らない本当の絶望とは何か。それは、「給料日が来ないこと」である。
時刻は午後八時。新宿の雑踏から離れた、バー『Stray Sheep』。氷室澪は、いつもの席でアールグレイを前にしていた。その対面には、情報屋の佐久間。
彼は吸い殻の山ができつつある灰皿に、新たな一本を押し付けながら、声を潜めた。
「……確かな情報だ。第七艦隊は、明後日の未明に横須賀へ入港する」
佐久間の声には、珍しく緊張の色が滲んでいた。
「積荷は例の『箱』だ。アメリカ側も厄介払いができて清々してるらしい……受け渡しは極秘裏に行われるが、護送ルートはすでに『局』が確保している」
「そうですか」
氷室は表情を変えずに頷いた。だが、心中は穏やかではない。『箱』。戦後、GHQが持ち去り、長年封印されてきた特級呪物。
その正体は定かではないが、「対象を永久に隔離する」ための概念的な牢獄であると言われている。
「局の連中は本気だぜ、氷室ちゃん。あの『箱』を使って、御堂アリスを封印するつもりだ」
「……愚かな」
氷室は冷ややかに切り捨てた。
「会長が、古臭い木箱如きに後れを取るとでも? 物理的破壊であれ、呪術的解錠であれ、会長の前では積み木細工も同然です」
「ああ、俺もそう思う。正面からやり合えば、箱ごと東京湾に沈められて終わりだろうよ」
佐久間はバーボンを一口飲み、ニヤリと笑った。
「だがな……もし、あんたのボスが『自分から入りたがったら』どうする?」
氷室の手が止まった。カップを持ち上げようとした指先が、空中で硬直する。
「……なんですって?」
「奴らは知ってるんだよ。御堂アリスという怪物が、何よりも『退屈』を嫌うってことをな」
佐久間は指を二本立てた。
「『絶対脱出不可能』と謳われる最強の牢獄……退屈を持て余した魔女にとって、それは最高の暇つぶしに見えるんじゃねぇか?」
「ッ……!」
氷室の背筋に、冷たいものが走った。あり得る。いや、あの会長なら間違いなくやる。
『へぇ、面白そうじゃない。私を閉じ込められるか試してあげるわ』そんな台詞と共に、自ら箱の中に飛び込む姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。
「もし会長が箱に入り、内側から鍵をかけたら……」
「外からは開けられねぇ。会長自身が飽きて出てくるまで、数百年は封印されっぱなしかもな」
佐久間は肩をすくめた。
「ま、世界にとっては平和なことだ。魔王がいなくなれば、枕を高くして眠れる奴も多いだろうさ」
「……平和?」
氷室は立ち上がった。その瞳には、かつてないほどの焦燥と、決意の炎が宿っていた。
「ふざけないでください……それは、我が社にとって『死』を意味します」
彼女は伝票を掴み、足早に出口へと向かった。一刻の猶予もない。世界の危機などどうでもいい。もっと切実で、もっと重大な危機が、そこまで迫っているのだから。
一時間後。株式会社クライシス・クリーンサービス、事務所。普段なら帰宅している時間だが、今日は全員が招集されていた。
神宮寺剛社長。桃。そして俺、佐藤健太。重苦しい空気が支配する中、ホワイトボードの前に立った氷室先輩が、開口一番に告げた。
「単刀直入に言います……会社が、潰れるかもしれません」
その言葉の威力は、核弾頭並みだった。
「はぁ!?」
俺と桃の声が重なる。社長だけは「むぅ」と腕を組み、眉間にしわを寄せている。
「どういうことだよお姉様! ウチの経営は安泰だろ!? あのクソアマが五億ふんだくってきたばっかじゃねぇか!」
「資金の問題ではありません。トップの問題です」
氷室先輩は、情報屋から得た情報を簡潔に説明した。アメリカ軍が運んでくる『箱』のこと。
政府がそれを使って会長を封印しようとしていること。そして何より、会長自身が面白がって自ら封印されに行く可能性が高いこと。
「……なるほど。あのクソアマならやりかねねぇな」
桃が呆れたようにガムを噛む。
「でもよぉ、別にいいんじゃねぇの? どうせすぐ飽きて出てくんだろ。数日くらい留守にしてくれた方が、こっちものんびりできるしよ」
「甘いです」
氷室先輩が、指示棒でホワイトボードを叩いた。
「いいですか。会長が『箱』に封印された場合、法律上、彼女は『行方不明』もしくは『死亡』扱いになる可能性があります。そうなればどうなるか」
彼女はボードに大きく文字を書いた。
『資産凍結』
「……え?」
「会長の個人資産、および会社の銀行口座は、法的手続きにより凍結されます。つまり、引き出しが不可能になります」
「そ、それって……」
俺の顔から血の気が引いていく。氷室先輩は、死刑宣告のように告げた。
「給料が、止まります」
静寂。絶対零度の静寂が、事務所を支配した。
「……嘘、だろ?」
桃が口を開けたまま固まった。彼女の手から、食べかけのポテチが滑り落ちる。
「今月の給料だけではありません。夏のボーナスも、残業代も、危険手当も、全て未払いになります……会長が帰ってくるまでの数百年、ずっとです」
椅子が倒れる音がした。桃が立ち上がり、血走った目で叫んだ。
「ふざけんなァァァ!! 私のパンケーキ代はどうなんだよ!!」
「出ません」
「新作のゲームは!? 課金は!?」
「できません。無課金ユーザーとして生きてください」
「嫌だァァァ!! そんな地獄、耐えられねぇ!!」
桃が頭を抱えて絶叫する。鬼が地獄を怖がるという矛盾。だが、金のない現代社会は地獄よりも過酷だ。
「ま、待ってください氷室君!」
神宮寺社長が、脂汗を流しながら挙手した。その顔色は、いつもの健康的な小麦色ではなく、土気色になっている。
「わ、私のプロテイン代は……? 海外から取り寄せている、一キロ一万円の最高級ホエイプロテインは……?」
「経費での購入は不可能です。これからは、スーパーのきな粉で代用してください」
「きな粉ォォォォ!!」
社長が膝から崩れ落ちた。大の男が、しかも筋肉の塊が、床に突っ伏して慟哭している。
「筋肉が……私の筋肉が痩せ細っていく音が聞こえる……! 異化作用の足音が……!」
「お気の毒ですが、それが現実です」
氷室先輩は冷徹に言い放った。だが、俺は知っている。彼女のデスクの下、見えない位置で、拳が震えていることを。
彼女にもあるのだ。譲れないものが。推し活。彼女が密かに借りている、グッズ保管用のレンタル倉庫。その維持費と、来月発売される限定ブルーレイBOXの購入資金。
それらが全て、露と消える。
「……俺は?」
俺は恐る恐る聞いた。
「俺の借金はどうなるんですか? 会長がいなくなれば、チャラになったり……」
「なりません」
即答だった。
「借金の債権は、自動的に裏社会の取立代行業者へ委託されます。彼らは会長ほど甘くはありませんよ……即日、内臓を売られるでしょうね」
「ひぃぃぃ!!」
詰んだ。会長がいても地獄、いなくても地獄。だが、少なくとも会長がいれば、衣食住と最低限の給料(借金返済分を除く)は保証されている。つまり、俺たちが生き残る道は一つしかない。
「守るぞ……」
桃が、地獄の底から響くような声で唸った。彼女の背中から、どす黒いオーラが立ち上っている。
「私たちの給料を……パンケーキを……課金石を!! 何がなんでも死守するんだァァァ!!」
「うおおおお!! プロテインんんん!!」
社長も復活した。スーツを内側から弾け飛ばし、ブーメランパンツ一丁の戦闘形態へと変身する。
「アメリカ軍がなんだ! 政府がなんだ! 私の筋肉増強を阻む者は、神だろうと粉砕する!」
「そういうことです」
氷室先輩が眼鏡を押し上げた。レンズの奥で、瞳が冷たく、鋭く光る。
「全員の利害は一致しましたね……これより、対アメリカ軍・給料防衛作戦会議を始めます」
「で、どうすんだよお姉様」
桃が机に身を乗り出す。
「その『箱』ってのをぶっ壊せばいいのか? それとも、運んでくる船ごと沈めるか?」
「いえ。正面からの破壊工作はリスクが高すぎます」
氷室先輩は冷静に分析した。
「相手は第七艦隊です。いくら桃と社長でも、艦隊相手に戦争を仕掛ければ国際問題になります。それに、万が一『箱』を壊して中身が漏れ出せば、関東一円が汚染されます」
「むぅ、それは筋肉に悪いな」
「では、どうすれば?」
俺が聞くと、氷室先輩はホワイトボードに一枚の写真を貼り付けた。それは、盗撮された会長の写真だった。ゲームに興じ、お菓子を食べ、退屈そうにあくびをしている姿。
「諸悪の根源は、会長の『好奇心』と『退屈』です」
「……はい?」
「会長が『箱』に興味を持たなければいいのです。あるいは、『箱』以上にもっと面白いものが目の前にあれば、会長はそちらに夢中になるはずです」
氷室先輩は、赤いマーカーで会長の写真に丸をつけた。
「作戦目標は、『会長の目を逸らすこと』。敵が箱を輸送している間、会長の意識を別の方向へ釘付けにし、その隙に私たちが裏で箱を処理(奪取または破壊)します」
「なるほど! 陽動ってわけか!」
桃がポンと手を打った。
「で? 何を餌にするんだ? あのクソアマ、並大抵のことじゃ食いつかねぇぞ」
「ええ。生半可な娯楽では、特級呪物の魅力には勝てません……必要なのは、会長が心から愉悦を感じ、かつ予測不能なエンターテインメントです」
氷室先輩の視線が、ゆっくりと動く。社長へ。桃へ。そして最後に、俺へ。俺のところで、視線が止まった。
「……え?」
嫌な予感がした。背筋に悪寒が走り、冷や汗が吹き出る。なんだ、この視線は。値踏みするような、そして少しだけ憐れむような。
「佐藤君」
「は、はい!」
「貴方にお願いがあります」
「断ります!」
俺は即答した。ロクなことにならない。絶対にロクなことにならない。
「まだ何も言っていませんよ」
「分かりますよ! その目は、生贄を見る目だ! 俺を何かの餌にする気でしょう!」
「人聞きの悪い……『主役』にするだけです」
氷室先輩は、にっこりと微笑んだ。美しい笑顔だ。だが、その裏には「拒否権はない」という絶対的な圧力が隠されていた。
「会長が最も好むもの。それは、他人の不幸と、必死に足掻く人間の無様な姿です」
「性格悪っ! 知ってたけど!」
「特に、貴方のリアクションは会長のお気に入りです……そこで、今回の作戦では、貴方に『世紀の大逃走劇』を演じてもらいます」
氷室先輩が作戦の概要を語り始めた。
1.佐藤が「何かとんでもないヘマ」をやらかす(あるいは冤罪を被る)。
2.その結果、謎の組織(実はアメリカ軍)や殺し屋(実は桃と社長)に追われることになる。
3.佐藤は必死に逃げる。死に物狂いで逃げる。
4.その様子を、会長にライブ中継で見せる。
「名付けて、『新人君の決死圏』……会長はきっと、箱のことなど忘れて、貴方の逃走劇に夢中になるでしょう」
「死ぬわボケェェェ!!」
俺は絶叫した。
「なんで俺が!? 俺だけリスク高すぎませんか!? ていうか、殺し屋役が桃と社長って、ガチで殺されるじゃないですか!」
「安心しろ新人」
桃が俺の肩をポンと叩いた。その手には、不吉なほど力がこもっている。
「手加減はしてやるよ……骨の二、三本で済むように」
「してねぇよ! 全治数ヶ月コースだよ!」
「私も協力しよう!」
社長がマッスルポーズを決める。
「私の筋肉が、最高のハンターとして君を追い詰めよう! 恐怖こそが最高のアドレナリンだ! 君も一皮むけるチャンスだぞ!」
「剥けるのは皮じゃなくて命だよ!」
俺は逃げようとした。ドアに向かってダッシュする。だが、出口の前には、既に氷室先輩が立っていた。カチャリ。鍵をかける音。
「佐藤君」
彼女は真顔で言った。
「やるのですか? それとも、今ここで内臓を売りますか?」
「…………」
究極の二択。いや、選択肢ですらない。ショーの主役として踊るか、肉塊として出荷されるか。
「……給料」
俺は絞り出すように呟いた。
「え?」
「給料……出るんですよね? 危険手当、つくんですよね?」
「もちろんです。成功すれば、ボーナス査定も最高ランクをお約束します」
「……やります」
俺は膝から崩れ落ちた。魂を売った瞬間だった。金のためならプライドも命も投げ出す。俺も立派に、このブラック企業の社員に染まってしまったらしい。
「交渉成立ですね」
氷室先輩が満足げに頷く。
「では、作戦開始は明後日……それまでに、最高の脚本を用意しておきます」
翌日。嵐の前の静けさの中、俺は一人、公園のブランコに座っていた。ジャージ姿。手にはコンビニの缶コーヒー。傍から見れば、ただのリストラされたサラリーマンだ。
「はぁ……」
ため息が白い息となって消える。明日から、地獄が始まる。アメリカ軍の車列から「箱」を強奪するフリをして、囮になり、逃げ回る。
失敗すれば国際指名手配。成功しても会長のおもちゃ。詰んでいる。どう考えても詰んでいる。
「……よう。浮かない顔してんな」
隣のブランコが軋んだ。桃だ。彼女はいつものラフな格好で、ブランコを漕ぎ始めた。
「……桃か」
「なんだよ、遺書でも書いてたか?」
「書きたい気分だよ……お前らはいいよな。楽しそうで」
「あ?」
「社長は筋肉、お前は暴力、氷室先輩は推し活……みんな、生きる目的がある。だからあんな無茶苦茶な作戦でも、笑ってやれるんだろ」
俺は缶コーヒーを握りしめた。
「俺には何もない。ただ借金を返すためだけに、死ぬ思いをして……俺、何やってんだろうな」
弱音が漏れた。普段なら「うじうじしてんじゃねぇ!」と蹴り飛ばされるところだ。だが、桃は静かにブランコを揺らしていた。
「……まぁ、お前の言いたいことも分かるけどよ」
彼女は空を見上げた。
「何もないなら、これから拾えばいいんじゃねぇの?」
「え?」
「この会社は掃き溜めだ。社長も、お姉様も、私も、みんな一度は終わった人間(人外含む)だ……でも、今はこうして生きてる。楽しくな」
桃がニカっと笑った。その笑顔は、いつもの凶暴なものではなく、少しだけ仲間としての親愛が含まれている気がした。
「お前だって、もうウチの一員だろ……『佐藤健太』っていうコンテンツは、案外悪くねぇぞ。少なくとも、あのクソアマを笑わせる才能はある」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてんだよ……だから、死ぬなよ。明日は私が全力で追いかけ回してやるから、全力で逃げろ。捕まったら殺すけどな」
「結局殺すんかい!」
俺は思わずツッコミを入れた。桃がケラケラと笑う。つられて、俺も少しだけ笑ってしまった。
「……そうだな。やるしかないか」
俺は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱へ投げた。カラン、と乾いた音がする。
守るべきもの、それは給料。だが、それだけじゃないかもしれない。
このふざけた日常を、このイカれた仲間たちとの日々を、俺は案外気に入っているのかもしれない。
「よし! 帰るか!」
「おう。社長が『決起集会だ! 焼肉に行くぞ!』って騒いでたぜ」
「マジか! タダ飯なら食わなきゃ損だな!」
俺たちは立ち上がり、歩き出した。明日は決戦だ。
第七艦隊、政府のエージェント、そして御堂アリス。
全ての理不尽を相手取って、俺たちは全力で「茶番」を演じきる。
俺たちの給料を守るために。




