11.第十一話
平和とは、相対的な概念である。たとえば、銃弾が飛び交う戦場から帰ってきた兵士にとって、上司に小言を言われるだけのオフィスは天国だろう。だが、そのオフィスで「別の地獄」が進行している場合、話は別だ。
「わっかんねぇぇぇ!! なんでXとYが出てくんだよ! 数字だけで話せよ数字だけで!」
株式会社クライシス・クリーンサービス。いつもの事務所に、桃の絶叫が響き渡った。彼女は長机に向かい、頭を抱えてのたうち回っている。机の上には「高校数学Ⅰ・A」の参考書と、真っ赤に添削されたテスト用紙が散乱していた。
「静かにしなさい、桃。集中力が切れますよ」
彼女の横で、鬼の試験官――もとい、氷室先輩が冷ややかに告げる。手には指示棒(という名のハリセン)が握られており、桃が答えを間違えるたびに、スパン!と良い音が響くシステムだ。
「だってよぉ、お姉様! こんなの社会に出て何の役に立つんだよ! 因数分解とか、敵をバラバラにする時に計算すんのか!?」
「論理的思考力を養うためです。それに、これは会長命令ですから」
氷室先輩が顎でしゃくった先、革張りのソファには、優雅に紅茶を飲む御堂アリス会長の姿があった。
「そうよペット。赤点を取るような馬鹿に、私の仕事は任せられないわ」
「ぐぬぬ……!」
「次のテストで平均点を取るまで、現場への出動は禁止。ポリッシャーも没収よ」
「そ、そんな殺生な!」
桃が悲鳴を上げる。彼女にとって「仕事(暴れること)」と「ポリッシャー(相棒)」を取り上げられるのは、呼吸をするなと言われるのに等しい。
前回の「研究所壊滅作戦」での働きすぎが祟り、彼女は学校の出席日数と成績が壊滅的なことになっていたのだ。疲れたから、で結構サボっていたようだ。学校は行きなさい。
「自業自得だな」
俺――佐藤健太は、給湯室でコーヒーを淹れながら、高みの見物を決め込んでいた。いつもなら俺が貧乏くじを引く役回りだが、今日ばかりは桃がターゲットだ。ざまぁみろ。
「おい新人! 何ニヤニヤしてんだ! 手伝えよ!」
「嫌だよ。俺は文系だし」
「薄情者! 裏切り者! お前のジャージにカレーうどんの汁飛ばしてやる!」
「やめろ小学生か!」
平和だ。命の危険がないという意味で、この喧騒さえも愛おしい。だが、そんな俺の安息は、一本の電話によって打ち砕かれた。
「はい、クライシス・クリーンサービスです……はい……ええ、即日対応可能です」
氷室先輩が受話器を取る。数分後、彼女は受話器を置き、俺の方を見た。
「佐藤君、仕事です」
「えっ、今からですか?」
「はい。郊外の空き家で、近隣住民から異臭騒ぎの苦情が出ているそうです。行政からの下請け依頼ですね」
「なるほど」
珍しく真っ当なルートの仕事だ。俺はチラリと桃を見た。彼女は今、二次関数のグラフと格闘中で、とても使い物にならない。
「桃は無理ですね……となると、氷室先輩と俺で?」
「いえ。私は桃の監視がありますので」
氷室先輩は眼鏡の位置を直し、視線をずらした。その先には、筋トレルーム(給湯室の横のスペース)から出てきたばかりの、汗だくの巨人がいた。
「呼んだかね?」
神宮寺剛社長。両手にそれぞれ数十キロのダンベルを持ち、満面の笑みを浮かべている。
「……まさか」
「うむ! 私の出番のようだな!」
社長がダンベルを床に置く。床が揺れた気がしたが、多分気ののせいだろう。そうであってほしい。アレは人が持つもの……だよな?
「桃君が勉学という名のダンベルと戦っている間、現場を守るのは社長たる私の務め! 任せたまえ、佐藤君。今日の大胸筋は『ソロ活動のチャンス』だと張り切っている!」
「い、嫌だぁぁぁ!!」
俺は絶叫した。社長と二人きりの現場。それは「遭難」や「戦争」とは別のベクトルで、精神を削られる地獄なのだ。
「諦めな、新人」
桃がニヤニヤしながらこっちを見ている。
「社長の暴走ストッパーはお前の役目だ……ま、気をつけるこったな(主に精神衛生面で)」
「くそっ、覚えてろよ!」
俺は涙目で車のキーを掴んだ。物理的な死か、社会的な死か。この会社には、その二択しかないのか。
現場は、都心から一時間ほど離れたベッドタウンの一角にあった。築四十年ほどの木造二階建て。
かつては家族が住んでいたのだろうが、今は庭木が伸び放題になり、窓ガラスは割れ、外壁は蔦に覆われている。典型的な「幽霊屋敷」のビジュアルだ。
「……臭うな」
車を降りた瞬間、俺は鼻をつまんだ。腐った生ゴミと、湿ったカビを混ぜ合わせたような強烈な悪臭。
一般人にはただの「異臭」に感じるだろうが、俺の感覚には、それが霊的な「穢れ」であることが分かる。
「かなりの濃度ですね。家全体が腐ってる」
「ふむ。私の僧帽筋も告げているよ。『嵐の前兆だ』とな」
社長が車のトランクを開けながら頷く。彼は今日、ビシッとしたイタリア製の高級スーツを着ていた。サングラスも着用し、見た目だけなら「頼れる強面の実業家」だ。見た目だけなら。
「社長、今日の作戦は? 俺が汚れを見つけて、社長がそれを……どうするんですか?」
「案ずるな。プランはある」
社長はトランクから、業務用のバケツを取り出した。中には洗剤でも聖水でもなく、大量のボトルが入っている。
よく見ると、ラベルには『エクストラ・シャイニー・オイル』『激熱発汗ジェル』『ブロンズ・タンニング・ローション』と書かれていた。
「……何ですか、それ」
「必需品だ」
社長は真顔で答え、バケツを持って玄関へと向かう。俺も慌てて掃除道具を持って追いかける。
玄関の前。澱んだ空気が渦巻いている。普通なら、ここで結界を張ったり、お祓いをしたりする手順だろう。だが、社長は違った。
「佐藤君。少し離れていなさい」
「え?」
「このスーツは……高かったんだ」
社長がポツリと言った。次の瞬間、爆発音がした。
いや、違う。社長が全身の筋肉を一気に膨張させ、着ていたスーツを内側から弾け飛ばした音だ。ビリビリと高級な生地が悲鳴を上げ、ボタンが弾丸のように飛び散る。
「……は?」
俺が瞬きをする間に、目の前には「ブーメランパンツ一丁の巨人」が立っていた。スーツは残骸となり、地面に散らばっている。
「ふぅ……やはり、布という拘束具があると調子が出ないな」
社長は満足げに頷き、バケツからオイルを取り出した。そして、流れるような手つきで全身に塗りたくり始めた。
「待ってください! なんで脱ぐんですか! しかも玄関先で!」
「戦闘準備だ! 常識に囚われていては、悪霊になど勝てんぞ!」
「あんたが一番の非常識だよ!」
テッカテカ。春の日差しを反射して、社長の肉体が神々しいほどに輝いている。近隣住民が見たら即通報案件だ。いや、妖怪が出たと思われるかもしれない。
「よし、仕上がった……行くぞ、佐藤君」
「帰りてぇ……」
俺は死んだ目で、半裸の社長の後ろについて玄関をくぐった。
家の中は、外以上の地獄だった。昼間だというのに薄暗く、床が見えないほど濃密な「黒い霧」が立ち込めている。瘴気だ。吸い込むだけで肺が腐りそうなほどの。
「ケケケ……キヒヒヒ……」
壁のシミから、天井の角から、無数の嘲笑が聞こえてくる。低級霊の巣窟になっているようだ。
「歓迎されているようだな」
「されてませんよ。殺意MAXですよ」
俺は掃除機(霊的フィルター付き)を構え、周囲を警戒する。すると、霧の中から、不定形の黒い影が襲いかかってきた。人の顔をした泥のような塊。悪霊だ。
「ひぃっ! 出た!」
「慌てるな……ふんッ!」
社長が前に出る。彼は悪霊に向かって拳を振るう――のではなく、ポーズを取った。両手を組み、胸の前で力を込める。
「サイドチェスト!! エクソシズム!!!!!!!」
俺は目を覆った。光った。社長の筋肉が、物理的に発光したのだ。いや、正確には「大量にかいた汗と、塗りたくったオイルが、窓から差し込むわずかな光を乱反射させ、フラッシュのような閃光を放った」のだ。
「ギャアァァァァ!?」
悪霊が悲鳴を上げた。暗いジメジメした場所に巣食う彼らにとって、この強烈な「光」と、そこから放たれる圧倒的な「陽の気(暑苦しさ)」は、聖なる光以上の猛毒だったのだ。
「な、なんだ今の!?」
「マッスル・フラッシュだ! 私の筋肉は、あらゆる光を希望へと変換する!」
「ただの反射です!」
だが、効果は絶大だった。光を浴びた悪霊たちは、ジュワジュワと音を立てて蒸発していく。除霊ではない。殺菌だ。高出力の紫外線ランプを浴びせられたカビのように、悪霊たちが消滅していく。
「進むぞ! 私の広背筋が、二階にボスがいると言っている!」
「だからそのセンサーは何なんだよ!」
俺たちは一階を突破し(社長が歩くだけで霊が消えていく)、階段を駆け上がった。
二階の奥。主寝室だったと思われる部屋。そこに、「それ」はいた。部屋全体を覆いつくすほどの、巨大なヘドロの塊。
その中心には、無数の苦悶の表情が浮かび上がっている。この家の住人たちの残留思念と、土地の穢れが融合した集合体だ。
「オオオオオオ……!」
ボス悪霊が咆哮する。部屋が震え、窓ガラスが割れる。凄まじいプレッシャー。
桃なら金棒で粉砕するだろうし、会長なら指先一つで消滅させるだろう。だが、今の戦力は俺と、パンツ一丁の社長だけだ。
「社長! あれはヤバいです! 物理攻撃が効く相手じゃありません!」
「ふむ。流動体か。掴みどころがないな」
社長が顎を撫でる。その隙を突いて、悪霊が動いた。ヘドロの一部が触手のように伸び、社長の体に巻き付く。
「しまっ……捕まった!」
「社長!」
触手は社長の手足を拘束し、さらに首を締め上げようとする。物理的な力で引き千切ろうとしても、相手は液体だ。
暖簾に腕押し。しかも、そのヘドロは強力な酸性らしく、床板がジュウジュウと溶けている。
「ぐ、ぬぬぬ……! これは……効く……!」
「溶けますよ! 早く逃げて!」
「ノンノン、佐藤君。私が言っているのは『効く(トレーニング的に)』という意味だ!」
社長はニヤリと笑った。次の瞬間、あり得ないことが起きた。悪霊の触手が、社長の肌の上をズルリと滑ったのだ。
「ヌルッ!?」
悪霊が困惑の声を上げた(気がした)。締め上げようとしても、ツルツルと滑って力が逃げていく。
「無駄だ! 今日の私は『エクストラ・ヘビー・オイル』を三度塗りしている! その摩擦係数は限りなくゼロに近い!」
「ローション相撲かよ!」
社長の体は、完璧な撥水加工が施されていた。酸性のヘドロも、オイルの被膜に阻まれて皮膚に届かない。物理法則の敗北である。
「貴様の攻撃は通じない……ならば、次は私の番だな」
社長が全身に力を込める。血管が浮き上がり、筋肉が岩のように隆起する。彼が取ったポーズは、ボディビルにおける最も攻撃的なポーズ。
「モスト・マスキュラー!!! エクソシズム!!!!!!!!!」
衝撃波が発生した。比喩ではない。全身の筋肉を一瞬で収縮させたことにより、体表温度が急上昇。さらに、汗とオイルが気化し、高圧の蒸気が爆発的に発生したのだ。
「熱ッ!?」
俺は顔を覆った。サウナのロウリュを至近距離で浴びたような熱波。悪霊にとっては、たまったものではない。水分で構成された体は、高温の蒸気に晒され、一気に乾燥していく。
「ア、アガガガガ……!!」
「蒸発せよ! 不純物ども! これが私の『新陳代謝』だぁぁぁ!!」
社長がさらに力を込める。室温が五十度を超える。カビが死滅し、湿気が飛び、悪霊の水分が奪われていく。
数秒後。そこに残っていたのは、カラカラに干からびて、ひび割れた土塊のような「何か」だけだった。悪霊は、物理的に「乾燥」させられ、崩れ去ったのだ。
「……除霊完了」
社長がポーズを解く。湯気がもうもうと立ち上るその体は、茹でたての海老のように赤くなっていた。
「ふぅ。いいパンプだった」
「……もう、なんでもいいです」
俺は掃除機を下ろした。どこを見ても、この家の汚れは完全に消え失せていた。理屈は分からない。分かりたくもない。
ただ、一つだけ言えることは。筋肉は、霊的現象さえもねじ伏せるということだ。
帰路。俺たちは車を使わず、走って帰ることになった。なぜなら。
「入らん……」
社長が悲しげに呟いた。除霊(筋トレ)によってパンプアップした社長の体は、行きの時よりも二周りほど巨大化しており、予備の服はおろか、車の運転席にすら収まらなくなってしまったのだ。
「仕方ない。走って帰るぞ佐藤君! 有酸素運動のチャンスだ!」
「なんで俺まで! 車で帰らせてくださいよ!」
「バカモン! 君を置いていけるか! これはチームプレイだ!」
結局、俺は社長の並走(社長は軽いジョギング、俺は全力疾走)で、十キロの道のりを帰る羽目になった。
夕暮れの街を、テカテカの半裸巨人と、死にそうな顔のジャージ男が走る。通報されなかったのは、奇跡としか言いようがない。
数時間後。事務所にたどり着いた俺は、玄関マットの上で力尽きた。
「ただいま戻りました……」
「お、おう……生きてたか、新人」
桃が、勉強の手を止めて俺を見下ろす。その目は、いつになく優しかった。同情。憐憫。そして、少しの敬意。
「お前……老けたな」
「言うな……何も聞かないでくれ……」
俺は涙を流しながら天井を見上げた。体の節々が痛い。だが、それ以上に心が痛い。筋肉ハラスメント。略して筋ハラ。労災は下りるのだろうか。
「ハッハッハ! 心地よい疲労感だ!」
社長が元気よく入ってきた。彼はまだパンプアップが解けておらず、ドア枠に肩を擦りながら通過する。
「桃君! 勉強は進んでいるかね?」
「あ、ああ……まあな。二次関数が意味不明だけどよ」
「悩むことはない! 数学も筋肉と同じだ!」
社長が桃の机に近寄り、力こぶを作った。
「いいか! Xとは上腕二頭筋、Yとは上腕三頭筋だと思えばいい! この二つの相関関係を解き明かすのが方程式だ!」
「は? 何言ってんだ?」
「つまり、答えは常に『バルク(量)』にある! 迷ったら筋肉を信じろ!」
「うるせぇよ! 近寄んな! オイルがつく!」
桃が社長をハリセンで叩く。ベチョ、という嫌な音がして、桃が悲鳴を上げた。
騒がしい日常。俺は床に寝転がったまま、その光景を眺めていた。平和だ。悪霊も、科学者も、世界征服も関係ない。ただ、筋肉と数学とオイルがあるだけの、馬鹿馬鹿しい日常。
「……ま、悪くないか」
俺は目を閉じた。明日はきっと、筋肉痛だろう。でも、生きて帰ってこれただけで、今日は百点満点だ。




