7 オンディーヌ
*
自傷行為、ということになるのだろうか。フェイには良くあることで。そして、そうなる前から、その手のことは世の中に多くある。強いて言えば。フェイの身体は、通常の方法では傷を負っても直ぐに治ってしまう。
「……こんなことの為に、わざわざ日本に来たんですか? ご愁傷様です、姉さんに振り回されて」
どうせ、姉さんの差し金なのだ。そう思っていたのだが。
「君のお姉さんが、君のことを他人に任せると思う?」
言われてみれば確かにそうだ。
「まあ、確かに。頼みたいことがあるとは言われたけどね。……ミッドサマー、か。夏至の夜。なかなか洒落た名前だ。いや。……多分、名前の由来はシェイクスピアかな」
「……ミッドサマーの居場所を探すのと引き換えに、デートって、まさか……姉さんが押し付けたとかじゃなくて、本気だったんですか?」
「え……うん」
呆れて溜息が漏れる。四騎士ともあろうものが。脱力からしゃがみ込み──
「あ……」
──自分の間抜けさを思い知った。抜くのを、忘れていた。思わず腹部を抑えて、助けを求める視線をヴァイスへ向ける。ヴァイスは不思議そうに首を傾げ、だが直ぐに僕の状態に気付いたのか、意地の悪い笑みを浮かべた。
「……あの、ヴァイス、さん」
「んー……?」
「もう一度、光学欺瞞を……」
「いや。あれ、あんまり連続して使うと怒られるんだよ。微小機械のネットワーク容量を圧迫するから。だから、暫くは無理かな」
絶対嘘だ。膝を伸ばし、微かに脚を広げる。楽な姿勢を探る為に腰を動かしている僕を、ヴァイスは愉悦そうな表情で見ていた。
「……さて! デートの続きをしながら、ミッドサマーについて話そうか」
わざとらしい声色に、思わず手が出そうになるが、何とか堪える。殴り掛かっても、勝ち目はない。どうせ、途中に公衆トイレでもあるだろう。──いや。この公園には女性用トイレしかないのだが。流石にコンビニにはあるだろう。フェイのトイレ事情は、極めて複雑な状況にある。端的に言えば、旧男性用トイレの改修の費用と手間、女性のフェイに対する偏見と、旧社会と旧男性に対する恣意的な思想と左派フェミニズム運動などの複合した理由の為に。
「その前にコンビニに──」
「カフェに入ろうか」
「いや……コンビ──」
3
僕は、珈琲があまり得意ではない。嫌い、なのではなく。得意ではない。飲むと直ぐにお腹が痛くなるし、トイレが近くなる。奇妙なことだ。フェイはその気さえあれば、アルコールさえ瞬時に分解することが出来るのに。カフェインはそうではないらしい。尤も、これは恐らく、僕の個人的体質の問題らしい。
「飲まないの? あ、もしかして、ブラックは飲めな──」
「飲めます」
むしろ好きだ。カップに注がれた黒い液体は、香ばしい香りを漂わせている。確かに。良い店だ。もしかすると、此処も先の服屋と同じで、とんでもない値段なのではないかと疑ったが、メニューを見る限り、そこまで法外な値段でもない。豆の種類を考えれば、むしろ安い方だ。
──苦い。
「それで、ミッドサマーについてですが……」
「何から知りたい?」
「何から、って。まるで、もう調べ終えているかのような物言いですね」
「もう調べ終えているからね」
冗談なのか、本当なのか。ああ、勿論。本当なのだろう。どうやって、と問うのも馬鹿馬鹿しい。説明されてもどうせ理解出来ないのだ。アリスがいれば嚙み砕いて説明してくれたかもしれないが。
「では、ミッドサマーという組織の大まかな概要から、全てを。必要な情報は此方で取捨選択します」
「了解」
*
──と言っても。そう説明することは多くないんだ。ミッドサマーという組織は確かに存在している。自称革命軍。まあ、その手のカルト集団は、知っての通り、少なくない。ミッドサマーが他と違うのは、それなりの数のフェイが所属していることかな。それと結構な数の先天的機械言語話者が所属していることもか。
この手の解放運動に、フェイが直接参加することって、実はあまり多くないんだ。ほら、数年前の事件があったからね。そう、君のお姉さんが鎮圧に向かったやつだよ。それ以来、フェイの集会行為に対する社会の目も厳しいし。ミッドサマーみたいな大規模な演説も、それにフェイが集まっている現状も、共に特異と言えるね。
それに、日旦くんの話を聞くに、そのシャーロットという女性は、フェイのネットワークに干渉していたんだろう? その女性自身がウイザードかは分からないけれど、相当高位の術者が組んだプログラムが使われているのは間違いない。天使を従えている姿を見たという情報もある。戦力的には侮れないね。
ああ、それと。そのシャーロットという女性は広報係、とでも言うのかな。ミッドサマーが行うデモ活動には毎回彼女の姿がある。それとこれはどうでもいい情報かもしれないけど。彼女には弟が居たみたいだね。うん。つまり、今はフェイだ。それが彼女がミッドサマーに所属している理由なのかも。
存外に、大きな組織のようだよ。思ったよりも、厄介かもしれない。まあ……厄介と言っても、それはあくまで、穏便に済ませるなら、だけど。
そして……。組織の長は、クレール・クパブルという女性だ。本名……かは分からない。まるで、教祖のように崇められているらしい。彼女については……。かなり高度の情報欺瞞が施されていて、あまり探れなかったな。はは。私にも探れないことはあるよ。全能、というのはあくまでも徒名で、本当に全能なわけじゃないから。分かったのは、彼女がフランス人であることと、そして、シャーロットと同じように、彼女にも弟が居たということ。そのくらいだ。隠蔽が上手すぎて逆に怪しい。
ああそれと。特異点とやらについてなんだけど。実は思い当たる節があるんだ。マクスウェルという人工知能が──
*
「で、その人工知能は……。って、聞いてる?」
正直、限界だった。本当は途中で話を切ってトイレに立つ予定だったのだ。だが、微かな尿意を感じた辺りで、店員が丁度ケーキを持ってきて、それがあまりに美味しそうだったので、食べ始めてしまった。食べ終える頃にはそれが致命的な過ちだったと気付いたが。もう手遅れかもしれない。
「……トイレ」
「ああ……うん。行ってらっしゃい。フェイ用のトイレは外に出て、店の裏手だよ」
仕方ないとはいえ。店の中にはないのか。ああ。駄目だ。腹部が圧迫されているせいで、動いたら。動いたら、おしまいな気配がある。
「……助けてください」
「あー……ちょっと、待っててね」
ヴァイスが指先を虚空に走らせると、赤い光が無数の直線として走り、幾何学的な模様を描いては、消える。
「一歩も動けそうにない?」
「う……。分かりません。頑張れば……」
ヴァイスは困ったように笑って立ち上がると、僕の横に立って、脇の下に手を差し入れた。思わず身を竦める。……。
「……あー、ごめん。……うん。このままゆっくり立とうか」
ヴァイスの誘導に従って、立ち上がる。傍から見れば奇妙な光景だが、誰もこっちを見ていない。ヴァイスの光学欺瞞だろう。これだけの人数が居ても、完全に機能しているのかと感心する。普通、この手の欺瞞は特定方向にしか作用しないものなのだが。
などと。気を逸らしてみても。切迫した状況は少しも変わらなかった。
「……レジの人には見えてるから、気を付けてね。会計をしないといけないから」
「はい……」
レジの店員の女性は、僅かに濡れたショートパンツを隠す為にヴァイスにしがみついている僕を見て、何やら微笑ましそうな表情を向けてきた。いや、微笑ましそう、というには些か、陰湿さが滲んでいるようにも思えたが。ヴァイスは慣れた様子で会計を済ませている。常連なのだろう。
「此処の店長さん、旦那さんとラブラブだから。フェイに対してもそれなりに待遇いいんだよ」
店の外に出て、角を曲がる。なんとか、持ちそうだ。いや、言うならもう既に手遅れではあるのだが。この程度なら、水を溢したようなものだ。どうせ、フェイの排泄物は、真水なのだし。ああ、そうとも。まだセーフ──
などと。そんな考えを打ち砕くように。突然視界が真っ白に爆ぜた。