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8 支配の鳴弦


 唐突に背後に手を引かれ、倒れるように、座り込む。臀部から来た衝撃が、腹部を貫通して、頭に抜ける。鈍痛にも似た、それでいて、不快とも言い難い奇妙な感覚が、会陰の奥に響き、そして全ての感覚が崩壊した。


「大丈夫!?」


 ヴァイスの叫ぶ声が聞こえる。


「……大丈夫じゃないです」


「え? 怪我でも──」


「してないです。……。……。してないです……」


 丘の(au pied)(de la)には(colline)、小さな湖がある。そして、滴る雫が波紋を打つ。


「あ……あー……うん」


 ヴァイスが僕を庇うように前に出て、真昼間から地面を爆発させながら登場した不届きものを睨み付けた。……恐らくは。決して、僕の無様な姿から視線を逸らす為ではない筈だ。多分、きっと。


 空から降ってきたのは、天使だった。背に白い翼。赤の燐光はない。堕天使ではないようだ。治安維持を担っている守護天使だろう。見覚えはない。となれば、比較的新しい。天使は、困惑した表情で、ヴァイスを見て、そして、背後の僕を見て、それから、その無残な湖を見て、再びヴァイスを見る。


「……何故? 此処には、誰も、いなかったのに」


 困惑と共に呟かれた言葉に、僕は思わず小さく息を漏らした。ヴァイスの光学欺瞞は、天使の瞳さえ欺くのか。熱源探知も? ヴァイスも恐らく気付いたのか、慌てて光学欺瞞を解いて、申し訳なさそうに、頭を下げていた。


「貴方達、こんな場所で一体……? それもこんな高度な欺瞞迷彩を張って……」


「い、いや……」


 口ごもるヴァイスに思わず天を仰ぐ。疚しいことなどないのだから、きっぱりと答えてほしい。何かあるみたいではないか。


 天使の少女(少なくとも外見上と誕生してからの日数的には)は、ヴァイスを訝しそうに見ながらも、その横を通り抜け、しゃがみ込む僕に身を寄せた。下半身を隠そうとする僕の手を抑えて、彼女は宥めるように微笑む。


「怪我は?」


「怪我は、ないですけど」


「分かっています。驚かせてしまいましたね」


 まあ、そのことがなくても、とは言わないでおこう。そうとも。もしかしたら間に合ったかもしれないではないか。天使の少女は僕の内心には一切気付いた様子もなく、正しく、天使然とした態度と表情で、僕の髪を撫でた。まるで、粗相をした子供をあやすような──


「……」


 ここで手を振り払うとそれこそ子供まんまなので、逃げ出したい衝動を何とか堪えて、首を振る。


「それよりも、何かあったんですか? 守護天使……ですよね?」


「! ああ、そうだった。直ぐに速報が入ると思うけれど、貴方達も早く避難して」


「避難……?」


 そう、呟いた時だった。緊急プログラムが起動して、警告音と共に自動的に仮想窓が展開された。視界一杯に避難勧告と避難経路が描かれた地図が表示される。


「堕天使……三十体? 馬鹿な……」


 ヴァイスの言葉に、天使の少女は深刻そうな表情をして、頷いた。天使達は、人工知能達が自己の人格と能力の一部を複製し仮初の身体を与えた存在だが、彼女達と人工知能達の間には、大きな差が存在している。その最たるものが、感情だろう。人工知能達とは異なり、天使は有限の思考しか出来ない。それ故か、優れた知性と能力を持ちながらも、人工知能達とは違い、感情豊かだ。尤も、彼女達自身はそれを恥じている節があるのだが。


「私も直ぐに行かなくては。不覚を取ってこんな場所まで飛ばされてしまいましたが」


 地図に表示されている堕天使の位置は、此処から十キロは先だ。何をされたのかは分からないが、随分手痛い攻撃を受けたらしい。尤も、天使同士の戦いは過激になりやすい。対人に掛かっているリミッターが機能しないからだ。


 そう考えると、悪いことをした。安全な場所を選んで着地したのだろうに。これで僕が怪我でもしていたら、倫理回路に相当なストレスが掛かってしまっただろう。


「ヴァイスさん……どうしますか?」


「勿論、日旦くんの好きなように」


 *


 赤い光が立ち上り、それに続くように大気が爆発する。吹き飛ぶ瓦礫と共に、数機の天使達が路上へ無残に転がった。そのどれもが、下位三階に属する下級天使達だ。治安維持を任された天使達の末路は、大概、悲惨なものとなる。


「まさか、かの有名な白騎士だったとは……。それに……冥府(シェオール)


 僕達が現場に急行した時点で、場は既に混迷を極めていた。既に避難は完了しているようだが、これだけの規模の堕天が生じているのに、他の騎士(エージェント)の姿がない。


「……。成程」


「一人でキメ顔をしてないで、説明してくれますか?」


 現場まで同行してくれた天使(名は、サグメ)が飛んできた瓦礫を素手で弾き飛ばして守ってくれる。何やら一人でキメ顔をしているヴァイスの脇を小突きながら、僕は身を屈めて、真上に飛んできた光線を躱した。光線、と言っても、別に光速で飛んできているわけではない。むしろ、鉛玉の実弾の方が早いくらいだ。


「天使が堕天する最大の要因は、何か分かる?」


「ストレス。倫理的な優先順位の矛盾。社会の不完全さに伴う不可避的な悲劇に対する強い認識──」


「そう。詩的な言い方をするのであれば、痛みだ。痛みとは、正常性に対する警告」


 ヴァイスはそこで顔を顰めて、空を見上げた。僕も釣られて、空を見る。ヴァイスはまるで、空に何かが見えているかのように、視線で不可視を追っている。僕に見えるのは、空を舞う天使達と飛び交う赤い光線と、瓦礫。時折発生する空間の歪みとそれに伴う発光。圧縮された空気が放たれ、揺らぐ大気の波紋。そのくらいだ。だが、ヴァイスは違うらしい。首を傾げる僕に手を、サグメが引いた。


「歌です」


「……歌?」


「いえ。……厳密には詩、と言うべきでしょうか。堕天使が現れた時から、ずっと空に同じ波長の……人類に理解可能な適切な単語がありませんね……兎に角、〝波〟が流れていて。信じられないことに、白騎士様は、その波長を〝見ている〟ようです」


 僕はもう一度、空を見上げた。空には何も見えない。ふと、一人の天使と目が合った。手に稲妻を携えて、此方へ急降下してくる。僕は慌てて、攻勢術式のチャンネルを開いた。が、それより早く、サグメが矢のように飛び出して、強襲を掛けてきた天使を真上へ蹴り飛ばした。艦砲射撃かのような轟音が響き、一瞬で天使の姿が見えなくなる。


「ご無事ですか?!」


「ありがとう、助かりました」


「私は〝上〟で、奴らを蹴散らしてきます! どうかご無事で!」


 サグメは翼を羽搏かせ、空へ消えていく。天使同士の戦いというのは、相変わらず派手だ。対人では掛かっているリミッターがないというのもあるが、何より、やる気自体が違うようにも見える。


「日旦くん、少し下がっていて」


 不意に視線を下げたヴァイスが、何処か煩わしそうに、表情を歪めて言った。僕は何も問わなかった。ヴァイスが──白騎士が、どれだけの力を持っているのかを、僕は知っている。ヴァイスは空を一瞥し、矢を射るように、左手を前に、そして右手を引いた。光が弾け、空を穿ち、そして、諸々の騒音が消え失せた。


 空から天使が落ちてくる。

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