魔女、再び ―ほどける夜―
魔女姿の咲也と、そんな恋人にすっかり心を奪われてしまった湊。
二人の夜は、もう少しだけ続きます。
寝室に入ると、湊は咲也をそっとベッドに降ろした。
「……ありがとう」
「いえ」
――ようやく降ろしてもらえた。
ほっと息をついたものの、湊はまだすぐ近くにいた。
顔を上げると、目が合う。
「……蒼井くん?」
「はい」
穏やかな返事。
けれど、その視線は咲也から離れない。
ふと、同居を始めたばかりの頃を思い出した。
あの夜も、こうして湊にベッドまで運ばれた。
その少し前には、突然押し倒されて、どうなることかと思ったものだ。
結局、「冗談ですよ」と笑って離れていったけれど。
安堵と同時に覚えた、ほんのわずかな物足りなさ。
――あれから、随分経ったな。
今では、同じベッドで眠ることも当たり前になっている。
けれど、今夜は。
「……独り占めしたい。このまま攫ってしまいたいです」
先ほどの言葉が、まだ耳に残っていた。
――まさか。
今夜こそ、そのつもりなのか?
心臓が大きく跳ねた。
「いつになったら襲ってくれるんだよ。君は」
以前、自分からあんなことを言った。
今だって、その気持ちは変わっていない。
むしろ。
――期待しているのか、俺は。
そう思った途端、顔が熱くなった。
湊がそっと手を伸ばす。
頬に、温かな指先が触れた。
「……高宮さん」
「……ん?」
その声に、思わず息を止める。
湊は何か言いたげに、こちらを見つめていた。
ほんの少し、顔が近づく。
けれど。
「……今日は、お疲れだったんですよね」
「……え?」
「ソファで眠ってしまうくらい」
「あ、ああ……」
湊の指先が、頬をそっと撫でた。
「ゆっくり休んでください」
穏やかな声だった。
そして、手が離れる。
――またか、君は。
思わず苦笑する。
大切にしてくれているのは、分かっている。
その優しさが、嬉しくもある。
けれど。
――少しくらい、期待したっていいだろう。
寝室には、いつかのために用意したものだってある。
もちろん、今夜そうなるつもりでいたわけではない。
それでも。
――俺だって、君に触れたいんだがな。
そんなことを考えてしまう自分に、また顔が熱くなった。
――まったく。
どうかしてるな、俺も。
小さく息を吐いた、そのとき。
ふと、背中の違和感を思い出した。
――ああ、そうだった。
そもそも、まだ衣装を脱げないままだ。
「……蒼井くん」
「はい?」
「……悪いんだが、頼みがある」
「何でしょう?」
咲也は自分の背中を示した。
「……これ、脱ぐのを手伝ってくれないか」
「……え?」
湊が目を瞬かせた。
「背中の留め具が外れなくてな。さっきも試したんだが、どうにも手が届かなくて」
返事がない。
「……蒼井くん?」
「あ、はい」
珍しく、返事が少し遅れた。
「……僕が、ですか?」
「君しかいないだろう」
「……そう、ですね」
湊は口元に手を当て、ふいに視線を逸らした。
「……少しだけ、待ってください」
「どうした?」
「……心の準備を」
「……は?」
――何の準備だって?
そう思ったところで、ようやく気づいた。
――今、俺は何を頼んだ?
よりによって、この格好で。
恋人に、服を脱ぐのを手伝ってほしいと。
「……っ!」
かあっと顔が熱くなる。
「ち、違うぞ! 別に、変な意味じゃなくて!」
「……分かってます」
湊はそう答えたものの、まだこちらを見ない。
「分かってるんですけど……」
「……けど?」
「……好きな人の服を脱がせるのは、やっぱり緊張します」
湊の耳が、うっすら赤くなっている。
それに気づいて、咲也は思わず瞬きをした。
――ああ。
蒼井くんでも、こんな顔をするんだな。
いつも湊は余裕で、自分ばかりが振り回されていると思っていた。
けれど、そうでもないらしい。
不思議と、胸の奥がくすぐったくなった。
「……頼んでも、いいかな?」
そう尋ねると、湊はゆっくりこちらを向き、照れくさそうに笑った。
「……もちろんです」
* * *
咲也はベッドの端に腰掛け、湊に背を向けた。
「……この辺りなんだが」
肩越しに背中を示す。
湊が覗き込む。
「……なるほど」
背後で衣擦れの音がした。
ベッドがわずかに沈む。
どうやら、湊が身を乗り出したらしい。
「これ、編み上げになってるんですね」
「ああ。留め具だけかと思ったんだが、どうやら紐も緩めないと駄目らしい」
「……これ、どうやって一人で着たんですか?」
「……俺にもよく分からないんだよ」
着るときは随分と苦労したものの、どうにか一人で着ることができた。
まさか、脱ぐ方が難しいとは。
以前は着るのも脱ぐのも手伝ってもらっていたから、ちっとも考慮していなかった。
湊が小さく笑った。
「……咲也さんらしいですね」
「……どういう意味だ、君」
「いつもしっかりしてるのに、意外にうっかりしてるのも、可愛いなって」
「……からかわないでくれ」
咲也は小さく息を吐いた。
これ以上何か言われる前に、話を戻した方がよさそうだ。
「……じゃあ、頼む」
「はい。触りますね」
「ああ」
背中に、そっと指先が触れた。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。
「すみません。冷たかったですか?」
「い、いや。大丈夫だ」
湊が慎重に紐を緩め始める。
一つ、また一つ。
複雑に交差していた編み上げが、少しずつ解けていく。
時折、指先が肌をかすめた。
そのたびに、どうにも落ち着かない。
――ただ衣装を脱ぐのを手伝ってもらっているだけだろう。
そう自分に言い聞かせる。
けれど。
背後にいるのが湊だと思うと、それだけで妙に意識してしまう。
「……蒼井くん」
「はい」
「……大丈夫か?外せそうか?」
「ええ」
そう答えたあと、湊の手が止まった。
「……ただ」
「ん?」
「……少し、困っています」
「何が?」
返事がない。
不思議に思って振り返ろうとした。
「……待ってください」
「……え?」
「もう少しだけ、そのままで」
湊の声が、いつもより少し低かった。
咲也は動きを止める。
背中に触れていた指先が、そっと離れた。
「……すみません」
「……何を謝ってるんだ?」
「……綺麗で」
そこで言葉が途切れた。
「……こうして触れていると、どうにも落ち着かなくて」
その声には、いつもの余裕が感じられなかった。
どうやら、本気で戸惑っているらしい。
その不器用さを、とても愛おしく思った。
「……蒼井くん」
「はい」
「……俺も、緊張してるよ」
背後で、小さく息を呑む気配がした。
「……そうなんですか?」
「ああ」
咲也は膝の上で、そっと指を組んだ。
「……君だからな」
しばらく、返事はなかった。
やがて。
「……それは、ずるいです」
小さな声が聞こえた。
「……え?」
「そんなこと言われたら、もっと緊張します」
思わず振り返る。
目が合った。
湊は困ったように笑っていた。
その頬が、ほんのり赤い。
咲也もつられて笑ってしまった。
「……お互い様だな」
「……そうですね」
二人で、小さく笑った。
「……さて。あと少しですよ」
「ああ。頼む」
再び前を向く。
湊は残っていた編み上げを丁寧に緩め、最後に小さな留め具を外した。
「……外れましたよ」
「ああ。助かった。ありがとう」
ほっと息をつく。
これで、ようやく着替えられる。
そう思ったところで、ふと気づいた。
湊がまだ、すぐ後ろにいる。
「……蒼井くん?」
「……はい」
「……どうした?」
少しの沈黙。
それから、遠慮がちな声が返ってきた。
「……僕も、一つお願いしていいですか?」
「……何だ?」
「……抱きしめても、いいですか?」
咲也は目を瞬かせた。
攫ってしまいたいだの、大胆なことを言って、お姫様抱っこまでしたくせに。
今さら、そんなことを尋ねるのか。
そう思ったら、なんだか可笑しくなった。
「……ああ。いいよ」
小さく答える。
背後から、そっと腕が回された。
湊の胸が、服越しに背中に触れる。
強くはない。
けれど、離したくないと言っているような、優しい抱擁だった。
咲也はその腕に、そっと手を重ねた。
「……蒼井くん」
「はい」
「……ありがとう。手伝ってくれて」
すると、肩口に湊の額がそっと寄せられた。
「……こちらこそ」
いつもより少し小さな声だった。
咲也は目を閉じ、その温もりに身を預けた。
静かな寝室。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
――ああ。
幸せだな。
そんなことを思っていた、そのとき。
あることに気づいた。
「……あっ!」
「……どうしました?」
「そういえば、蒼井くん。ご飯食べてないじゃないか!」
「……ああ、そうでしたね」
「風呂もまだだよな」
「はい」
「……ごめんな。気づかなくて」
咲也は湊の腕から抜け出すと、緩んだ衣装を軽く整え、ベッドから立ち上がった。
「風呂入ってきな。飯、温めとくから」
「でも、高宮さん。
疲れてるでしょう?
先に寝ていていいですよ。ご飯は自分で温めますから」
「大丈夫、準備したらすぐ寝るから」
「ですが……」
「いいから、いいから。ほら」
咲也は湊の背中に両手を当て、ぐいぐいと寝室の出口へ押していく。
「ちょっ、高宮さん」
「風呂が先。ご飯はそのあとだ」
「……はい」
湊がくすくすと笑い始めた。
「……何がおかしいんだ?」
「……なんだか、お母さんみたいですね」
「なんだよ。悪かったな。お母さんで」
「いいえ。そういうところも愛しいんです」
「……っ!」
「いいから、さっさと入ってきなさい」
「はい」
湊は楽しそうに笑いながら、寝室を出ていった。
扉が閉まる。
咲也は小さく息を吐いた。
心臓がいくらあっても足りない。
そして、改めて自分の姿を見下ろした。
黒と紫のドレス。
ベッドの傍らには、大きなとんがり帽子が転がっている。
――まさか、こんなことになるとはな。
思い返せば、そもそもマイクが余計なものを持ち込んだのが始まりだった。
――まったく、あいつは。
そう思いながらも。
今は少しだけ、感謝してもいいような気がした。
咲也は小さく笑った。
――さて。
まずは着替えだ。
それから、蒼井くんのご飯を温めよう。
明日の朝は、何を作ろうか。
そんなことを考えながら、咲也は衣装に手をかけた。
今回は、いつも余裕のある湊の、ちょっと不器用な一面を書いてみました。
お互いに照れたり、緊張したり。
そんな二人を書くのは、やっぱり楽しいです。
そして最後は、魔女からすっかりお母さんに戻ってしまった咲也でした(笑)。
お読みいただき、ありがとうございました!




