第2話 また明日は、本当に来る
翌朝、葉月紘一は目覚まし時計より三分早く目を覚ました。
奇跡である。
いや、奇跡というほど大げさではないかもしれないが、少なくとも葉月家においては軽めの天変地異だった。紘一が自力で、しかも目覚ましより早く起きるなど、年に数回あるかないかである。
原因は分かっていた。
昨日の帰り道だ。
「また、明日」
姫月水無が、少し遅れてそう言った。
たどたどしくて、平坦で、挨拶というより、言葉の使い方を確かめているような声だった。
でも、確かに彼女自身が選んだ言葉だった。
その声が、妙に耳に残っていた。
「……別に、気にしてるわけじゃないけどな」
誰に向けるでもなく呟いて、紘一は布団から出た。
部屋の空気は昨日より少しだけ暖かい。
窓の外に雪はない。
昨日の春先の雪は、天気予報の言う通り、跡形もなく消えていた。道路にも屋根にも、白いものは残っていない。
降らなかったみたいに。
でも、降ったことは覚えている。
紘一は制服に着替え、洗面所で顔を洗った。
鏡の中の自分は、昨日より少しだけ寝癖が控えめだった。
「今日は勝ったな」
何に勝ったのかは分からない。
だが、朝の男子高校生はこういう小さな勝利を積み重ねて生きている。
台所に行くと、母さんが味噌汁をよそいながら振り返った。
「あら、今日は早いじゃない」
「まあな」
「どうしたの。熱?」
「息子の成長をまず疑うな」
「成長は疑ってないけど、紘一が朝早いのは疑うわよ」
「信用がない」
「実績の問題ね」
反論できなかった。
紘一は食卓につき、トーストではなく白飯を口に運んだ。今日は和食だった。昨日の焦げたトースト事件を受けて、母さんがトースターを信用しなくなったのかもしれない。悪いのはトースターではなく紘一なのだが、あえて訂正はしない。
「今日もマフラーいる?」
母さんが尋ねた。
「いらない」
「本当に?」
「昨日より暖かいし」
「誰かに何か言われた?」
その一言に、紘一は箸を止めた。
母さんは何気なく言っただけだろう。
けれど、昨日の教室で、自分が水無に言ったことを思い出した。
君はどうしたいんだ。
必要かどうかじゃない。
誰かに言われたからでもない。
君が、どうしたいかだ。
「……自分で決めた」
「そう。じゃあいいんじゃない」
母さんはあっさり頷いた。
紘一は少しだけ肩の力が抜けた。
自分で決める。
そんなの、普通は当たり前のことだ。
朝にマフラーを巻くかどうか。
昼に何を食べるか。
誰と帰るか。
また明日と言うかどうか。
でも、それが当たり前ではない人間がいる。
昨日、隣の席に来た少女は、たぶんそういう人間だった。
「……やっぱ一応持ってくか」
「あら、どうしたの」
「現地判断用」
「昨日と同じじゃない」
「昨日より進歩してる。今日は自主的に持つ」
「はいはい」
母さんは笑った。
紘一は鞄にマフラーを押し込み、家を出た。
◇
通学路には、昨日の雪の名残はなかった。
ただ、道端の桜は少しだけ散っていた。濡れた花びらがアスファルトに貼りついている。
昨日、水月が「雪みたい」と言った花びらだ。
水無は、それを真面目に見ていた。
雪は白いです、と言った。
それから、消えるものは価値が低いのではありませんか、とも言った。
紘一は歩きながら、その時の水無の顔を思い出した。
分からないものを、分からないまま見つめている顔。
答えを急いでいない顔。
いや、急げない顔。
たぶん、あの瞬間から少し変わったのだ。
水無だけではない。
紘一も。
水月も。
昨日まで存在しなかった「三人で帰る」という出来事が、今日の朝にはもう、少しだけ続きのあるものになっている。
その感じが、妙にくすぐったかった。
「紘一~」
後ろから声がした。
振り返る前から分かる。
皆瀬水月である。
昨日と同じように小走りで追いついてくる。違うのは、今日は弁当袋とは別に、小さな包みを持っていることだった。
「おはよ」
「ああ。おはよう」
「今日、早くない?」
「たまたまだ」
「嘘だ」
「なんでだよ」
「紘一がたまたま早い日は、だいたい何かある」
「幼馴染の観察眼が嫌な精度してる」
「幼馴染ですから」
水月は少し得意げに笑った。
その笑顔は、昨日の帰り道と同じだった。
また明日。
その言葉の通り、本当に今日が来た。
当たり前のことなのに、水月がそこにいるだけで、昨日の続きが始まったような気がした。
「それ、何?」
紘一は水月の持つ包みを指差した。
水月は一瞬だけ目を逸らした。
「別に」
「お前の別には別にじゃない」
「紘一に言われたくない」
「それもそう」
水月は少し迷ったあと、包みを胸元に抱え直した。
「おかずだよ。ミートボールとか」
「やっぱりな」
「やっぱりって何」
「昨日の時点で予想できた」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
「うわ、ちょっと悔しい」
水月はむっとした顔をした。
だが、すぐにその表情が柔らかくなる。
「昨日、水無ちゃんが『また明日』って言ったでしょ」
「ああ」
「だから、今日もある方がいいかなって」
「ミートボールが?」
「うん」
「また明日とミートボールが直結するの、なかなかすごいな」
「だって、昨日の昼休みに食べたし」
「それはそうだけど」
「それに、水無ちゃん、嫌じゃなさそうだったから」
水月は何気なく言った。
嫌じゃなさそうだった。
昨日の水無の表情は、ほとんど変わっていなかった。
ミートボールを食べても、「味が濃いです」「不快ではありません」と言っただけだ。
それでも水月は気づいていた。
水無が嫌がっていないこと。
たぶん、少しだけ受け取ってくれたこと。
そういう小さな反応を、水月は拾う。
放っておけない病。
昨日、クラスの女子がそう茶化していた。
けれど紘一は、それだけではないと思う。
水月は放っておけないだけではない。
放っておかなかった後のことも、ちゃんと覚えている。
「おかず多く入れてきたのか」
「うん」
「理由聞かれなかったのか」
「聞かれた」
「何て答えたんだよ」
「転校生の子にあげるって」
「そしたら?」
「『あら、水月また放っておけない病?』って言われた」
「母親公認なのか、その病気」
「病気じゃない」
「本人も認めないんだな」
「当たり前でしょ」
水月は少し照れたように頬を膨らませた。
「でも、いいんだよ。私がそうしたいんだから」
昨日と同じ言葉だった。
私がそうしたいから。
水月にとって、それは難しい理屈ではない。
誰かが困っているように見えた。
だから手を伸ばした。
また会う約束をした。
だから多く持ってきた。
それだけだ。
その単純さが、紘一にはときどき眩しい。
「水無、来ると思うか?」
紘一が何気なく言うと、水月は目を丸くした。
「学校に?」
「ああ」
「来るでしょ」
「断言するな」
「だって、また明日って言ったし」
「それだけで?」
「それだけで」
水月は当然のように言った。
その顔を見て、紘一は少しだけ笑った。
「お前、約束に対する信頼が強すぎないか」
「そう?」
「そう」
「紘一は弱すぎるんだよ」
「俺?」
「うん。約束って、破られるかもしれないって考えるより、守るつもりでいる方がいいじゃん」
「まあ……そうかもしれないけど」
「それに」
水月は少しだけ声を落とした。
「水無ちゃん、昨日の『また明日』、頑張って言ってたから」
紘一は黙った。
水月も、やっぱり気づいていた。
あのたどたどしい挨拶が、水無にとってただの挨拶ではなかったことを。
「じゃあ、こっちもちゃんと明日にしないと」
水月は包みを軽く持ち上げた。
「それでミートボールか」
「ミートボールでストライク。私の決め球」
「いい話なのか、弁当の話なのか分からなくなってきた」
「どっちも大事」
水月は笑った。
その笑顔を見ながら、紘一は思った。
水月は、こういうところで絶対に間違えない。
大げさにしない。
特別扱いしすぎない。
でも、ちゃんと覚えている。
きっと水無に必要なのは、そういう普通なのだ。
特別な救いではなく。
当たり前みたいに続く、昼休みのミートボール。
◇
教室に入ると、姫月水無はすでに席にいた。
背筋を伸ばし、机の上に教科書とノートをきっちり揃えている。
昨日と同じ席。
昨日と同じ姿勢。
昨日と同じ黒い髪。
本当にいた。
また明日は、本当に来た。
そんな当たり前のことに、ほっとしている自分が少しおかしかった。
「おはよう、姫月」
紘一が言うと、水無は顔を上げた。
「おはようございます、葉月さん」
返事は相変わらず丁寧だった。
けれど、昨日より一拍だけ早い気がした。
たぶん気のせいだ。
でも、そう思いたかった。
水無は紘一を見て、それから教室の入り口の方へ視線を向けた。
「水月さんは」
「隣のクラスだろ。朝からここには来ないと思うぞ」
「そうですか」
水無は小さく頷いた。
そして、ほんの少しだけ視線を落とす。
その動きに、紘一は引っかかった。
「気になるのか?」
「何がですか」
「水月が来るかどうか」
水無は少し考えた。
「昨日、水月さんは『また明日』と言いました」
「言ったな」
「葉月さんも言いました」
「言った」
「私も言いました」
「ああ」
「その場合、今日、水月さんが来る可能性は高いと判断していました」
「可能性」
「はい」
水無は真面目な顔で続ける。
「ですが、来る時刻については不明です」
「昼休みだろ」
「昨日と同一条件であれば、昼休みです」
「たぶんそうだな」
「たぶん」
水無はその言葉を小さく繰り返した。
昨日、帰り道で紘一が言った言葉だ。
高校生の言うことなんて、だいたいたぶんだろ。
水無はそれを覚えていたらしい。
「たぶん、昼休み」
「そう。たぶん昼休み」
「では、待機します」
「待機って言うと急に物々しいな」
「では、待ちます」
紘一は少しだけ笑った。
「それでいいんじゃないか」
水無は頷いた。
「待ちます」
その声は、昨日より少しだけ自然だった。
誰かに言われたからではない。
必要だからでもない。
水月が来るかもしれない。
だから待つ。
たったそれだけのことだった。
けれど、水無にとっては、新しい行動なのかもしれない。
「葉月さん」
「何?」
「約束とは、来ることを信じて待つ行為を含みますか」
「いきなり難しいな」
「難しいですか」
「朝一で聞くには重い」
「では、昼に聞きます」
「そういう意味じゃない」
水無は首を傾げた。
紘一は少し考えた。
適当に流すこともできた。
でも、水無の質問はいつも、本人にとっては本気だ。
笑えるくらい真面目で、面倒なくらい真剣だ。
だから、雑に扱うのは違う気がした。
「まあ、含むんじゃないか」
「含む」
「来るって言った相手を待つ。待ってる方も、来ると思ってる。そういうの込みで約束なんじゃないか」
「来なかった場合は?」
「事情による」
「場合による?」
「そう。場合による」
水無は小さく頷いた。
「人間は、場合による生き物」
「昨日の俺の雑な発言を定義みたいに使うな」
「違うのですか」
「違わないかもしれないけど」
紘一は頭をかいた。
「でも、約束したなら、守ろうとはするだろ。少なくとも水月はそういうやつだ」
「水月さんは、約束を守る人ですか」
「たぶん」
「たぶん」
「いや、かなり」
「かなり」
「あいつは来るよ。ミートボール持って」
水無は瞬きをした。
「ミートボール」
「持ってくると思うぞ」
「どうしてですか」
「昨日、お前が食べたから」
「私は、不快ではないと述べました」
「水月にとっては、それで十分なんだろ」
「……十分」
「たぶん、あいつは今日も持ってくる」
水無は黙った。
黒い瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「今日も」
「ああ」
「昨日と同じことが、今日も発生するのですか」
「発生って言うな。自然災害みたいだろ」
「では、昨日と同じことが、今日も起こるのですか」
「起こるんじゃないか」
「そうですか」
水無は机の上のノートに視線を落とした。
その横顔は、相変わらず静かだった。
けれど、昨日の静けさとは少し違う。
ただ何もない静けさではない。
何かを待っている静けさだ。
紘一はそれを見て、ふと思った。
水無は、昨日の続きを待っている。
それはつまり。
昨日を、続いてほしいものとして覚えているということではないか。
「姫月」
「はい」
「水月が来るかどうか気になるなら、昼まで気にしてればいいんじゃないか」
水無が顔を上げる。
「気にしていて、よいのですか」
「誰かに迷惑かけるわけじゃないだろ」
「授業への集中が低下する可能性があります」
「それはまあ、ほどほどにしろ」
「ほどほど」
「完璧に待たなくていいってこと」
「待つことに、完璧と不完全があるのですか」
「今、俺が定義を作った」
「作った」
水無の目が丸くなる。
「言葉なんて、だいたいその場でどうにかなる」
「危険な運用です」
「人間は危険な運用で回ってるんだよ」
水無は真剣に考え込んだ。
その顔がおかしくて、紘一は少し笑った。
「まあ、要するに」
紘一は言う。
「待ちたいなら待てばいい。でも、待たなきゃいけないわけじゃない。そこは姫月が決めればいい」
「私が」
「ああ」
昨日の時のように、強くは言わなかった。
水無も、責められたような顔はしなかった。
ただ、その言葉を受け取って、少し考えた。
「では」
水無は静かに言った。
「待ちたいかどうかは、まだ分かりません」
「うん」
「ですが、水月さんが来るかどうかを確認したいです」
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
「はい」
水無は小さく頷いた。
「確認します」
紘一は笑いそうになった。
昨日より少しだけ、言い方が柔らかい。
昨日なら「確認します」は、任務のように聞こえた。
今日は、ほんの少しだけ、期待のように聞こえた。
◇
朝のホームルームが始まる前、教室の何人かが水無の周りに集まった。
昨日より人数は少ない。
転校生というものは、一日で珍しさが少し減る。
ただし、水無の場合は別の意味で注目されていた。
「姫月さん、おはよ」
「おはようございます」
「今日も真面目だねー」
「真面目とは、規則や態度に対する評価ですか」
「出た」
「朝からどうして病」
女子たちが笑う。
昨日より、笑い方が少し柔らかい。
水無は少しだけ首を傾げた。
「私はまだ『どうして』とは言っていません」
「確かに」
「じゃあ予備動作?」
「どうして病の構え」
「何だよそれ」
紘一が横から突っ込むと、女子たちが笑った。
水無は真剣に紘一を見る。
「葉月さん。私は構えていますか」
「構えてない」
「では、予備動作とは」
「たぶん冗談だ」
「冗談」
水無は少しだけ目を伏せた。
「笑っていいものですか」
「たぶん」
「また、たぶん」
「万能なんだよ、たぶんは」
水無は小さく頷く。
「たぶん、笑っていい」
そして、口元をほんのわずかに動かした。
周りの女子たちが一瞬黙る。
「……今の、笑った?」
「笑ったよね?」
「え、ちょっと可愛いんだけど」
「可愛い、とは」
「また聞いた」
教室に笑いが起きた。
水無は不思議そうにしている。
けれど、昨日のように完全に外側にいる感じではなかった。
笑いの中心にいて、少し戸惑いながらも、その場に残っている。
紘一はそれを見て、少しだけ安心した。
その時、後ろの男子が声をかけてきた。
「葉月、今日も委員の仕事あるの?」
「あるらしい」
「らしいって何だよ、委員だろ」
「仮決定だ」
「まだ言ってる」
「俺の意思確認が曖昧だからな」
「出た、『どうしたい病』」
「感染するぞ」
「だから病気扱いするな」
教室がまた少し笑った。
水無が紘一を見る。
「葉月さん」
「何?」
「葉月さんは、クラス委員をやりたいのですか」
教室が少し静かになった。
昨日、紘一が水無に聞いたことを、今度は水無が紘一に聞いている。
紘一は少しだけ面食らった。
水月がいれば、たぶん横でにやにやしていただろう。
「……分からない」
紘一は正直に答えた。
「分からないのですか」
「面倒だとは思ってる」
「はい」
「でも、誰かがやらなきゃいけないなら、まあ、やってもいいかとも思ってる」
「それは、やりたいとは違いますか」
「違うな」
「では、どうしてやるのですか」
「誰かがやるなら、俺でもいいと思ったから」
言ってから、紘一は少しだけ肩をすくめた。
「あと、昨日あれだけ言った手前、逃げると格好悪い」
「格好悪い」
「そこは記録しなくていい」
「記録はしていません」
「本当か?」
「記憶しています」
「もっと厄介だった」
周りが笑う。
水無は少し考えてから言った。
「では、葉月さんは、自分で決めたのですね」
紘一は少しだけ黙った。
そして頷いた。
「まあ、そうなるな」
「そうですか」
水無は小さく頷いた。
「私も、昨日、自分で決めたことになりますか」
「なるんじゃないか」
「分からないから確認したい、という判断でも?」
「ああ」
紘一は少しだけ笑った。
「分からないまま試す、って決めたんだろ」
水無はその言葉を受けて、何かを確かめるように目を伏せた。
「分からないまま、試す」
「うん」
「それは、許容されるのですね」
「されるだろ」
「そうですか」
水無は静かに頷いた。
その顔は、昨日よりほんの少しだけ穏やかに見えた。
紘一は窓の外を見た。
空は薄く晴れている。
昨日の雪は、もうどこにもない。
けれど、昨日から続いているものはある。
水無が隣に座っていること。
水月が昼に来るかもしれないこと。
ミートボールが一つ増えているかもしれないこと。
そんな小さなことが、今日の教室にちゃんと続いている。
チャイムが鳴った。
午前の授業が始まる。
水無は前を向いた。
紘一も教科書を開く。
昼休みまでは、まだ少しある。
けれど、昨日とは違う。
今日はもう、待っているものがある。
そのことを、たぶん水無も知っている。




