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第一話 君はどうしたい?


 四月に雪が降るとか、正直やめてほしい。


 雪そのものに罪はない。


 白いし、ふわふわしているし、たぶん小学生なら校庭に飛び出していく。女子なら「わあ、きれい」とか言うかもしれない。実際、そういう反応をできる人間は人生が少しだけ豊かそうだ。


 だが、高校二年生の朝に降る雪は、だいたい迷惑である。


 寒い。

 眠い。

 靴下が湿る。

 自転車のサドルが濡れる。

 そして何より、布団から出る理由がこの世から消滅する。


「紘一ー、遅刻するわよー」


 台所から母さんの声が飛んできた。


「してない。まだ猶予ある」


「猶予って言ってる時点で危ないのよ」


 それはそう。


 葉月紘一は、洗面所の鏡の前で寝癖と戦っていた。


 右側の髪だけが、妙な角度で跳ねている。寝ている間に誰かが接着剤でも塗ったのではないかと思うほど、直らない。


「……もういいか」


 よくない。


 だが、人生には諦めも必要だ。


 高校二年にもなって寝癖ごときに一日を支配されたくはない。


 紘一は制服に袖を通し、食卓についた。


 テレビでは、やたら爽やかな顔の気象予報士が言っていた。


『関東地方では、朝のうち一時的に雪の混じるところがあるでしょう。ただ、積もるほどではなく、昼前には雨に変わる見込みです』


 積もらない雪。


 降る意味あるのか、それ。


 そんな失礼なことを思いながら、紘一はトーストをかじった。少し焦げている。犯人は自分だ。昨日、トースターのつまみをいじったまま戻すのを忘れていた。


「マフラーしていきなさい」


 母さんが言った。


「四月だぞ」


「四月でも寒い日は寒いの」


「でも雪は積もらないって」


「積もらない雪でも寒いものは寒いの」


 完璧な論破だった。


 朝から母親に負けると、一日が低空飛行で始まる。


 紘一は黙って牛乳を飲み、椅子の背にかけてあったマフラーを鞄に突っ込んだ。


「ちゃんと巻きなさいよ」


「現地判断で」


「何の現場なの」


 自分でも分からない。


 玄関を出ると、冷たい空気が遠慮なく顔にぶつかってきた。


「……寒っ」


 負けた。


 完全に母さんが正しかった。


 だが、ここで戻ってマフラーを巻くのは、なんとなく負けを認めるようで嫌だった。もう負けているのだが、男子高校生にはそういう面倒くさい見栄がある。


 空から落ちてくる白い粒は、雪というには頼りなく、雨というには少しだけ白かった。


 地面に触れると、すぐ水になる。


 積もる気配なんて、最初からない。


 それでも確かに、今この瞬間だけは降っている。


 そんな半端な雪を見ながら、紘一は通学路を歩き出した。


     ◇


「おはよ、紘一」


 校門の少し手前で、聞き慣れた声がした。


 振り返る前から分かる。


 皆瀬水月。


 小学校からの幼馴染であり、こちらの都合をだいたい無視して生活圏に現れる人間である。


 性格は、顔が少しカエルに似ていると昔言ったことがあるが、その後のことが記憶に残らないほどボコボコにされたという事実だけ記憶している。狂暴ゆえに立ち入り注意と言いたいところだが、向こうからズカズカと踏み込んでくるのだから熊よりも質が悪い。


 そんな幼馴染女子が、天然の茶色がかったボブヘアを揺らしながら、小走りで追いついてきた。


「寒くない?」


「寒い」


「マフラーは?」


「鞄の中」


「なんで?」


「現地判断の結果、まだ早い」


「今が現地だよ」


 たしかに。


 水月は呆れた顔で紘一の鞄を指差した。


「巻けばいいじゃん」


「今巻いたら、家を出る前の母さんに負けたことになる」


「ちっちゃ」


「男にはな、負けられない戦いがあるんだよ」


「その戦い、たぶん誰も観戦してないよ」


 それはそう。


 紘一が返事に困っていると、水月はくすくす笑った。


 昔からそうだ。


 水月は、こちらが真面目にくだらないことを言うと、ちゃんとくだらないものとして笑ってくれる。突っ込みが欲しくなくても、茶々を入れてくれる。変に気を遣わない。変に持ち上げない。だから一緒にいて楽だった。


 楽すぎて、たまに困る。


「そういえばさ」


 校門をくぐりながら、水月が声を潜めた。


「今日、転校生が来るって噂、聞いた?」


「四月に?」


「うん。しかも女子」


「へえ」


「反応うす過ぎ」


「じゃあ何? ここで踊ればいいのか?」


「そこまでは求めてないけど。もうちょっとあるでしょ。


マジかよ、美少女転校生イベントじゃん!とか」


「お前は何の世界に住んでるんだ」


「ライトノベル的な世界」


「現実に帰ってこい」


「現実にも美少女転校生くらいいるかもしれないじゃん」


「いたとしても俺には関係ないだろ」


 言った瞬間、水月が少しだけ黙った。


 ほんの一秒。


 たぶん他の誰かなら気づかないくらいの間。


 でも、紘一には分かった。


 水月の「ちょっと言いたいことがあるけど、言うと面倒になるから飲み込む」時の沈黙だ。


 そして目を細めながら、一言だけつぶやいた。


「……ふーん」


「なんだよ」


「別に」


 出た。


 水月の「別に」は、だいたい別にじゃない。


 ただ、ここで踏み込むと朝から長くなる。下手をすれば一時間目の前に精神力を使い切る。紘一は賢明にも黙ることにした。


 昇降口で靴を履き替える。


 水月の教室は別の階だ。


「じゃ、お昼行くから」


「毎日来る気か」


「嫌?」


「いや」


 反射で答えてから、「あっ」と思った。


 これで水月に何か思うところがあるとか、そういうことではないが、少しだけ気まずくなった。


「……まあ、別に」


 今度は自分の「別に」が、あまり別にではなかった。


 水月はそれを見逃さなかったらしく、少しだけ嬉しそうに笑った。


「じゃ、またあとで」


「ああ」


 水月が手を振って、廊下の向こうへ歩いていく。


 紘一はその背中を見送った。


 小学校の頃から、何度も見てきた背中だった。


 ランドセルを揺らしていた頃も。


 中学の指定鞄を肩にかけていた頃も。


 高校の制服になった今も。


 水月は、いつも近くにいた。


 近すぎて、それが普通になっていた。


 その普通がいつか変わるかもしれない。


 そう考えると、少しだけ落ち着かなくなる。


「……何考えてんだ、朝から」


 紘一は小さく呟いて、自分の教室へ向かった。


     ◇


 一時間目の前。


 担任の佐伯が出席簿を小脇に抱えて教室に入ってきた時点で、クラスの空気がざわついた。


 佐伯は三十代半ばの男性教師で、いつもは眠そうな目をしている。生徒からは「やる気がないようで、地味に見てる」と評されていた。


 実際、紘一も一度、授業中に机の下で文庫本を読んでいたら何も言われなかったのに、翌日の小テストだけ妙に当てられたことがある。


 あれは怖かった。


「席につけー。ホームルーム始めるぞ」


 佐伯が教卓を軽く叩く。


 生徒たちがばらばらと席に戻る。


 ただし、今日は全員の動きが少し早い。


 転校生。


 その単語には、妙な魔力がある。


 別に人生が変わるわけではない。大半の場合、自己紹介をして、席に座って、数日すれば普通のクラスメイトになる。それだけだ。


 それだけなのに、教室は期待してしまう。


 何かが始まるんじゃないかと。


 自分の日常に、ちょっとだけ違う色が混ざるんじゃないかと。


「今日は急だが、転校生を紹介する」


 転校生は、本当に来た。


 その瞬間、教室が小さく爆発した。


「マジで?」

「女子?」

「男子?」

「どっち?」

「かわいい?」

「お前それ本人の前で言うなよ」


 佐伯が出席簿で教卓を叩いた。


「静かにしろ。入っていいぞ」


 前の扉が開いた。


 入ってきたのは、少女だった。


 最初に目に入ったのは、黒い髪。


 肩の少し下まで伸びた、まっすぐな髪だった。癖がなく、光を吸うような黒。制服はきちんと着られていて、スカートの丈も、リボンの結び方も、まるで校則の見本写真みたいに正しい。


 綺麗だった。


 それは認める。


 認めるが、紘一は同時に妙なことを思った。


 綺麗すぎる。


 歩き方も、立ち方も、視線の向け方も、全部が整いすぎている。


 緊張して固まっている、というのとも違う。


 教室という場所に合わせて、最適な振る舞いを選んでいる。


 そんな感じがした。


 つまり、なんか、怖い。


 美少女転校生イベントとか言っていた水月に見せてやりたい。現実の転校生は、イベントというより、たまに謎である。


「サカキだ」


 佐伯が黒板に「姫月水無」と書きながら言った。


「家庭の事情で、今日からこのクラスに入ることになった。みんな、仲良くしてやってくれ」


 姫月水無。


 紘一はその名前を心の中で繰り返した。


 少女は教卓の横に立ち、教室を見渡した。


 いや、見渡したというより、確認した、という方が近い。


 黒板。窓。時計。机。生徒。担任。


 順番に視線を置いて、最後に正面を向き、目を細め、落とす。


「姫月水無です」


 声は澄んでいた。


 けれど、温度がなかった。


「よろしくお願いします」


 それだけ言って、頭を下げる。


 拍手が起こった。


 水無は顔を上げても、笑わなかった。


 緊張しているのかもしれない。


 そう思うこともできた。


 でも紘一には、それだけではないように見えた。


「席は……葉月の隣が空いてるな」


 佐伯が座席表を見ながら言った。


 紘一は思わず顔を上げた。


 おい。


 やめろ。


 そういうのは本当にイベントっぽくなるからやめろ。


 教室の後方、窓際から二列目。


 確かに、紘一の隣の席は空いている。新学期からずっと空席だった。なんとなく荷物置き場にしていたのだが、今日からそれは終了らしい。


 水無がこちらを見る。


 紘一と目が合った。


 黒い瞳。


 好奇心も、不安も、照れもない。


 ただ、静かだった。


 紘一は反射的に視線を逸らしそうになって、なんとなくやめた。


 負けた気がする。


 何にかは分からない。


 水無は鞄を持って、こちらへ歩いてくる。


 机の横に立ち、椅子を引く。


 音がしなかった。


 座る動作まで、やけに綺麗だった。


「よろしく」


 紘一は小声で言った。


 水無は紘一の方を向いた。


「よろしくお願いします」


 丁寧すぎる返事だった。


 そしてやはり、表情はなかった。


 それきり、会話は終わった。


 早い。


 会話終了まで三秒。


 自分のコミュニケーション能力にも問題はあると思うが、今のは相手にもだいぶ責任がある、そう思いたい紘一だった。


     ◇


 水無は、よく目立った。


 理由は単純で、綺麗だったからだ。


 そして、変だったからだ。


 二時間目の数学で、水無は教師に当てられた問題を黒板に解いた。


 速い。まるでスパスパと擬音が入っているかのように一瞬で解いていく。


 字が綺麗。まるで筆で書いたかのように達筆だった。チョークのはずなのに、どうやって?


 途中式に無駄がない。まるで答えをはじめから知っているみたいに、淀みがない。


 紘一なら途中で一回チョークを持ったまま天井を見るところだが、水無には黒板以外を見るそういう余白がなかった。


「姫月、よくできているな。前の学校でも進度は同じくらいだったか?」


「はい」


「数学は得意か?」


「必要な範囲は学習しており、その中でこの答えが正解であると考えたのですが、違うのですか?」


「……あ、うん。分かった」


 教師が少し困った顔をした。そして、それ以上聞こうとしなかった。


 クラスの何人かが笑う。


 悪意のある笑いではない。


 どちらかというと、「なんか変な子だな」という空気だった。


 席に戻る水無に、近くの女子が小声で言った。


「すごいね、姫月さん」


「ありがとうございます」


「数学好きなの?」


 水無は首を傾げた。


「好き、とはどういうことですか?」


「えっ」


「問題解決に適した知識であるとは判断していますが、それ以上に何か、私の行動に問題がありましたか?」


「ご、ごめん。変なこと聞いちゃったね。」


 会話が、そこで止まった。


 キャッチボールをしようとしたら、相手がボールの材質を分析し始めた感じである。


 紘一は横目でそれを見ながら思った。


 これはなかなか強敵だな。


     ◇


 昼休みになると、水無の机の周りには自然と人が集まった。


 転校初日の洗礼である。


「前の学校どこ?」

「部活とか入ってた?」

「好きな食べ物ある?」

「このへん初めて?」

「姫月さんって、珍しい名前だよね。下の名前なんて読むんだっけ?」


 質問が重なる。


 水無は一つ一つ、律儀に答えた。


「前の学校については、事情により詳しくお話しできません」

「部活動経験はありません」

「栄養補給に支障がなければ、特定の嗜好はありません」

「この地域については、資料で確認しています」

「珍しいというのは調査したことがないので不明です。名前は水無と書いて、みな、と読みます」


 沈黙。


 教室の空気が、じわっと困惑に傾いた。


 紘一は弁当箱を開けながら、その様子を横目で見ていた。


 すごい。


 ここまで会話のキャッチボールが成立しない人間を、紘一は初めて見た。


 だが、水無は困っているようには見えない。


 むしろ、周囲の反応をじっと観察している。


 その視線が、少し不思議だった。


 怖いというより、真剣すぎる。


 まるで、初めて見る生き物を前にしているみたいに。


 そんな感じだったからか、人が去っていくのもあっという間だった。


 水無は何事も無かったかのように、自分の席に座ったまま、食事の準備を進めていく。


 そのとき、教室の扉が開いた。


「紘一ー、お昼ー」


 水月が現れた。


 いつものように弁当袋を片手に、遠慮なく紘一の席へ向かってくる。


 ただ、今日は途中で足を止めた。


 水無を見たのだ。


「……うわ、美少女だ」


 水月は水無について、正直な感想を口にした。


 端正な顔立ち、白い肌、艶やかな黒髪。


 一見して、いや一見しなくても美少女だ。


 水月は、そんな美少女が、紘一の隣の席にいることに驚いた。


「転校生って、本当にいたんだ」


「噂好きだな」


「情報収集能力が高いと言って」


「はいはい」


 紘一と話す水月。だが、その視線が数回ほど水無に向けられる。


「ていうか隣の席なんだね」


「ここだけ空いてたからな」


「ふーん」 


 水月は、紘一が気づかないくらい、小さく口を尖らせた。


「別にいいけどね」


 誰にも聞こえず、誰にも向けられていない苦し紛れにも聞こえる言葉を水月は吐いた。


「……あれ」


 ふと、水月は水無の様子に違和感を覚え、表情を変える。


 転校生としての初日なのに、一人で黙々と食事を進める様子に不自然さを感じた。


 そして、あっと気付きを得るとともに、驚きにも似た表情と興味にわいた目を輝かせる。


 放っておけないものを見つけた時の顔。


 紘一はその顔を知っている。


 小学生の頃、校庭の隅で雨に濡れていた子猫を見つけた時も。


 中学の時、班決めで余った生徒を見つけた時も。


 水月はいつも、あの顔をした。


 水月は紘一の前の席を借りて、くるりと椅子を反転させた。


 その視線は、自然と水無へ向かう。


「姫月さん、だよね?」


 水月が声をかけた。


 水無は箸を止めた。


「はい。姫月水無です」


「私は皆瀬水月。隣のクラス。紘一の幼馴染」


 さらっと言ったその言葉に、近くの男子がにやにやした。


「幼馴染来た」

「はいはい夫婦夫婦」

「うるさいな」


 紘一が睨むと、からかっていた男子たちは笑って弁当に戻った。


 水月は少し頬を赤くしながらも、水無に笑いかけた。


「水無ちゃん、でいい?」


「はい。呼称は任意です」


「こ、呼称って」


 水月が一瞬固まる。


 気を取り直し、楽しそうに笑いながら話を続ける。


「まあいいや。じゃあ水無ちゃん、よろしくね」


「よろしくお願いします、皆瀬さん」


「水月でいいよ」


「……水月さん」


「うん」


 水月は満足そうに頷いた。


 紘一は卵焼きを口に運びながら、そのやり取りを見ていた。


 水月は、人との距離を詰めるのが上手い。


 押しつけがましくない。


 相手が戸惑っていても、笑って一歩だけ近づく。


 昔からそうだった。


「水無ちゃん、お弁当それだけ?」


 水月が水無の机を見る。


 水無の昼食は、購買で売っている無地のパンと紙パックの牛乳だけだった。


「必要量は満たしています」


「いや、そういうことじゃなくて……足りる?」


「午後の活動に支障はないと判断します」


「判断」


 水月は少し困った顔で紘一を見た。


 助けを求める目だった。


 紘一は肩をすくめる。


「足りるらしいぞ」


「そういう雑なまとめ方でいいの?」


「本人が足りるって言ってるんだから、俺が横から『足りてない!』って叫んだら変だろ」


「それは変だけど」


 その瞬間、水無が紘一を見た。


「葉月さん」


「ん?」


「私は、足りているのでしょうか」


「……いや、それ俺に聞く?」


「水月さんは不足を懸念し、葉月さんは充足を認めました」


「認めたっていうか、君がそう言ったからそうなんだろって話で」


「では、葉月さんの判断ではありませんか」


「うわ、面倒くさい方向に来た」


「紘一」


 水月がたしなめるように言った。


「初対面の女の子に面倒くさいって言わない」


「今のは心の声が漏れた」


「漏らさない」


 水無は二人を見比べた。


「面倒くさい、とは、処理に時間がかかるという意味ですか」


「だいたい合ってるけど、今は合ってないことにしたい」


「どうしてですか?」


 初めて、その言葉が出た。


 紘一の動きが止まり、水無を直視する。


 水無は本気だった。


 責めているのでも、からかっているのでもない。


 ただ、分からないから聞いている。


 紘一は少しだけ答えに詰まった。


「えーと……言葉には、意味以外にも空気ってものがあってだな」


「空気は気体です」


「そっちじゃない」


 近くで聞いていた女子が、ぷっと笑った。


「姫月さんって、絶対に真面目キャラだよね。答えがわからないと許せないタイプ」


「まだ今日来たばっかだろ」


 紘一は、「勝手に決めるんじゃない」と、少し強い目線で女子の方を見る。


 だが、女子はよほど自分の答えが面白いと思ったのか、言葉を続けた。


「いやー、分かるでしょ。これ絶対『どうして病』だよ」


「どうして病?」


 水無が首を傾げる。


 女子が笑いながら言った。


「なんでも『どうしてですか?』って聞いちゃう病」


「病気ですか」


「違う違う、あだ名みたいなやつ」


「不名誉ですか」


「ううん。ちょっと可愛い」


 彼女にとって、これは本音なのだろう。


 しかし水無を子馬鹿にするような感じも滲み出ていた。それを察したクラスメイトが苦笑いして、それ以上口を出すのをやめた。


 水無は黙って聞いていた。少し考えながら、口を開いた。


「可愛い、とは?」


「そこ聞くんだ!」


 教室にどっと小さな笑いが起きた。


 水無は困っているように見えた。


 でも、不快そうではなかった。


 むしろ、その笑いの意味を必死に理解しようとしている。


 紘一は、そんな教室の空気が嫌だった。


 はじめは揶揄う女子に対して強い目線を向けていたが、水無に嫌がる様子がないので、今はもう向けていない。


 そして思う。転校生は悪いやつではなさそうだ。それは間違いない。


 だが、変なやつだ。


 だからといって、こんな風に笑いものみたいにするのは、違うんじゃないか。


 ふと、紘一の脳裏に、ここではないどこかの教室の様子が思い浮かぶ。


 同級生に何か言われても、ただ苦笑いするだけで何も言い返さない少女。


 そして、そんな少女を見続ける紘一。


 それを思い出して、彼は頭を何回か振った後、弁当を食べることだけに集中することにした。


     ◇


 『どうして病』の話題が終わり、水月は自分の弁当箱を開けると、箸でミートボールを一つ摘まんだ。


「水無ちゃん、これ食べる?」


「それは水月さんの栄養摂取予定物ではありませんか」


「栄養摂取予定物」


 紘一は思わず吹き出しそうになった。


 水月に睨まれる。


「笑わない」


「無理だろ」


「無理でも我慢」


「はい」


 水月はミートボールを弁当の蓋に乗せて、水無の机に置いた。


「いいの。私、今日ミートボール多いから。はい」


 水無はそれをじっと見つめた。


「これは、譲渡ですか」


「うん。友達っぽいやつ」


「友達」


 水無が、その言葉を小さく繰り返した。


 ほんのわずかに、空気が止まった気がした。


 水月も、それに気づいたのか、声の調子を少し柔らかくした。


「嫌だった?」


「……判断できません」


「そっか」


 水月は困った顔をしなかった。


 笑った。


「じゃあ、嫌じゃなかったら食べて」


「……ところで」


「うん?」


「これは食べ物ですか」


 紘一と水無は一瞬、大きくずっこける様な感じがした。


 この転校生、持ってるなと紘一は思った。


「う、うん。うちのミートボールは冷凍のだけど、普通に食べられると思う」


「そうですか」


 さすがの水月も驚きを隠せなかったようで、少し言葉を詰まらせている。


 水月先生、負けないでと紘一は密かに応援した。


「どうして、水月さんは私に食べ物を渡すのですか」


 さすがに水月の思考が一度完全に停止する。


 そして数秒経ち、思考が戻ってから少し考えて、口を開いた。


「私が、そうしたいから」


「水月さんが?」


「うん。水無ちゃんが一人でパンだけ食べてるの見たら、なんか渡したくなった」


「なぜですか」


「放っておけないからかな」


 近くの女子が笑った。


「出た、水月の『放っておけない病』」


「お節介母さん発動」


「水月ねえさん、また世話焼いてる」


「うるさいなあ」


 水月は頬を赤くして、少し焦るような素振りを見せる。


 けれど、怒ってはいなかった。


「いいじゃん。私がそうしたいんだから」


 その言い方が、あまりにも自然だった。


 善人ぶっていない。


 正しいことをしているつもりでもない。


 ただ、そうしたいからする。


 紘一は、その横顔を見ながら少しだけ眩しいと思った。


 水無はミートボールを見つめていた。


 やがて、おそるおそる箸でそれを取る。


 ミートボールをまじまじと眺めながら、ゆっくりと口に運んだ。


 そしてじっくりじっくりと、噛む。噛む。噛む。


 そして、一思いに飲み込んだ。


 そのすべてにおいて、彼女は表情を変えなかった。


 そして飲み込み終えると、水無はゆっくりと口を開いた。


「味が濃いです」


「感想それ?」


「ですが、不快ではありません」


 水月の顔がぱっと明るくなった。


「よかった」


「どうして、水月さんは笑うのですか」


「水無ちゃんが食べてくれたから」


「それだけで?」


「それだけで」


 水無は不思議そうにしていた。


 けれど、その表情は少しだけ柔らかく見えた。


 紘一は、卵焼きを噛みながら思った。


 たぶん、水無は“分からない”のだ。


 人がどうして笑うのか。


 どうして食べ物を分けるのか。


 どうして冗談を言うのか。


 どうして、同じ言葉でも場面によって意味が変わるのか。


 知識がないのではない。


 人間の答えが一つではないことに、慣れていない。


 そんな気がした。


     ◇


 そのとき、佐伯が教室に入ってきた。


「葉月、姫月。ちょっといいか」


 紘一は顔を上げた。


「なんですか」


「クラス委員の件だ」


 嫌な予感がした。


 こういうときの嫌な予感は、だいたい当たる。


「今年のクラス委員だが、葉月、お前に頼む」


「嫌です」


「即答か」


「先生、今、俺の意思確認しました?」


「してない」


「じゃあ嫌です」


 教室から笑いが漏れる。


 佐伯は慣れたようにため息をついた。


「確認したら断るだろ」


「断ります」


「だから確認しない」


「ひどくないですか。そこは『葉月はどうしたい?』って確認してくれてもいいじゃないですか」


「去年も結局やってくれただろ」


「押し切られただけです」


「結果的にはちゃんとやる」


「それは性格の問題です」


「そういうところが向いてる」


「褒められてる気がしません」


 後ろの席から男子が笑った。


「出たよ、葉月の『君はどうしたい病』」


「また始まった」


「最近そればっかだよな」


「誰かが『別にいい』って言うと、絶対『本当に?』って聞くもんな」


「面倒くさいけど、まあ間違ったことは言ってない」


「感染すると厄介なんだよな」


「病気扱いするな」


 紘一は振り返りもせずに返す。


「自分のことくらい、自分で決めた方がいいだろ」


「ほら始まった」


「言ったそばから」


 教室がまた笑う。


 その笑いを聞きながら、水月が小さく笑った。


「……でも」


 その声だけは少し違っていた。


「紘一、昔はこんなんじゃなかったよね」


 紘一の動きが、ほんの少しだけ止まる。


「中学の途中くらいからかな」


 水月はそれ以上続けなかった。


 何気ない会話の調子だった。


 だからクラスメイトも深く気にしない。


「そうなの?」


「へぇ、昔は普通だったんだ」


「普通って何だよ」


 紘一は苦笑する。


「今も普通だ」


「いやいや」


「普通の男子高校生は、プリント配る係決めるだけで『君はどうしたいんだ』なんて言わないから」


「言うだろ」


「言わない」


「言わないね」


 教室のあちこちから同意が飛ぶ。


 紘一は肩をすくめた。


「……まあ」


 一拍置いて、静かに言う。


「人に決められるのって、嫌だろ」


 その声だけ、少しだけ笑っていなかった。


 水月は横顔を見る。


 何も言わない。


 言えない。


 その理由を知っているのは、自分だけだから。


 佐伯が空気を切るように咳払いした。


「話は終わりだ。葉月、お前は仮決定」


「俺の意思は?」


「聞いたら、やっぱり断るだろ」


「だから聞かないって、教育としてどうなんですか」


「次は姫月だ」


 佐伯は紘一を無視して、水無の方を向いた。


「姫月。女子のクラス委員を頼みたい」


「了解しました」


 その返事は、あまりにも早かった。


 一コンマの遅れもなく、あらかじめセリフとして決められていたかのようだった。


 紘一はそんな返事を聞いて、眉をひそめる。


 自分で決めた返事に見えなかったからだ。


「……ちょっと待ってください」


 教室が小さくざわつく。


 また始まったと、誰かが小さく笑った。


 けれど今度は、水月だけは笑わなかった。


 佐伯が眉を上げ、視線を公一に落とす。


「なんだ、葉月」


「今の、姫月の意思は確認しましたか?」


「了解しただろ」


「それは返事です。決めたかどうかは別です」


 教室のざわつきが大きくなる。


 水月が、ああ、と小さく息を吐く。


 また始まった、これはこじれるなあ。


 たぶん、そう思ったのだろう。


 紘一は水無を見る。


「姫月」


「はい」


「君はどうしたいんだ」


 突然の言葉に、水無は目を大きくして瞬きをした。


「どう、とは」


「クラス委員をやりたいのか、やりたくないのか。分からないなら分からないでもいい。でも、先生に言われたから了解しました、で終わらせるな」


「必要であれば、遂行します。自分の能力ならば、それが可能だと判断しました」


「そうじゃなくて」


 声が少し強くなった。


 自分でも分かった。


 けれど、止められなかった。


「必要かどうかじゃない。可能かどうかでもない。君が、どうしたいかだ」


 水無は黙った。


 教室の音が遠くなる。


 水月も、茶化していた男子たちも、今は黙っていた。


 紘一は続けた。


「すぐ答えろって言ってるんじゃない。分からないなら、考えればいい。答えが出るまで待てばいい。けど、自分のことを、自分抜きで決めるな」


 水無の黒い瞳が、紘一を見つめていた。


 そこには怒りも、反発もない。


 ただ、初めて見るものを前にしたような静かな揺らぎがあった。


「……分かりません」


 やがて、水無は小さく言った。


「私は、どうしたいのか、分かりません」


 紘一は、あっと思った。


 そして、またやってしまったと。


「なら、それでいい。


分からないって言えたなら、そこから考えられる」


 紘一は、それだけ返した。


 水無は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「考える」


「ああ」


「私が、私のことを」


「そう」


 教室の空気が、少しだけ緩んだ。


 どうやら話がひと段落つきそうだと思えたからだった。


 後ろの男子が小声で言う。


「重いけど、まあ筋は通ってるんだよな」


「葉月の面倒なところ出たな」


「でも今のはちょっと分かる」


「だから病気なんだよ。感染するぞ」


「感染させるな」


 紘一が言うと、教室に笑いが戻った。


 水月も、少し安心したように笑っていた。


 佐伯は頭をかきながら、ため息をついた。


「分かった。姫月、放課後までに考えてくれ。葉月、お前は仮決定な」


「俺の意思は?」


「嫌でもやるだろ、お前は」


「それはまあ……やりますけど」


「ほらな」


「腹立つな」


 水月が笑う。


 水無はまだ、考えていた。


 ミートボールの乗った弁当の蓋を見つめながら。


 まるでそこに、自分の答えが書いてあるように。


     ◇


 放課後。


 空は晴れていた。


 朝に降っていた雪まじりの雨は、跡形もなく消えていた。


 グラウンドには水たまりが残っていたが、そこに映る空は薄く青い。


 紘一は職員室で配布物の束を受け取り、教室へ戻る途中だった。


 隣には、水無がいた。


 結局、水無は放課後に佐伯へ「クラス委員を試してみます」と答えた。


 やりたいかどうかは分からない。


 でも、分からないから確認したい。


 そう言ったらしい。


 佐伯は少し驚いた顔をしてから、「じゃあ頼む」と頷いた。


 紘一は、それでいいと思った。


 いきなり立派な答えなんて出なくていい。


 自分で考えて、自分で試す。


 それだけで、たぶん十分だ。


「姫月」


「はい」


「昼のことだけど」


「クラス委員の件ですか」


「ああ」


 紘一は言葉を探した。


 言いすぎた。


 それはたぶん間違いない。


 初対面に近い相手に、いきなり踏み込みすぎた。


「あー……悪かった」


 結局、出てきたのはそれだった。


「ちょっと強く言いすぎた、ごめん」


 水無は少しだけ首を傾げた。


「葉月さんは、どうして謝罪するのですか」


「嫌な言い方をしたと思っているから」


「私は、嫌だと判断していません」


「そういう問題じゃなくて」


「では、どういう問題ですか」


「また『どうして病』か」


 紘一が言うと、水無は少しだけ瞬きをした。


「私は病気ではありません」


「知ってるよ。冗談だ」


「冗談」


「そう。今のは笑っていいやつ」


 水無は紘一を見た。


 そして、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑った、というには小さすぎる。


 だが、たぶん努力はした。


「……難しいです」


「だろうな」


「人によって、答えが違います」


「うん」


「水月さんは、私に食べ物を渡す理由を『そうしたいから』と言いました」


「あいつらしいな」


「葉月さんは、私が自分で考えるべきだと言いました」


「言ったな」


「佐伯先生は、放課後までに決めてほしいと言いました」


「あれもまあ、先生らしい」


「どれが正しいのですか」


 紘一は少し考えた。


 廊下の窓から、放課後の光が差し込んでいる。


 運動部の掛け声。


 吹奏楽部の音。


 誰かの笑い声。


 いくつもの答えが、同時に存在しているみたいだった。


「全部、正しいんじゃないか」


「全部」


「少なくとも、全部間違いってわけじゃないと思う」


「矛盾しています」


「矛盾してても、そういうもんだろ」


「どうしてですか」


「人間だから」


 言ってから、紘一は少しだけ照れくさくなった。


 水無は真剣に考え込んだ。


「……人間」


「あんまり深く受け取るなよ。俺も適当に言った」


「適当」


「そう」


「適当なのに、意味があるのですか」


「ある時もある」


「場合による?」


「学習早いな」


 水無は少しだけ目を伏せた。


「場合による」


 その言い方が妙に真面目で、紘一は笑いそうになった。


     ◇


 教室へ戻ると、水月が待っていた。


 鞄を肩にかけ、なぜか少し息を弾ませている。


「紘一、帰れる?」


「待ってたのか」


「うん。委員の仕事、初日から大変そうだったし」


 水月の視線が水無へ向かう。


「水無ちゃんも帰り?」


「はい。帰投予定です」


「帰投」


 水月は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。


「じゃあ、一緒に帰らない?」


 水無はすぐには答えなかった。


 紘一を見る。


 それから、水月を見る。


「それは、必要な行動ですか」


「必要かどうかで言うと、別に必要じゃないかな」


 水月は少し考えてから言った。


「でも、一緒に帰ったら、少し楽しいかもしれない」


「一緒に帰ると、楽しい?」


「うん。たぶん」


 水無は黙った。


 紘一は、何も言わなかった。


 昼なら、彼女は「必要であれば同行します」と答えたかもしれない。


 水無は、紘一の方を軽く見た。


 彼女なりに、紘一の「君はどうしたい?」を真摯に考えているということなのだろう。


 水無は考えた。


 自分がどうしたいのか。


 ほんの少しだけ。


 やがて、水無は言った。


「……分かりません」


 水月は頷いた。


「うん」


「ですが」


 水無は自分の鞄を手に取った。


「確認してみたいです」


 水月の顔が、今日いちばん明るくなった。


 紘一は、少し不審に思いながらも「さっきよりはマシか」と思った。


 悩むようなことではないだろうと思う一方で、彼女なりに悩んで出した答え。


 とても小さな一歩だが、前進したような気がして、紘一は少し嬉しいような気恥しいような気持になった。


「じゃあ、帰ろ」


 水月が言う。


 紘一は、自分のそんな感情が読み取られないよう、先頭を切って教室を出る。


 続いて、会話しながら水月と水無も。


 廊下を歩く。


 階段を下りる。


 昇降口で靴を履き替える。


 外へ出ると、空気はまだ冷たかった。


 けれど、朝ほどではない。


 校門へ向かう道の脇に、雨に濡れた桜の花びらが落ちていた。


 水月がそれを見つけて、しゃがみ込む。


「見て。雪みたい」


 水無も足を止める。


「これは桜の花弁です」


「分かってるよ。でも、雪みたいでしょ」


「雪は、白いです」


「真面目か」


 紘一が言うと、水月が笑った。


 水無は二人を交互に見た。


「どうして、桜を雪と表現するのですか」


「似てると思ったから」


「色が違います」


「色だけじゃなくてさ。落ち方とか、ふわってしてる感じとか」


「落下速度の類似ですか」


「急に物理」


 水月は笑った。


「でも、そういうことかも」


 水無は桜の花びらを見つめた。


 薄い桃色の花びら。


 濡れたアスファルトの上で、すぐに踏まれてしまいそうな、小さなもの。


「春の雪ってさ」


 水月が立ち上がりながら言った。


「すぐ消えちゃうよね」


「そうだな」


 紘一は朝のニュースを思い出した。


 積もらない雪。


 残らない雪。


「消えるから、綺麗なのかも」


 水月が言った。


「そういうもんか?」


「うん。たぶん」


 水無が、小さく口を開いた。


「消えるものは、価値が低いのではありませんか」


 水月は首を横に振った。


「逆じゃない?」


「逆」


「消えちゃうから、ちゃんと見ておきたいんだよ」


 風が吹いた。


 桜の枝が揺れて、数枚の花びらが落ちてくる。


 水無は、それを目で追った。


 花びらは、白い雪のようにゆっくりと落ちて、地面に触れた。


 そして、そこに残った。


 朝の雪とは違って。


「水月さん」


「うん?」


「私は、今日のことを記録するべきですか」


「したいなら、すればいいと思う」


「したいかは分かりません」


「じゃあ、覚えておけば?」


「覚える」


「うん。記録じゃなくても、覚えてるだけでいいことってあるよ」


 水無は黙った。


 それから、小さく頷いた。


「では、覚えます」


「例えば?」


 水月が尋ねる。


「ミートボールの味が濃かったこと」


「そこ?」


「水月さんが笑ったこと」


 水月が少しだけ黙った。


「葉月さんが、面倒くさいと言ったこと」


「それは忘れてくれ」


「葉月さんが、私に考えるよう言ったこと」


 紘一は何も言えなかった。


「それから」


 水無は、落ちた桜の花びらを見る。


「桜は、雪に似ている場合があること」


 水月はゆっくり笑った。


「うん」


 その笑顔を見て、紘一は思った。


 この帰り道は、たぶん何でもない一日だ。


 特別な事件は起きていない。


 世界が変わったわけでもない。


 ただ、転校生が来て、昼にミートボールをもらって、クラス委員を考えて、三人で帰っている。


 それだけだ。


 それだけなのに。


 紘一は、なぜかこの放課後を、もう少し見ていたいと思った。


     ◇


 校門を出る頃、水無がふと足を止めた。


「どうした?」


 紘一が尋ねる。


 水無は校舎を振り返っていた。


 夕方の光を受けた校舎の窓は、赤くにぎやかな色合いをしていた。


 部活の声もまだまだ響いている。


 廊下に残る生徒たちも大勢いた。


「学校は、複雑です」


「まあ、そうだな」


「多くの人がいて、それぞれ違う判断をしています」


「そうだな」


「同じものを見ても、違う答えを持ちます」


 水月が柔らかく言った。


「うん」


「どうしてですか」


 また、どうして。


 けれど今度は、誰も笑わなかった。


 水無の声が、少しだけ違っていたからだ。


 知識を求める声ではなかった。


 答えを一つに定める声でもなかった。


 まるで、分からないことそのものを初めて大事に持とうとしているような声だった。


 紘一は少し考えてから言った。


「分からないから、面白いんじゃないか」


「分からないことが、面白い」


「たぶん」


 水月が笑う。


「紘一、またたぶん」


「高校生の言うことなんて、大体たぶんだろ」


「それもたぶん?」


「たぶん」


 水月が笑った。紘一も、それにつれて小さく笑った。


 少し遅れて、水無が二人を見る。


 そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


 笑った、というにはまだ小さい。


 でも、確かに何かが動いた。


「たぶん」


 水無は小さく繰り返した。


 そして、三人は歩き出した。


 春先の冷たい風の中を。


 まだ何も知らないまま、三人で。


 水月が前を歩き、振り返って何かを言う。


 紘一が面倒くさそうに返す。


 水無が、その二人を見ながら「どうしてですか」と尋ねる。


 笑い声が、夕方の道にほどけていく。


 これから沈む夕日だけが、三人を照らし続けた。


「じゃあ、また明日ね」


 分かれ道で、水月が手を振りながら言った。


 紘一は片手を上げる。


「ああ、また明日」


 紘一と水月が、水無の方を見る。


 水無は、少し考えた素振りを見せて、遅れて口を開いた。


「また、明日」


 その言葉は、たどたどしかった。


 けれど、確かに彼女自身が選んだ言葉だったと思う。


 紘一は、少しだけ笑った。


「ああ。また明日」


 それだけの言葉を交わして、三人は別れた。


 春先の雪は、積もらない。けれど、降らなかったことにはならない。


 確かに今日、彼女は教室にやって来て、三人で同じものを見て、言葉を紡いで、そして一緒に帰ったのだった。


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