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フェリシアがローボの埋葬先に選んだのは、一ノ峰の頂上、もっとも見晴らしのよい、もっともローボが愛した場所だった。その場に立ってみるとよくわかる。山脈の外ではなく尾根筋に視線を向ければ、木々の合間に登り口から続く洞穴の出口が見えた。
ローボはいつもこの場所にいた。いつでも、フェリシアが来るのを待っていたのだ。
埋葬するための穴はカミルが掘った。二ノ峰を彷徨ううちにフェリシアはほとんどの荷物を失くしていたから。表面の雪を払い、凍てついた土を魔術で大きく削り取る。そこに魔狼の黒い身体を横たえた。
「ローボ……」
乾いた血で固まった毛を解すように梳る。フェリシアは先ほどから緑の瞳が溶けてなくなってしまうのではないかと思うほどに涙を零し、しゃくりあげていた。
「ローボ、ローボ……」
フェリシアが切なく名前を呼びながらローボの遺体に取り縋り泣いている。その後ろで、カミルは静かに首を垂れ死を悼んでいた。
ローボはカミルにとってもひとつのあるべき姿だった。魔性でありながら、完全に衝動を抑え込んでいた。ただフェリシアと共にあるために。彼女がここまで信頼を寄せるのだから、ただの一度も魔性としての浅ましい姿を見せたことがないのだろう。それくらい完璧に抑え込んでいた。何度も引きずられたカミルと違って。
「ローボ、ごめんね……ごめんね……愛してるわ……」
土をかけたあと、碑は置かなかった。フェリシアがそれを良しとしなかった。山で生まれた狼は山の大地に還る。そして再び山に生まれる。その循環に重石をすることを良しとしなかった。均した土を愛しげに撫でながらフェリシアは哀切を帯びた掠れる声で呟く。
「ローボはわたしの家族でした。父が亡くなってひとりになって……とても寂しかったんです。でも山に来ればローボがいた。気まぐれで、誰かが一緒だと絶対出てこないのに、ひとりの時は必ず寄り添ってくれた……わたし、今度こそ本当に、ひとりになってしまいました……」
小さな背中が震えている。カミルは後ろから華奢な肩を抱き、腕の中に閉じ込めた。
「わたしを、わたしを囮にすればローボは逃げられたんです……わたしが、いたから……」
「だとしても、貴女を置いて逃げるなんてこと、ローボには出来なかった」
「でも」
「フェリシア、聞いて」
カミルは腕の中でフェリシアの身体を反転させ正面から向き合った。小さな手を取り自分の胸に押し当てる。
「貴女に名を呼ばれると『ここ』が充たされる。ひとりではどうにもならない飢餓感が癒されるのです。貴女が私を人に戻したように、ローボもまた、本来の狼としての性を取り戻した。狼は自らの群れを大切にし、生涯にただ一頭だけの番を持つといいます。貴女にとってローボが家族であったように、ローボにとっても貴女はただ一人の家族だったんです」
愛する家族を囮になど出来るはずがない。フェリシアがローボを置いて逃げなかったのと同じように、ローボもフェリシアを置いて逃げなかった。ひとりと一匹は間違いなく家族だったのだから。
フェリシアの唇が震え、嗚咽が零れた。丸い頬を後から後から水滴が滑り落ちる。
「フェリシア、たくさん泣いて。今なら私が貴女の涙を拭えるから」
そういえば、とカミルは思い出す。自分はあの時に泣かなかった。両親を、家族とも言える団の仲間を失ったあの時にも、カミルは一滴の涙も流さなかった。そういう心はすべて魔素に喰らい尽くされて、虚に塗り潰されてしまっていた。ならば今、一緒に泣けばいいのではないか。今なら泣けそうな気がする。
小さな身体を抱き寄せて乱れた髪に頬ずりをした。フェリシアの嗚咽を胸で受け止めながら、カミルは一粒だけ涙を零す。
二十年越しの、弔いの涙を。
***
自然と手を繋いで歩いていた。フェリシアは何度も山頂を振り返り、カミルもその都度立ち止まってじっと待つ。急ぐ必要は何もない。レオンハルトは心配しているかもしれないが、二ノ峰に溢れた魔性は大半をカミルが片付けてしまったし、虎視眈々と機会を狙っていた三ノ峰の輩も奥へと引いた。これでしばらく氾濫が起きることもないだろう。
登り口出口の岩棚にたどり着いた時、カミルは躊躇いがちに口を開いた。
「フェリシアさん」
「はい」
「もしまた、虚に引きずられて、戻れなくなりそうになったら……また会いに来てもよろしいですか」
正直、弱みに付け込んでいるという自覚はある。寂しいと訴えたフェリシアが山を下りて誰かを見つけてしまう前に、囲って閉じ込めてしまうのだ。今はいっぱいに充たされたこの虚も、またすぐに空っぽになるだろう。そのたびにフェリシアを求めて嘆くくらいなら、卑怯と罵られることも厭いはしない。
「カミルさま」
「はい」
「戻れなくなっても、会いに来てくださいますか?」
残酷でこの上なく甘美な誘惑だった。
フェリシアの緑の大きな目が見上げている。カミルはゆっくりとその場に跪いた。冷えた手を取り指先にくちづける。
「少し、惨いことを言います」
これを告げるのは勇気がいる。魔性の群れに立ち向かうことよりも。
「……私は貴女を食べたいのです。貴女の瞳を抉り出して、舌の上で転がして食んでみたい。この指の一本一本に齧り付いて咀嚼したい。貴女の涙を、血を、啜って喉を潤したい。私は、私は……!」
「カミルさま」
フェリシアの細い指がカミルの唇に添えられた。ゆっくり唇の端から端までをなぞり、そっと先を口中に含ませる。
「食べたい、ですか?」
「……とても……でも……我慢します。我慢、できます。食べたら、貴女はいなくなってしまう。貴女が私の一部になるだとか、私の中で生き続けるだとか、そんなくだらない幻想は持てません。貴女がいなくなってしまう。その喪失に私はきっと耐えられない」
ローボのように。
ローボもきっとそうだった。フェリシアに与えられた名で、フェリシアに甘く呼ばれるたびに、ローボの虚は充たされた。だからこそ、己が魔性の衝動をねじ伏せ浅ましい欲望に耐えてでも、彼女の傍らに侍ったのだ。
充たされる喜びを知った。この喜びは他の何事にも代えがたい。
「カミルさま、わたし、カミルさまが怖いです」
「はい」
「いつか食べられてしまうと思うと、とても怖い……なのに、カミルさまの朱い瞳をまた見てみたいとも思ってしまうのです。だから――」
フェリシアが切なく笑う。春の日だまりのように穏やかで、冬の空のように透き通った、何よりも誰よりも美しい顔で。
「だから、たくさんたくさんカミルさまをお呼びしますから、どうかまた、会いにいらしてください」




