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宵の姫君  作者: さら更紗
Ⅰ 幻の村
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Ⅰ 幻の村 ー1

 早く、早く

 自分を急かすように頭はそう思うのに、身体(からだ)は意に反して動かない。それでも這うように森の中を進んだ。

 着ていたドレスの裾は邪魔だったので、途中で破り捨てた。

 君の笑顔とよく合う色だと、つい先日婚約者が贈ってくれたものだったのに。

 ……どのみちドロドロになって、もう着れたものではなかったが。

 それにしても、こちらで合っているのだろうか。

 頼れるのは自分の知識と、母の言葉だけだ。

 いつもは鷹揚な母の必死な顔を思い出す。

 あんな顔は初めて見た。

「針森に行きなさい。そこでランという人を頼って」

 兵士たちの怒号。「妃と公女を探せ!」という声が二人の耳にも届いた。母は娘の手首をきつく掴み、くっつきそうなほど近くに顔を寄せ、押し殺した声で言った。

「ラン様に会うまでは、誰も信じては駄目よ」

 母にそう言われて、自分は為すすべもなく、穴の中に押し込まれたのだった。


 ズルッと足を滑らせて、山肌を滑りかけた。慌てて伸ばした手が、何とか地面から飛び出た木の根を掴む。脛を擦ったのか、ジンジンと熱くなったが、確認する余裕もなかった。

 気を散らせては駄目だ。

 昨日の雨が、そこら中をぬかるみにしていた。足を取られては、滑落しかける。

 下まで落ちて、骨でも折ったら、終わりだ。

 しかも、今日も天気がいいとは言えない。どんよりした空から、今にも雨粒が落ちてきそうだった。

 焦って落ちれば死んでしまうが、かといって時間をかけすぎ、雨に降られれば、身体を冷やして危険な状態になるだろう。

 痛む足を木の根にひっかけ、懸命に身体を持ち上げる。

 その時、目の前を不意に大きな動物が横切った。驚いてまた足がぬるりと滑ったのと、その動物が美しい鹿であることを認識したのが同時だった。

 地面に投げ出され、嫌というほど身体を打ち付けた。ぬかるんでいるとはいえ、木の根や枝、石がごろごろしており、容赦なくそのやわ肌を傷つけた。

 ……雨が降り出した。

 冷えていく身体は痺れて動かない。彼女にはもう起き上がる力が残っていなかった。

 ……お父様。お母様。

 ぐったりと横たわった彼女の耳に、何者かの足音が聞こえてきた。目はもう瞑ってしまっていたから、それが何かも分からなかったが、不思議と怖いとは思わなかった。

 迷いなく、力強い足音。まっすぐこちらに向かってくる。

 わたしはあんなに苦労したのに、随分早く歩けるのね。

 そんなことを思いながら、彼女の意識は完全に暗闇に落ちていった。


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