終幕 ユリア・ジークリンデ ⑬
その瞬間、ユリアは固まる。
何をやっているの、私は。
言い返せ。言い返せ。
これでは、彼からいじられることは満更でもないと認めていることになる。
ほら、早く──。
「もちろん、慣れない雰囲気に戸惑っていたせいで、お前は怒れなかったのかもしれない。あるいは、お前が満更でもないように見えるのは、俺の願望のせいかもしれない──。それでも、俺は……お前の反応に甘えて縋ってしまう。だから、矛盾した言動をしてしまうんだ」
「……」
心の中では言い返したいと思っているのに、ユリアの口からはその言葉が出てこない。
時が止まったかのような彼女を見て、セウェルスは面白そうに息をつき、「だんまりか」と言いながら小さく笑った。
「──このことは誰にも言わない。だから、お前もテオドルスには告げ口しないでくれないか。俺にいじられるのが好きだなんて、誰にも知られたくはないだろう? 俺も、あいつから睨まれながら暮らすのは勘弁願いたい。睨まれるだけで終わるはずがないからな」
テオドルスという男は、たとえ誰であろうとユリアへのちょっかいを許さない。このことが彼に知られれば、確実にテオドルスはセウェルスに制裁を加えるだろう。
いや、待ってほしい。
「……テオには言わない──けれど、少し待って。私は、まだ何も肯定していないわ」
きっと、心が『風邪』を引いているせいだ。彼の雰囲気の温度差が激しかったせいで──。
ユリアがそう答えると、セウェルスは少しだけ残念そうな顔をしながら微笑んだ。
「……そうか。ならば、『今は』そういうことにしておこう。この手の話題は、ユリア・ジークリンデにはまだ早かったみたいだな」
「なにかしら、その言い方は……?」
ユリアは睨む。
しかし、彼は楽しそうに「くくっ」と笑い、話題を変えた。
彼の気配が、普段のものに戻った。
「──それにしても、自分の本音や正直な感情をしっかり表へ出せるようになったものだな。素直にコロコロと表情を変えるなど、昔とは大違いだ」
「昔と比べたら変わったとは思うけれど……それは、あなたやルキウスも同じでしょう。出逢った当初のあなたとルキウスは、感情を知らずに生きてきた人なのかと勘違いしたほどだったもの」
「あの頃の俺達は、本音を隠すことが当たり前になっていたからな……。俺達の人間らしい心など、世の中には必要とされていないものなのだと感じていた……」
彼がそう感じていたのは、誰もセウェルスとルキウスの心に触れようとはしなかったからだ。
彼らが生まれた時代は、神への信仰心が強かった。強い力を持って生まれた人や星霊は、神に愛されて生まれた者だとして崇められた。
信仰を向けられれば、そのような存在として振る舞わなければならない。崇められたことに胡座をかいて、邪なことをすれば、神への愛に背いた者とみなされ、信仰者は敵へと変わる。酷い場合、神を侮辱した者として殺される。
「必要が、ない……」
ユリアは、手を強く握りしめる。
セウェルスとルキウスは、人間でも星霊でもない存在だ。それでも、この世界は守るべきものだとして愛していた。
だから、人間や星霊から信仰対象となることを素直に受け入れ、望まれるがままに振る舞っていた。
しかし、ふたりは自身が抱く欲望を長きにわたって封じていたことで、自分の望みが何なのかがわからなくなり、『自分』を見失ってしまった。
やがて、兄弟は自分の感情すらも見失い、心優しくとも『冷たい』人となっていった。
ふたりは、言葉にできない苦しみを確かに持ちながらも、それを隠し続け──いいや。自身の感情をどのように表に出せばいいのか、その方法を知らなかったのだろう。助けを求める方法すら知らないまま生きていたのだと、ユリアは思った。
だからこそ、同じ〈きょうだい〉であるディゼーリオやレティエムには、何も言えなかったのだろう。唯一、心に触れてくれそうな人にも助けを求められなかった。
そのような精神状況であっても持ち堪えられたのは、セウェルスには弟のルキウスがおり、ルキウスには兄のセウェルスがいたからだ。
やがて兄弟は、同じく周囲のために心を封じていたユリアと出逢う。境遇に似たところがあったため、ユリアはふたりの心を見つけた。兄弟の心に触れ、響きあった。
「……大丈夫よ、セウェルス。もうそんな日常はやってこないわ。私があなたの日常を守る」
「まったく……。俺が先に言いたかった台詞を、さらりと言われてしまうとはな──」
セウェルスは肩を落としながら微笑むと、ちらりと広間の奥のほうに目をやった。その後、すぐにユリアと目を合わせる。
「俺も、お前を守る。たとえ、敵が神であったとしても……」
そして、彼はゆっくりと息をついてユリアにある頼み事をする。
「……ユリア・ジークリンデ。少しの間だけ、俺を抱き締めてくれないか。昔のことを思い出していると……急に寂しくなってな」
「……少しだけなら……どうぞ」
ユリアは、彼が急に甘えてきたことに驚いたが、いたずらを企んでいる様子には見えない。今の彼は、本当に寂しい雰囲気を漂わせている。
ユリアが両手を広げると、セウェルスは彼女のにゆっくりと抱きついた。
(この人が甘えてくるなんて、珍しいわね……)
いじってくる人とはいえ、甘えられることは嫌ではない。むしろ、たまにでもいいから甘えてほしいと感じる。
ずっと寂しくて辛い思いをしながらも、記憶にない『約束』を果たすために頑張ってくれたのだから。もう少し素直に自分を甘やかしても罰は当たらないはずだ。
(……? って──ちょっと待って! 今、何時!? ダンス講師のおふたりが来られる時間まで、あとどのくらい!?)
ダンス講師のおふたりとは、ユリアとセウェルスそれぞれに教えてくれる男性講師と女性講師だ。
いろいろあったため、レッスンの時間のことが頭からすっかり抜けてしまっていた。
いけない。彼には早く立ち直ってもらわねば。
互いに抱きしめ合うなど、傍から見ればただの恋人──。
「……あ、あの……。そろそろお邪魔してもよろしいでしょうか……?」
「廊下にいると、職員の方々から不思議そうに見られてしまうので──そろそろ……」
「ひッ!?」
遠くの扉から顔を覗かせているのは、セウェルスよりも少しだけ年上の男性と女性。
嫌な予感が的中してしまった。どう言い訳をすればいいのか。その前に、いつから見られていたのか──何も考えられない。
「なんだ、その悲鳴は……。もう少しくらい見せつけてやろうと思っていたんだが──」
と、なにやら残念と言いたげな声でセウェルスは言った。
「し、知っててわざと甘えてきたのね!?」
「急に心が寂しくなったのは事実だぞ」
「それでも、これからやってくる先生がたのことを考えてちょうだい! なんなの、もう! あなたという人は本当に……!」
ユリアは、両手でセウェルスの頬をつねる。
彼は「痛いからやめろ」と言って、彼女の手の動きを止めようとしている。が、その姿は楽しそうでもあり、嬉しそうだ。
もしかして、この人、私に怒られることが好きなのかしら──ユリアの目にはそう映った。
「ねえ、まさかとは思うけれど……あなたは、私に怒られたいからこんなことをするの……?」
「そうだが?」
「……」
さらりと言わないで。何を言ってるのかしら、この人。ふざけるのも大概にしなさい。
そんな言葉が出てきそうなほどに、ユリアの目は怒りに満ちており、目にも止まらぬ速さでセウェルスの頬をまたつねった。
「悪かった、謝るから。……だが、仕方がないんだ。昔のお前は、思うがままに感情を表わすことができなかったが、今はそれができている──それが嬉しくもあり、素直に表情を変えるお前が可愛いと思ってしまうんだ」
「──」
彼の言葉は、口からでまかせな言い訳ではない。純粋な喜びと祝福だった。
なにより、いつもの微笑みとは違った。普段の彼からは見られない無邪気さがあったのだ。
その笑みに、ユリアは思わず彼の頬から手を離すも、何も言い返せなかった。そのことに喜びを感じるのは、ユリアも同じだった。
素直に表情を変えられるようになったのは、あなたもでしょう──。
(……甘く接したら、さらに調子に乗るかもしれのないのに……)
ユリアは、生まれる前から自由を封じられた運命に翻弄されていた。
過酷な選択を選ばなければならず、どうしようもなく淀みきった『黒い心』を抱えながらも、背負うものを守るために、一度は死を選んだ。その後、アイオーンの力によって生き返ることはできた。
だが、彼女の複雑な生い立ちからくる精神は、ついに限界を迎えていた。生き返った時のユリアの心は、自分でもどうすることもできないほどの闇に覆われてしまっていた。
その闇から、自身は呪いを生み出していた。それは、一月ほど前に両親が解いてくれた。
しかし、淀みはまだある。過去は変えられない。薄まっていくだろうが、消えることはない。
それでも、心を覆っていた闇を払うことができた。心に淀みがあることを認めて、抱えながら歩いていける。『本当の自分』を見つけることができたから──。
彼は、そのことを心から喜び、祝福してくれている。
それが、この無邪気な微笑みだ。
「先ほどまでのことは悪かった。明日、焼き菓子を作るから機嫌を直してくれ。要望があれば何種類でも作る」
「私は子どもではないのだけれど?」
食べ物で釣ろうとするとは。
ユリアは不服そうに目線をそらす。
「子どもでなくても、お前も好きだろう? 俺も好きだから、一緒に食べないか? あと、あの時にお前が作ってくれたリゾットもまた食べたい。エレスドレアへ着いた日に作ってくれた、あの魚介類のリゾット──」
「……どうして?」
「俺達が、『家庭』というものを理解できた日に作ってくれた食事だからな……。ルキウスもまた食べたいと言っていた。お前さえよければ、また作ってほしい」
「……わかったわ。……もう」
ふたりは、共感し合える人や、帰りたいと思える家というものに、心のどこかで憧れを抱いていたのだろう。
セウェルスとルキウスの言う〈きょうだい〉とは、特殊な生まれ方をしたということが同じでも、それ以外は『他人』だ。
ディゼーリオとレティエムとは関わりが深かったが、彼らはふたりの心の壁を越えることはできなかった。
それを察したユリアは、心に沸いていた怒りの感情が少しずつ萎えていった。案外、セウェルスに甘えられることに弱いのかもしれない。
一方その頃、ダンス講師たちは困り果てていた。
勇気を出して存在を主張し、相手はようやく気付いてくれたのに、また入りづらい雰囲気を作ってしまった。
また、割り込んで声をかけないといけないのか──。




