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第5章:先輩との約束

『なぜ頬を赤らめるの、愛しい人よ。

二人の絆の証として、その手を私に差し出すことを』

ーエドムンド・スペンサーー

「林くん、最近ちょっと働きすぎじゃない?」


一条先輩は手を止めると、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。


「そうですか? まあ、夏休みは暇な時間も多いですし、少し多めに働こうかなって」


「でも、無理はしちゃ駄目よ。ちゃんと眠れてる?」


「まあ、一応。昨日も六時間は寝ましたし」


「『一応』かぁ……それで十分なのか、ちょっと心配ね」


一条先輩は困ったように微笑んだ。


「ところで、一条先輩は最近、何か面白い本を読みましたか?」


「そうね……最近、『ジェーン・エア』を読み返したわ」


「シャーロット・ブロンテですか。いいですね。十九世紀の小説って、恋愛だけじゃなくて、当時の社会の様子まで描かれているところが面白いんですよね」


「林くんも好きなの?」


「はい。特に十九世紀のイギリス文学が好きです。でも、どちらかというとウォルター・スコットのほうが好みですけど」


そう答えると、先輩の目がぱっと輝いた。


「実はね、最近、自分でも小説を書いているの」


「えっ、本当ですか?」


「うん。ヴィクトリア朝時代を舞台にした恋愛小説なの。もう五か月くらい書き続けているんだけど……」


先輩は少し恥ずかしそうに目を伏せ、言葉を途切れさせた。


「もしよかったら……読んでみてくれない?」


思いがけない頼みに、僕は一瞬、言葉を失った。


「僕が読んでもいいんですか? 文学の専門家ってわけでもないですし……」


「もちろん! 林くん、本の話をするときはいつも詳しいでしょう? だから、ぜひ感想を聞いてみたいの」


先輩は、ふいに頬をほんのり赤く染めると、戸惑ったように両手をもじもじと絡ませた。


そんな先輩の姿を見て、僕の心臓は今にも爆発しそうだった。



やめてくださいよ、先輩……! 一日中働いてクタクタになった僕に、そんな可愛い仕草を見せられたら……



もう、耐えられませんって!





――でもちょっと待って、これって、もしかして……?



いや、落ち着け、林和志。先輩はただ、自分の小説を読んでほしいと言っているだけだ。僕に特別な気持ちがあるとは限らない。


「もちろんです。ぜひ読ませてください」


「本当? よかった!」


一条先輩はほっとしたように笑った。その笑顔を見ていると、僕まで嬉しくなってしまう。


「じゃあ、来週の金曜日はどう? 神田のドロットで、まだ働いているんでしょう?」


先輩が僕のバイト先を知っていることに驚いた。

けれど、そういえば数週間前、先輩の友達がそこで僕を見かけたと言っていた気がする。


「はい。たぶん、2時50分くらいには終わると思います」


「じゃあ、午後3時ごろに持っていくね」


「わざわざ、そこまで来てくれるんですか?」


「うん。直接、渡したいから」


そう言うと、先輩は少しだけ視線を逸らした。


「それに……もう少し、林くんとお話ししたいし」


「えっ?」


思わず聞き返してしまった。


先輩は慌てて両手を振った。


「ち、違うの! 小説の感想を聞きたいってこと! それに、ほかにもいろいろお話ししたいことがあるし!」


「そ、そうですよね。楽しみにしています」


僕たちは顔を見合わせ、ほとんど同時に笑い出した。


「じゃあ、約束だからね?」


「はい。約束です」


先輩が小指を差し出したので、僕も自分の小指を絡めた。


子供じみた約束の仕方だ。それなのに、なぜだか、とても大切なもののように感じられた。


「林くん、ちゃんと体には気をつけてね。その約束を破ったら、許さないんだから」


「分かりました。先輩も働きすぎないでくださいね」


「ふふっ、ありがとう」


そのとき、廊下から声が響いた。


「林くん、ちょっと手伝ってくれないか?」


森教授だった。


「あっ、はい! 今行きます!」


僕は慌てて返事をした。


一条先輩は、僕を少し名残惜しそうに見つめながら微笑んだ。


「お仕事、頑張ってね」


「ありがとうございます。一条先輩も」


先輩が立ち去ろうとした、そのとき。何かを思い出したように、突然こちらを振り返った。


「あっ、そうだ、林くん。もう一つ、伝えたいことが――」


「林くん! 早く!」


教授が再び呼んだ。


「あっ、ごめんなさい! それはまた今度、聞かせてください!」


僕は先輩に手を振ると、急いで廊下へ駆け出した。


背後から先輩の声が聞こえたような気がしたけれど、振り返る余裕はなかった。


――来週の金曜日。


先輩の小説が読める。そして、また先輩と話ができる。


そう考えるだけで、僕の心は少しだけ温かくなった。




ーーーーー

「林くん、地下書庫Cの整理をお願いできるかな?」


一条先輩と約束を交わした直後、森教授からそう頼まれた。


「地下書庫Cですか?」


「そうだ。八年前に寄贈されたアレクサンドル・デュマの蔵書が保管されている場所だよ。目録の作成が途中で止まっていて、それ以来、ずっと手つかずのままなんだ。来週までに蔵書の確認を終わらせてほしい」


「分かりました」


僕は頷いた。


アレクサンドル・デュマといえば、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で知られるフランスの作家だ。僕も何冊か読んだことがあるし、古い本の整理自体は嫌いではなかった。


ただし、地下書庫Cには一つだけ問題があった。


とにかく、暗いのだ。


地下深くにあるその書庫には窓がない。蛍光灯も設置されているはずなのだが、扉を開けてみると、中は真っ暗だった。


「……あれ?」


壁に手を伸ばし、電灯のスイッチを探る。


カチッ。


……何も起こらない。


「故障かな?」


もう一度押してみたが、やはり明かりはつかなかった。


仕方なく、スマートフォンのライトを点ける。細い光が、棚にぎっしりと並んだ古い本の背表紙を照らし出した。


紙と埃の匂いが鼻をつく。


「さて、どこから始めようか……」




その日が、僕が元の世界で過ごす最後の日になるとは、そのときの僕は知る由もなかった。


(次回に続く)

注釈:なし

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