第1話 嫁が魔王の娘だった件
僕の妻は、たぶん世界で一番強い。
ついでに言うと、義父は魔王だ。
——そう、僕はとんでもない女性と結婚してしまったらしい。
困ったことに、僕はそんな妻を守りたいと思っている。Dランクのくせに。
「ちょっとあんた、いつまで寝てるのよ!」
耳元で響く声に目を開けると、壁の時計が目に入った。ギルドの集合時間まで、あと三十分しかない。
「ご、ごめんティナ! すぐに準備する!」
僕は急いで荷物をまとめようとした。
が、剣と盾は壁に立てかけてあり、外套はきちんと畳まれてテーブルの上に載っていた。
昨日、脱ぎ捨てたまま寝たはずなのに……
振り返ると、すでに支度を終えた妻が腕を組んで立っていた。なぜか顔が赤い。
「べ、別に、少しでも長く寝かせてあげようとかじゃないんだから! これ、お弁当ね! 宿の女将さんに作ってもらっておいたわよ!」
早口にそう言って、ぷいと横を向いた。
銀色の髪が朝の光を受けて揺れる。
そんな妻の仕草を純粋に可愛いと思ってしまった。
——こんな美人が、なぜ僕なんかと結婚したのか。
何度目になるかわからない疑問が頭をよぎる。
僕はランクD止まりの平凡な冒険者で、剣の腕も普通に振れるという程度だ。
一方の妻は、見た目こそ華奢な美少女だが、魔王の娘である。
釣り合わないという言葉は、たぶん僕たちのためにある。
「早くしないと、シドに何を言われるかわからないわよ!」
ティナは僕が靴を履き終える前に部屋を出て、階段の途中で何度も振り返った。
慌ただしく後を追って降りていくと、食堂のテーブルを拭いていた女将さんが手を止めた。
「奥さん、今朝も旦那さんを甘やかしてるねぇ?」
「甘やかしてなんかいません! ただ、こいつが手のかかる夫ってだけで……!」
「女将さん、お弁当ありがとうございます」
「気を付けて行くんだよ!」
女将さんは僕の背中をぱぁんと叩いた。
よろけながら宿の扉を開けると、そこら中の屋台から湯気と煙が上がっていた。
「ねぇ、ライル。あれが食べたい!」
「えっ、急いでるんじゃなかった?」
「あんたがゆっくりしてたから朝ごはん食べてないんでしょ。私はあれが食べたいの!」
ティナが指さしたのは、タレをつけてじっくり焼いた串焼きの肉だった。
炭の煙と、甘辛いタレの焦げる匂いが流れてくる。
寝起きの僕にとっては、正直、ちょっと重たい……
「朝からあれを食べるの!? というか、昨日も同じもの食べてたよね?」
「美味しいものは毎日食べても飽きないの! それに私は育ち盛りだからいくら食べても平気なの!」
結局、合計八本の串焼きを購入した。
ちなみに、僕は一本しか食べていない。
両手に串焼きを持ったティナは、目をキラキラさせて歩いていた。
僕はそれを横目に、市場の人混みを抜けてギルドへ向かった。
ギルドの扉を開けると、木のジョッキがぶつかる音と、依頼の取り合いで怒鳴る声が押し寄せてきた。
「よう新婚さん。遅ぇよ」
カウンター近くの椅子に腰掛けていたシドが、軽く手を上げた。
革鎧の上から短剣を二本提げた、見慣れた幼馴染の姿だ。
「ライルさん、ティナさん、おはようございます!」
その隣で、白い神官服姿のクレアがぴょこんと頭を下げた。
「で、今日も奥さんに甘やかされてきたのか?」
シドがにやりと笑う。ティナが即座に反応した。
「別に甘やかしてないし! というか、さっき宿の女将さんにも言われたんだけど!」
「自覚していないのな……」
「クレアもシドに何か言ってやりなさいよ!」
「ライルさんとティナさんはいつも仲良しですね~」
「そうじゃないでしょ!!」
受付嬢のミレイユさんが、カウンターの奥でくすくす笑いながら依頼書を差し出してくれた。
今日の依頼は、東の森の魔物の間引きだ。
出てくるのはゴブリンやコボルドばかりで、Dランクの僕たちでも危険は少ない。
……そのはずだった。
「なぁ、ライル。お前また盾が変わってねえか?」
森へ向かう道すがら、シドが僕の左腕を覗き込んだ。
「あ、うん。前のやつは壊れちゃったんだよね……」
「ったく、しょっちゅう壊すよな。あんまり無茶すると、またかみさんに怒られるぜ」
「怒ってるんじゃないわよ。心配してるの!」
ティナがシドを睨んだところで、ふいにシドが足を止めた。
「……この森、なんか静かすぎねぇか?」
言われてみれば、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
僕たちが枝を踏む音だけが、やけに大きく響いていた。
「なにか来るわよ!」
ティナが身構えた。
少し開けた場所に出た瞬間、頭上を影が覆う。
遅れて、叩きつけるような風。
木々を激しく揺らして、それは上空から舞い降りた。
「ワイバーンだと!?」
ワイバーンはこのあたりに生息するような魔物じゃない。
Bランクが数組がかりで挑む相手だ。
Dランクの僕たちに勝ち目なんてあるはずがない。
剣の柄を握る手が、じっとりと汗ばんでいた。
ワイバーンの尾が、ゆっくりとしなった。
その先にいるのは、聖典を抱えたまま立ちすくんでいるクレアだ。
——だめだ。
気づいたときには、僕の足は駆け出していた。
クレアの前に割り込んで、盾を構える。
巨大な鞭のような尻尾が盾を砕き、そのまま僕の身体を薙ぎ払った。
「がはっ!」
勢いよく飛ばされ、激しく背中を打ち付けた。
——息ができない。
視界の端が白く滲んでいく。
音が遠い。
かすむ視界の隅に、尻もちをついたクレアの白い神官服が見えた。
よかった。無事だ。
とどめを刺そうと前脚が振り上げられる気配だけが、やけにはっきりと伝わってきた。
——あぁ、ティナごめん。約束、守れそうにないや……僕は死を覚悟した。
だが、その前脚は振り下ろされることはなかった。
代わりに、空気が変わった。肌がひりつくような重い何かが森に満ちていく。
頭上のワイバーンが、ぐ、と喉を鳴らして動きを止めたのがわかった。
「よくも私のライルを!!」
声だけが、遠い水の底から届くみたいに聞こえた。
かすむ視界の中で、赤い光がふたつ揺れている。
それがティナの目だと気づくのに、少しかかった。
風が鳴った。
何かが潰れる音がして、生温かいものが雨みたいに顔に降ってくる。
それきり、ワイバーンの気配は消えていた。
「……おい、嘘だろ」
シドの声が、掠れていた。
「……は、はえっ」
クレアの間の抜けた声が、やけに遠くで響く。
「ティナさん、今何をしたんですか!?」
「え、えっと。きっと火事場の馬鹿力ってやつよ! それよりライルに回復魔法を!」
「あっ、そうですよね! すぐ手当しますね!」
温かい光が身体を包んだ。
腹の底からじわじわと熱が広がって、白く滲んでいた視界が少しずつ戻ってくる。
最初に見えたのは、首から先のないワイバーンだった。
その向こうで、森の木々がなぎ倒されている。
「ライルさん、ごめんなさい。わたしが動けなかったから……」
「ううん。クレアが無事でよかった」
「よくないわよ!」
ティナの声が飛んできたが、続きはなかった。シドとクレアの前だからだろう。
「こいつは俺たちだけじゃ運べねぇな……。ギルドの運搬係を呼んでくる。放っといたら別の魔物が寄ってくるからな」
シドはそう言うと、討伐の証拠としてワイバーンから鱗を二枚はぎ取った。
「クレアも来い。お前たちは少し休んでろ」
二人の背中が森に消えて、ティナと二人きりになった途端……
「あんた、無茶しすぎよ!! 普通の人間だったら即死していてもおかしくなかったわよ!」
「ごめん……」
「毎回ああやって無茶して、怪我して。……ライルがいなくなったら、私生きていけないんだからね……」
矢継ぎ早に放たれた言葉が徐々に小さくなっていく。最後は消え入りそうな声だった。
「うん。ごめんね」
「どうせまた無茶するんでしょうけどね! まぁそこがあんたらしいんだけどね」
「ありがとう」
「別に褒めていないわよ!」
ティナは腕を組んで横を向いてしまった。
ギルドへ戻った僕たちに奇異の目が向けられていた。
「あいつらがワイバーンを討伐したって?」
「あいつらDランクだろ? 本当かよ?」
僕たちが居心地の悪さを感じる中、ティナだけはなぜか胸を張っていた。
「よう! お前たち、またやらかしてくれたんだってな! 今度はワイバーンか!」
豪胆な声で話し掛けてきたのは、この冒険者ギルドのギルドマスターだった。
元高ランクの冒険者だとひと目でわかる、筋骨隆々の大男だ。
「前のやつも驚いたが……またとんでもないものを持ち込んできやがったな」
そこで、ふっと声が低くなった。
「……冒険者稼業に命の危険はつきものとはいえ、やはり若いもんが命を落とすのは耐えられんからな。よく帰ってきてくれた」
「ありがとうございます。なんとか無事に戻ってこられました」
……ティナがジト目で僕を見ていた。
ギルドマスターは、どうやって討伐したのかを一切聞かなかった。
ただ、無事に帰ってきたことを喜んでいるようだった。
「ワイバーン一頭分の素材だ。ギルドで買い取らせてもらう。金貨三十枚でどうだ」
「さ、三十枚!?」
思わず声が裏返った。
隣でシドが椅子から滑り落ちそうになっている。
「おいライル、俺たちが一年働いても銀貨で数十枚だぞ」
僕たちが青ざめている横で、ティナだけがきょとんとしていた。
「……ねぇ、それって串焼き何本分?」
「え?」
「だから、何本買えるのよ」
真顔だった。
僕は必死に頭の中で計算した。
串焼きは一本銅貨二枚だから——
「……一万五千本、くらいかな」
ティナの目が、かつてないほど輝いた。
その帰り道で新しい盾を買った。
ティナが「今度は壊さないでよ」と念を押してきたけれど、それはたぶん無理だと思う。
宿に戻ってきた僕とティナは並んでベッドに腰かけていた。
「今日、あんたが怪我をしたとき、私、この世界のすべてを破壊してもいいって、本気で思ったの」
僕は息をのんだ。
「だって、ライルがいない世界なんてなんの意味もないじゃない……」
なんて声を掛けたらいいのかわからなかった。
ただ、彼女の手は小刻みに震えていた。震える手に、そっと自分の手を重ねた。
「……ばか」
しばらくして、消え入りそうな声でそう言った。
僕の妻は、たぶん世界で一番強い。
ついでに言うと、義父は魔王だ。
だけど今、僕の隣で震えているのは、ただの一人の女の子だった。
◇◆◇◆◇
その日の深夜。
静まり返った冒険者ギルドの地下解体所。
厳重に鍵がかけられたはずのその場所に、音もなく一つの影が滑り込んだ。
影は、解体台に横たわるワイバーンの死骸を見下ろす。
胴体の鱗や皮は上質な状態を保っていたが、頭部だけが何らかの異常な圧力で、えぐり取られたように吹き飛んでいた。
「Dランクの冒険者が討伐した、だと? ……くだらん」
影は死骸の胸に腕を沈め、血に濡れた黒い球体を引き抜いた。
「核の暴走による自壊か。やはり飛竜種の器では、保たんな」
球体を懐にしまうと、影は興味を失ったように死骸へ背を向けた。
「まあいい。……本命の『オーブ』は、村ですでに育ちつつあるのだから」
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