空色のリボンは解けない
石の壁が囲う薄暗く息苦しい空間。ひんやりと冷たい床に男は腰を下ろしていた。両手足を縛る鉄の拘束具が行動を妨げている。
辺りはカビと鉄臭さで満ちていた。
その檻の中で赤銅色の髪の男は、黒い眼光を光らせていた。その目には不安も焦燥も映ってはいない。
見張りの兵士は男の鋭い視線に舌打ちをする。
「粋がっていられるのも今のうちだ。」
水の入った桶を檻に向かって勢いよくかけた。
髪や服がへばりつき男の屈強な体が浮き彫りになる。それを見下ろしながら兵士は言う。
「獣も繋がれてたら、可愛い仔犬同然だなあ。」
嘲笑の混じる声。だが男は気にしない。
ポツ、ポツと天井から滴り落ちる雫の音が響く。
男は仰ぎ見てから、その雫を躊躇いなく口で受け止め飲み込んだ。
「……不味い。」
兵士は固まる。
「だが喉が渇いていたし、助かった。次はもう少しマシなの寄越せ。」
兵士は空の桶を檻に投げつけた。
「……ふざけるな!囚人風情が!」
音を立てて転がる桶を尻目に、男は背後の壁を見上げる。
天井近く小さな通気口が空いている。鉄の格子がついたそれから漏れる光を静かに見つめた。
「……殴り損なったな。」
男は小さく呟いた。
「いや、殴るどころか殴られそうだ。」
そしてふっと笑った。
「黙れぇ!」
ガン!ガン!ガン!
地下牢に檻を蹴る音が響いた。
茶色の瞳が映すのは窓から見える空。
涙ぼくろが印象的な黒髪の男は、空を眺めたまま動かない。
「いつまで私を放置するつもりかしら?」
その声に男の肩が反応した。
男の視線が声の主に移る。
男の膝の上には薄紅色の緩いウェーブがかかった長い髪の女が乗っていた。女はその翠の瞳を細め、男の胸元に爪を立てた。
「……カイ。」
名前を呼ばれ、カイは少し怯む。
その姿に女は「ふふふ、何その顔。」と笑う。
「……セリナ様に名前を呼ばれるというのが、どうもまだ慣れなくて。」
カイはため息混じりだ。
「黒曜くんに戻しましょうか?」
それは聞き慣れた呼び名だった。
「いや、石に戻るのは……ちょっと。」
カイは首を摩る。
セリナは胸元に擦り寄りながら囁く。
「じゃあ、早く慣れてちょうだい。」
カイは目を細めつつ「この際、他の人に対しても名で呼ぶ努力をなさってください。」と返す。
「イヤよ。」
セリナはすかさず否定する。
カイはわざとらしくため息をついた。
「それより、セリナ様?あなたの話では、そろそろ俺は兄妹と感動の再会を果たしている筈なんですが……」
その言葉にセリナは俯いた。
「そうね。私の見立てだと、この屋敷で再会は済んでる筈ね。……そう本来ならね。」
自分の使用人と私兵だったカイの義兄妹。
殺人鬼の伯爵にその妹が召し上げられかけた折、なんとか兄共々逃し、カイを含め仲間の協力のもと伯爵を破滅まで追い込んだ。
作戦の立案時からセリナには成功するという確信があった。
だからこそ実行前にカイのため、二人をなるべく早く屋敷に戻そうと伝書鳩を通じて知らせたのだ。セリナの思惑ではもう到着していても何ら可笑しくない。
なのに二人は現れない。
せっかく憂いが無くなり心が通じ合ったというのに、カイはこのところ心ここに在らずだ。
カイの視線がまた逸れる。
その瞳が映すのは空。
「……セリナ様でも予測つかないことって、あるんですね。」
セリナはその頬を両手で引き寄せる。
また視線が戻ってきた。セリナは微笑む。
「あら、ごめんなさいね?でも私は商人なのよ。予言者ではないわ。……それに、できることはしたもの。」
コン、コン。
室内に音が響く。セリナの手が離れたのを良いことに、カイの視線がまた移った。
窓を見て動かないその横顔に、不満を抱きながらもセリナは扉を見やる。
「入りなさい。」セリナの声に扉が開いた。
中に入るのは栗色のおかっぱ頭と、黒髪のおかっぱ頭の侍女二人。重たい前髪のせいで、目元が見えない二人はお互いに手を取り合い立っている。
「あら紫ちゃん。ご機嫌ね?」
セリナの声に「ナナです。」とカイが小さく否定した。
栗色の髪から覗くそばかす顔のナナ。いつもはカイが居るだけでどこか不機嫌だ。なのに今は大きく口元を歪ませている。
「キャハハ。ごめんなさい。セリナ様〜。でもあんまりにも、いい気味だからさぁ!」
肩を大きく上下して笑うナナに、黒髪の侍女がオドオドと止めに入る。
「……ナナ可哀想だよ。」相変わらず小さな声だ。
「オパールちゃん。説明してくれる?」
またかとカイは「リリです。」と小さく返す。
リリはカイを気にするように落ち着きがない。
「ミナとリクたぶん待っても……来ない。」
カイが固まる。
セリナは目を丸くしながら「ローズちゃんと柘榴くんに何があったの?」と聞き返した。
ナナが嬉々として話し始める。
「ミナが今度は王子様の目に留まったんだよぉ〜。あの子何回目よ。伯爵の次は王子って、狙ってんの?」
ナナはカイを逆撫でするように意地悪く続ける。
「無理やり連れて行かれそうになって、リクが手を出しちゃったんだってぇ。ばっかじゃないの!カイ!あんたの努力も水の泡ね!キャハハハハハ!」
ナナの高笑いが響く。
「……」
黙ったまま動けずにいるカイ。
その横顔に向かって、セリナが口を開いた。
「……できることはしたわ。でも行路を外れられたら――ね?」
カイは片手で顔を覆う。
「あんの単細胞……」
奥歯を噛み締めるカイ。
笑うナナの声を掻き消すように、パンッと音が鳴る。
セリナが手を叩いたのだ。
部屋は静まり返り、視線がセリナに集まる。
「まあ、起こったことは仕方ないわ。時間は有限。嘆く時間が勿体無いわ。紫ちゃんはお父様に書簡を送るから、準備してくれる?王都へカイと向かうから、オパールちゃんは馬車とか諸々準備してくれるかしら?」
ナナとリリは敬意を持って礼をとる。
『はい。セリナ様。』
セリナが立ち上がり、カイの顔を覗き込む。
「他でもないあなたのためだから。もう一回手を貸すわ。勿論行くわよね?」
セリナは微笑んで手を差し出す。
その手を見つめながら「さすがセリナ様……この状況で迷いがないのですね。」と呟いた。
「ええそうね。まだ柘榴くんが生きているなら、諦めるのは早いでしょう?」
セリナの表情は変わらない。
カイはその手をとる。
「そうですね。元より俺に選択権もないですし……」
立ち上がったカイは、また窓の外を見る。
「なんで兄妹揃って手がかかるのか。とりあえず、今度は俺が殴る番ですね。」と愚痴を溢した。
「その前にお父様に会わないといけないわ。」
セリナの言葉にカイは「……」答えず動かない。
「柘榴くんを殴る前に、お父様に殴られないように気をつけなさい。」
これには流石に驚いたようだ。僅かに反応して、ゆっくりカイがセリナを見る。
「なぜ俺が?」
セリナは満面の笑み。
「さあ、何ででしょう?」
絨毯が敷かれた部屋の椅子に座って、女は戸惑っていた。水色のリボンで、その長い金髪を二つに束ねている。女の纏うドレスと比べると不釣り合いなリボンだ。
目の前のティーカップをただ見つめ、女は動けずにいた。紅茶は冷めきっていた。出された時の熱はもうない。
「……リク。」女のか細い声が部屋に落ちる。
コン、コン。
空色の瞳が扉を映す。返事をする間もなく、扉が開いた。侍女が頭を下げ入ってくる。
その手には花瓶いっぱいの真っ白なゼラニウムが花開いていた。
侍女の後ろから、コツ、コツと床を叩く音と何かを引き摺る音がする。侍女から発した音でないのは明らかだ。
女はハッとしてその手を握りしめ俯いた。
机のティーカップが下げられ、目の前に花瓶が飾られる。
侍女はティーカップを手に部屋を出た。
侍女が離れる音と入れ替わるように、床を叩く音と引き摺る音が近づく。
女の傍に来ると音は止んだ。
音がした方に視線を移す。
黒で統一された革靴とローブ、そして金の装飾が施された杖が映る。
「……なぜこちらを見ない?」
女の肩が小さく跳ねた。
手の震えを隠すように女は両手を握りしめ、ゆっくり顔を上げた。
白金髪の長い前髪を分けた男。その灰がかった紫色の瞳がこちらを睨んでいた。
きっちり首元まで閉めた上衣とマントは見るからに上等な生地だ。金糸の刺繍に大きな宝石が目を引く。
扉近くに控えた護衛。
その全てが男がやんごとなき位だと示していた。
「外に出た時にふと見かけた花を摘ませたのだ。」
男が顎を軽くあげた。
女は目の前の花を見る。真っ白な大輪の花だ。
「お前に似合う。喜べ。」
女は上擦る声で答える。
「……ありがとうございます。でも、それよりも。殿下お願いです。私たちをお許しください。」
その言葉に男は顔を近づけた。
瞬きもしない男の確かな圧が全身を包んでいく。女は動くことができず、固唾を飲む。
「私に危害を加えておきながら?」
男の低い声に、女は両手を胸の前で握りしめる。
「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳あ、んんっ?!」
その声を遮るように、男の手が女の口元を塞いだ。
――痛いっ!
心臓が早鐘を打った。
「あの赤毛には相応の罰を与え、処刑する。」
男の無情な言葉に胸が締め付けられる。
――嫌。殺さないで。
女の瞳から大粒の涙が溢れる。
その涙が滴り落ちる前に、男はすかさず手を引っ込めた。
「……汚い。」
男は杖を小脇に支えて、ハンカチを取り出し手を拭く。
「まあ、お前は運が良い。俺の妾にしてやろう。美しく産まれたことを感謝するんだな。」
――嫌。私にはリクが……
女の頬に涙が停めどなく零れ落ちる。
――リクは私を妹としてしか見てない。でも……
「……妾にはなれません。私はすでに伴侶がいます。」
震えながらも女は嘯いた。男の手が止まる。
「あの赤毛か?」
女は頷く。
「あれは死ぬ。問題ない。」
鼻で笑う男に、女は必至に思案した。
この状況を打破する言葉を絞り出す。
「私たちはルミエール男爵家の侍従です!」
「……ルミエール?」男は首を傾げた。
「ああ、そういえばあのうつけが贔屓にしてる商会。あれは確かルミエールと言ったか……」
男の目は蛇のように女を見つめる。
女は唇を震わせた。
「あのうつけが兄だなんて、身の毛がよだつったらない。そんな兄につく輩も同じだ。」
女は震えながら「違います。ルッルミエールは、中立の立場だと聞き及んでおります。」と返した。
「さすがは平民だな。浅はかこの上ない。」
舌打ち混じりに続ける。
「いずれルミエールはあのうつけを支持する。なんとも腹立たしい。だがルミエールか……」
男の口が歪む。
女は自身の失言にやっと気づいた。
――ああ、ごめんなさい。馬鹿で、役立たずで。
「何かに使えるかもしれないな。」と男の欲望に染まった声が部屋に満ちていく。
女はまた大粒の涙を溢す。
その目を閉じると二人の男が並ぶ。同じ背丈。だがそれぞれ違う黒色と赤胴色の髪。
二人はこちらを見て微笑んだ。
黒髪の男が「みーちゃん」と優しく呼ぶ。
――カイごめんね。結局巻き込んじゃった。
赤胴髪の男が「ミナ」とぶっきら棒に呼ぶ。
――リク。リク。ごめん。何で私はあなたを守れないんだろう?
バシャッ!ボトト……。
頭に落ちる冷ややかな衝撃に現実に引き戻された。
ミナは目をゆっくり開けた。濡れた髪が顔に張り付き、滴り落ちる水にドレスが濡れていく。
膝や足元にはゼラニウムが落ちていた。
白い花弁が濡れて、重く沈んでいる。
目の前のそれを見て息が一瞬止まった。
男は花瓶を机に戻した。
「……男の事は忘れろ。ルミエールはついでに消す。その間にお前は、その薄汚い髪留めを捨てろ。」
コツ、コツ、ズズズ、コツ、コツ……。
音が遠のいていく。
だが扉が閉まるまで、ミナは動けなかった。
また部屋に一人、取り残された。
ゼラニウムを手に取る。
「昔から目立つだけが取り柄だった。……大事な人も、大好きな人も。みんなに不幸を振り撒いて、何もできない。」
その茎を持つ手に力が入る。
「ママ。だから私――貴方に捨てられたんだね。今なら分かるよ。」
部屋の中にミナの弱々しい声が沈んでいく。
コン、コン。
また侍女が入る。今度は三人。
手際よく片付けられていく。
水気を少し拭って、着替えるためにミナを立たせそのドレスに手をかける。
ミナはされるがままだ。
侍女の一人が髪のリボンに手をかけた。リボンが解かれた途端に、ミナはそれを奪い返して抱きしめた。
侍女は戸惑いながら「捨てるよう言付かっています。」と告げる。
「お許しください。これだけは……お願い。」
震えるミナの切実さに、侍女たちは顔を見合わせた。
「私共がお伝えしたという事実、ゆめゆめお忘れなきよう。」
再び侍女たちの手が動き出した。
ミナは「……ごめんなさい。」と呟いた。
それは何に対してなのか。誰にも分からなかった。




