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断罪された悪役令嬢は、なぜか隣国の美しい王子様に支配され溺愛されます。【※ただし、冤罪ではない】  作者: 重井 愛理
一章

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9話:悔恨の時

 彼の顔を見つめる。

 書類に向ける真剣な眼差し。暖炉の炎が、瞳の縁を微かに照らす。


 私は筆を握ったまま、動けなかった。描くべきルイスの容姿は、まるで精緻に研磨された氷像のように、完璧に整いすぎている。

 形の良い眉は一本たりとも乱れず、その下には、長い睫毛が濃い影を落としていた。まるで夜の闇に映える月光のように通った鼻筋は、冷たい光を反射し、整然とした顎の線は、知的な王国の支配者としての意思を鋭く物語っている。


 キャンバスに描いた髪の根元に筆を近づける。あの燃えるような色彩をどう表現すれば、彼の狂愛を捉えられるだろう。


 ふと彼が顔を上げて微笑む。

 私は、キャンバスに視線を落として、定まらない筆を無造作に滑らせた。


 解錠に必要な数字の手がかりはまだ何もない。

 彼の腕の中で、食事と移動を繰り返す。彼の執着の源泉を実感してしまったことで、身体と視線は日増しに熱を帯びていく。

 ティータイムに、鍵の数字を探るため、探るような質問を投げかける。生まれた日も、趣味も、好きな食べ物も、彼のことを段々と知っていく。知れば、離れられなくなる。


 焦りをよそに時間だけが過ぎていった。




 一週間後、まだ彼の肖像画は完成していない。


 朝の着替えを終えた私は、ルイスに抱かれてダイニングホールへと向かった。

 膝の上で、ブリオッシュのフレンチトーストを食べる。シロップが口の中で甘く蕩けていく。


 彼は、少し思案した後、給仕にハーブティーを用意させた。清涼感のあるツンとした香りが広がる。

 私は、その香りを優雅に堪能してから飲み干した。


「結構なお手前でしたわ。この上なく芳醇な香りに心癒やされました。」


 二度目の脱獄計画で多くの血を失った私だったが、その日、ようやく体温は戻り身体も活力を取り戻した。

 小さく伸びをする私に、彼は手を差し伸べた。


「今日は公務にも余裕がある。僕と……また踊ってくれないか?」


「それは——」


 言い淀む私に、彼はわざとらしく首を傾げて顔を覗き込んだ。


「運動不足では、いざというときに困るだろう?」


 ルイスは私が逃げ出すことを期待しているのだろうか。彼のことは分からないことだらけだ。

 私は困惑の上から笑顔を貼り付けて、彼の手を取った。




 舞踏室で彼と向かい合う。ダンスシューズに履き替えた私は七日ぶりに自分の足で大地に立っていた。


 二人だけの広大な空間で、ゆったりとワルツが始まった。

 腰に添えられた手が、所有されているという甘美な絶望感を刺激する。彼の温度が、ドレス越しに私の肌に焼き付く。それは、周囲の静謐な空気さえも溶かしてしまうほどの、強固な熱だった。


 三拍子のリズムは、しなやかな鎖のようだった。

 彼が私をリードし、回転させる。スカートがふわりと舞い上がり、次の瞬間には、引き寄せられて胸と胸が触れ合う距離に戻される。解放と緊張の狭間を往復する。息が詰まる感覚に、心臓の鼓動が速くなっていった。


 彼は、須臾(しゅゆ)として私から視線を外さなかった。それは、ダンスの作法ではなく、美術品を欠片も見落とすまいとする、鑑賞者の視線だった。

 私は意識を逸らそうと、上気した頬で目の前の踊りと旋律に集中し続けた。


 やがて音楽が止まった。長い運動を終えた身体に、心地よい疲労感が広がる。


 息を吸って、舞踏室を見渡した。窓は修繕され、亀裂も血痕も全く残っていなかった。

 彼の愛は、あの日の記憶を上書きしようとしていた。


「ありがとう。僕の麗しいアリエル。至福の時間だったよ。」


 ルイスは、私を見つめたまま言った。

 きっと今、私は熟れた果実よりも真っ赤になっている。


 彼がふいに背を向けて、扉の方へ歩き出した。

 彼の顔が見えなくなる。どうしてか、夜の森で道に迷ってしまったような心細い気持ちになった。


 走って追いつこうとした、その時。

 ステップを踏み続けた足がもつれて、前のめりに転びそうになった。

 私は、咄嗟に視界に入った頑強な支柱を掴んだ。




 這ってでも逃げ出す、そう考えていた。

 わかってる。それは現実的ではないと。ただ、その決意だけは本気のつもりだった。

 けれど、今、私の無意識は床に這いつくばることではなく、彼の胴体に縋り付くことを選んだ。


 がっしりとした広い背中。突然もたれかかった私の重みに動じる事なく受け止めてくれた背中。

 白檀とローズマリーの香りに混じって、微かに汗の匂いがした。

 背中に耳を当てる。ほんの僅かな湿り気と共に心臓の音が聞こえた。私と同じように激しく拍動している。

 私にはそれら全てが不快には感じられなかった。


「アリエル……?」


 心音とは裏腹に、低く優しい声で私の名前を呼んだ。

 たった一週間前に私の演技に騙されたばかりだというのに。その声には何の疑念も込められていなかった。


 その事実に、びくりと大きく全身が震えた。悲しくもないのに目から熱い雫がこぼれ落ちる。

 もはや体幹を維持する力も残されていなかった。骨組みだけになってしまった身体で、崩れ落ちてしまわないように必死に彼にしがみついた。


 私の震えが収まるまで、彼は後ろ手に腰元を静かに撫で続けてくれた。

 理性の膜が、使命が、その熱でまた溶かされていく。

 どうして、私はこんなにも弱いのだろう。




 その翌日も、私は執務室に陪席して、肖像画を描き続けていた。じっとキャンバスを見定めて無心で背景を描く。


 昼下がり、ノック音が響き給仕人が入室した。


「殿下。お茶をお持ちしました。」


「……ありがとう。君の淹れてくれたお茶があれば捗りそうだ。いつも感謝しているよ。」


 ルイスは手を止めて、穏やかな微笑を湛えた。

 彼女は深々と頭を下げた。緩んだ口元でティートレイを握りしめている。


 テーブルに、ティーカップとマドレーヌを恭しく並べていく。音を殺した流れるような動作は、彼の執務を微塵も妨げなかった。

 スプーンをテーブルに置く前に、彼女は背後を見渡すように首を振った。


 その時、彼女と目が合った。

 瞬間、静寂を破るように破裂音が鳴り響いた。それは、トレーから滑り落ちたカップが、机の角に当たり砕け散った音だった。絨毯に飛散した破片が、照明を反射してキラキラと光った。


「申し訳ございません!!」


 彼女は震える手で破片を集めようと、その場にしゃがみ込んだ。

 彼はその手を制止して立ち上がらせた。


「気にしなくていい。君にケガはないか?」


「は、はい……。」


 彼の視線は、熱湯で濡れた給仕服の袖口に向けられていた。


「火傷にならないように洗い流しておいで。」


 紅茶は、私のキャンバスも赤く染め上げた。はっとして、彼女を見上げた。赤い髪と対照的な青ざめた顔で、肩を小刻みに震わせていた。


(この子は、私が逃げようとして傷つけた——。)


 私は、不安定なヒールで立ち上がった。少しでも姿勢を崩せば倒れてしまいそうだ。それでも。


「ごめんなさい……!あなたへの仕打ちを、私は決して忘れない。償いを、させてほしい。」


 腰を曲げて頭を下げた。全身の筋肉に力をこめて、歯を食いしばる。


「お、お気になさらないでください!!」


 私の言葉は、却って彼女を萎縮させてしまったようだった。国賓という扱い、王子の客人という立場が重くのしかかった。

 彼女は、ルイスに何度も頭を下げると、執務室から飛び出していった。



 扉が閉まるのを見届けた私の身体は、陶器の破片が敷き詰められた絨毯に引き寄せられていった。

 刹那、絨毯と私の間に、彼が身体を滑り込ませた。


 鈍い衝撃音が響き、ルイスが床に倒れ伏した。彼の胸の上に、私の身体が完全に覆いかぶさる。彼は呻き声を喉の奥深くに押し込め、呼吸を止めて私を受け止めた。


「大丈夫かい?」


 問われたのは私の安否だった。私は弾かれたように彼の上から飛び退いた。


 彼は、乾いた絨毯に尻餅をついた私の前に、ごく自然に右の手のひらを向けた。しかし、指の付け根から一筋の赤い液体が流れ出たのに気づくと、彼は右手をさっと引っ込めた。その代わりに、左手で私を抱き起こした。


「君とは顔を合わせないように注意を払っていたんだけれどね。僕の落ち度だ。」


 ルイスは怪我などなかったかのように、血も拭わずに私を力強く抱いてソファに座った。

 私の頭を肩へ引き寄せると、淡々と経緯を語り始めた。


「彼女には十分な額の慰労金を提案した。それでも彼女は自分の意志で働き続けることを選んだんだ。」


 彼女は痛みもなく意識を失ったはずだ。だけど、私の手刀は、彼女の職務への誇りと歓びを切り裂いた。

 一方で、私はこの甘い檻の中で、後悔で傷つく自由もない。


「確かに君は彼女に酷いことをした。でも……それも君の覚悟を見誤った僕の責任だ。」


 彼は紅茶で濡れたテーブルを、悲痛な表情で見つめた。



 ”罰”は確かに最初、私を給仕人から隔離し、尊厳を打ち砕いた。

 今、その意味は変質してしまった。肌が触れ合い、互いの体温だけが通じ合う、二人きりの時間。


 ——それは、私にとっては、もう。


 彼の傷ついた右手を、私は両手で包み込んだ。

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